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古城の暗影  作者: 牧亜弓
中庭
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湿った草

中庭の石畳の縁に沿って柔らかく湿った草が芽吹いている朝でもない昼でもない黄昏にも似た曖昧な時間の底でこの草だけが不可思議な輝きを湛えていて誰が踏んでもすぐ元に戻り誰に摘まれても刃の形を記憶し直し誰にも認識されぬまま世界の記述の余白を覆い尽くそうとしているその緑の皮膚は水を孕み泥を内包し腐敗と再生を同時に孕んだ構造体でありそれはかつて語られるべきでなかったが記録されてしまった声たちの沈殿の場であり誰も気づかないふりをすることでしか保たれない語りの漏れの堆積であった【魚の目】はその草の中に腰を下ろしその質感が脛から腰へと這い上がってくるたびに自分の内側に何か見覚えのある忘却の形が芽吹いてゆくのを感じた過去の出来事ではない過去に起きるはずだった記述未遂の出来損ないたちがこの草の下で眠っておりその呼吸の残滓が皮膚を通じて侵入し神経網の文法を撹乱し既知の論理を湿らせる記述体である彼の視界はふいに縦に裂け草の間からのぞく土の隙間にある何かを捕えようとするがそれは形を持たぬ構文の屍のようなものであり言語になることを拒否した語りの端末であり存在しないことを力強く主張しながら存在している不可逆の裂け目でありそれを見た瞬間に【魚の目】の中に記憶されていない悲鳴が響くそれは自分自身のものではない誰かがかつて発しようとして発せずに飲み込んだ声の骨でありその骨は今や湿った草に食われ草の一部になりその沈黙を栄養として成長を続けていた「この草はね」どこからともなく声が響きそれは先ほど別れたはずの【たんなる人】の声でありけれどその発話は明らかに別の何者かのものとして響いており語りと語り手が入れ替わる瞬間の空白に生まれる歪みがこの草の湿度と共鳴しているようでもあり声は続ける「語りきれなかったものだけが根を持つんだ語られたものは干からびるが語り損ねたものは湿って残る消えずに腐らずに朽ちもしないままな」【魚の目】は自分がいま語ろうとしているのかそれとも語られようとしているのかを判別できず語られることと語ることの区別が意味を失った草むらのただなかで思考の根がゆっくりと抜け落ちてゆく感覚を覚えながら構文刀に手をかけるが抜く理由がなかった湿った草のなかではどんな鋭利な刃も滑り記述を切断できないなぜならそこにあるのはすでに切断されたあとの残骸であり語りの始まらぬ起点であり未来の誤記であり語られる以前の沈黙が時系列を反転して現在を支配しているからであるそのとき中庭の奥から一陣の風が吹きすさび草が一斉にざわめきその音は言葉のかけらのように聞こえた言葉でありながら言葉にならず意味の寸前で裂ける音たちが空気の密度を変えその風にまぎれて現れたのが【庭番】であった彼は中庭を管理するものではなく中庭に潜む記述の境界を見張る者であり彼の両眼は常に閉じられその代わり彼の歩いた場所には語られていないはずの物語が咲く彼は決して語らない語らないことによって世界の秩序を保つ存在でありその沈黙は絶対であり禁忌であった【魚の目】は【庭番】と視線を交わすことはなかったが彼が通り過ぎるそのわずかなあいだ湿った草の奥から微細な震えが伝わってきたそれはこの場所にある物語の未発火の地層が揺れた合図であり誰かがこの草の下に封じた記憶の棘がまた一つ眠りから目覚めようとしている証左であり【魚の目】はただその中に沈みながらもそれでも語ろうとする自分の内なる声が消えていないことに薄ら寒さと微かな安堵を感じていた


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