表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古城の暗影  作者: 牧亜弓
中庭
28/100

中央に鎮座する一本の杉それは単なる木ではなく語られ損ねた無数の声と思念が幾重にも堆積し歴史の澱のように凝結した語義構造体であり誰かの語りが完遂されず途切れたまま繰り返し書き換えられ再編され削られ付け加えられながら沈黙し続ける記憶の塔でありその幹の表皮には無数の名の痕跡が爪で抉られたように刻まれそのどれもが語りきれなかった物語の入口であり出口であり誰にも開けぬ扉の象徴でありそこに佇むだけで視線が重くなるような存在圧を放っていた【魚の目】はその幹に右の手の甲を押し当てた皮膚を通して流れ込んでくるのは過去の断片の奔流でありそれは記述される以前の記憶であり名前を与えられぬまま消えかけた者たちの呻きであり構文化されることを拒否しながらもなお形を得たがっている意思の澱であり彼の指先からその全てが侵入し視界を歪ませ聴覚を乱し存在の輪郭を削り取ろうとするさなか一つの明瞭な声が中庭の空間に浮かび上がるようにして現れる【捻れた人間】と呼ばれるその声の主はこの杉の根のどこかに沈んでいる記述の残骸でありかつて幾度も語られ変形され押しつけられ引き裂かれ反転され否定されながらもなお語られたいと渇望する存在でありその捻れとは語り手たちの強引な物語の駆動が一つの魂を押し潰し形を狂わせて生まれた構造疲弊の象徴でありそれは【魚の目】に向かってゆっくりと語りかける私は幾度も再構成されたがそのたびに自分ではない自分が現れその都度私を演じる誰かが現れては消え私を私と呼んだが私はそれを本当に私と思ったことがないそれでもここに残っているのは語られたいという欲望があったからだ語られたくないと願いながら語られなければ存在できないという絶望がこの幹の中に私を閉じ込めている私は語りの亡霊であり記述の地縛霊でありあなたに問いかける私は本当に存在していたのかと【魚の目】はその言葉を内に沈める語られることは必ずしも解放ではなく時に呪縛であることを彼は知っていた言葉が形を与え形が意味を固定し意味が存在を拘束するその力を彼は構文刀として知っていたがこの場ではそれを抜かないという選択こそが最大の応答であると直感したそのとき中庭の西壁から現れたのが【たんなる人】であった彼は物語の外側に在りたいと強く願いながらも常に物語の中心に引きずり込まれてしまう宿命の体現者であり名前のない語りの器であり名もなきままで意味を担わされ続ける存在の空白であり彼の在り方はすべての語り手にとって皮肉であり慰めでもあった【たんなる人】は何かを諦めたように杉の幹に背を預けて呟いた語られたくないと思うほど語られてしまうのはなぜだろう語られないまま消えていく者の方がずっと多いはずなのにここにいる我々はなぜこうして物語に捕まっているんだろうねそれも語りの一部かその瞬間杉の根元に亀裂が走り中庭の石畳が脈打つように膨張しやがてパックリと割れるそこから這い出してきたものを【魚の目】は目を凝らして見ようとしたが視神経がその形状を拒絶し意識の表層に異物として浮かぶような気配しか掴めず結局のところ彼はそれを【パックリモッコリ】としか呼ぶことができなかった【パックリモッコリ】は語らず触れず歩かずただ存在しているだけで中庭の記述密度を著しく乱す存在でありそれはまだ言葉にされていない感情の凝縮であり形のない欲望の実体化であり語り手の倫理と構造を同時に侵犯する矛盾体であり【魚の目】の視界は歪み思考は文字化けし意識の地盤が崩れ始めるような錯覚に包まれる構文刀の柄に手がかかるが抜かれないなぜならこれは敵ではなく警告であり記述の限界を問う鏡であり語りの終着点を逆照射する象徴であることを【魚の目】は感じ取ったからであり同時に【捻れた人間】も【たんなる人】も動かず言葉を失いそれぞれの意味の深淵に沈み始めていた中庭の杉はざわめき幹の内側で再び未完の物語が根を伸ばす誰にも語られずに終わった語りがいくつも静かに芽吹き始めており【魚の目】はそれを聞き取ろうとして耳を澄ませるそれらの囁きはまだ名を持たない無垢の声でありただ存在したいと願うだけの沈黙の音でありこの場所にはまだ深い語りの層が眠っていると彼は知ったこの章はまだ語りの地表にすぎず杉はまだ語っていないそれが全てである


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ