本
書棚の奥深くにその一冊はあった【魚の目】が手に取ったその表紙には『家族という病』とだけ記されていた本とは語られなかった語られねばならぬ物語の断片であり語りの病巣であり記述の瘡蓋だったその言葉が呪縛となって彼の思考を締め付ける読者が勝ち取る意味とはまさにここにある意味は著者が書くものではない読者がその言葉の間に入り込み奪い取り奪われるものなのだ【魚の目】は目を凝らし文字の群れをなぞる読み取るとは語りの構文を解きほぐすこと語られることによって存在が形を得るその形が歪めば存在も揺らぐその不安がこの本の核に埋まっていた家族というものが果たして絆なのか鎖なのかそれは問いかけだ意味は決して固定されない問いは解くためにあるのではなく問い続けるためにあるのだ【魚の目】の心に浮かぶのは【タコの足】の影【ゲソ】の声そして消えかけた【別府忠夫】の名前家族は血縁だけではない語られる者たちの集合体記述の回路その中に囚われる者たちの病巣であり逃れられぬ輪廻であり拒絶と受容の果ての孤独でもある本の中の文がゆっくり揺れ始める語り手が変わったのかそれとも読者が侵入したのか境界は曖昧であり【魚の目】はそれを飲み込まれずに飲み込むしかなかったそこに綴られたのは【タコの足】と【ゲソ】の断片的な記憶断絶の連鎖そして不安定な情動の連続【魚の目】は気づくそれは単なる家族の物語ではなく語り手が記述を通して自己を見つめ自己を揺さぶる軌跡だと記述は生の暴力であり語りはその刃であるが故にそれを読むことは自らの存在を削ぎ出すことでもあるそれでも読むことを止められぬのは意味を勝ち取ることを諦めぬためだ【魚の目】は再び文字を追う読みながら思考は彷徨い記述の海に漂いながらも漂流するその船はもはや彼のものではなく記述空間の一細胞として組み込まれていることを自覚するその自覚がまた彼を読む者としての責任へと誘う意味は勝ち取るもの著者の筆先から逃れた意味は読者の手によって鋳造される真実の言葉とはその闘いの産物であり意味を独占しようとする記述律に抗う者たちの呪文だとそれを胸に【魚の目】は本を閉じた書棚はまた静寂を取り戻し風が囁きだすドシラソーとな風の音に乗って語られなかった物語がゆっくりと立ち上がるその物語は彼を包み込み彼を変えてゆくのだ