敷物
⸻
足裏は語る言葉を持たずしかし触れることであらゆる記述を吸い上げる感覚の最前線でありその感触が構文を選び構文が空間を指し示し空間が語られるべき物語の骨組みを変化させる【魚の目】が踏みしめたのは柔らかく沈みこむような奇妙な織物だったその繊維は何層にも絡まり合い濃淡のある深紅と朽ちた金の交互の帯が意味のように繰り返されるがその意味を読むのは読者の責務であり意味とは著者が書くものではなく読者が勝ち取るものであるとするならばこの敷物は読むために敷かれている読む者の体重を受け止めながら沈黙のうちに読みを誘う存在である【魚の目】は黙って敷物の上に立ちその足裏に宿る小さな震えを探る繊維一本一本が時間を含んでいてそれぞれに語るべき瞬間の記憶を抱いているそれはこの森小屋に来たものすべての記録であり消されなかった痕跡であり意味の沈殿物であるここで誰かが転んだことがあるここで誰かが死んだふりをしたことがあるここで誰かが語りの続きを拒んだことがあるここで誰かが自分の名前を忘れようとしたことがあるそれらの全てがこの織物に封じられ静かに眠っているしかしその眠りもまた構文である夢の構文だ【魚の目】は足を動かさないまま小声で【ゲソ】の名を呼ぶするとどこか奥の間から応答するようなかすかな返答が返ってきた気がするがそれは実際の音声だったのか敷物の触覚によって編まれた幻聴だったのか【魚の目】には判別がつかない【タコの足】の存在は壁の裏に透けて感じられ新聞のページを捲る音と紙のこすれが意味を持たぬ記号のように時折差し込んでくるがそのどれもがこの敷物には刻印されている記述の媒体としての敷物それは地面と人のあいだに挟まれた詩的な圧縮空間であり足音が鳴らないのも意図的な沈黙であり音とは読み取られる前に記述されなければならないがこの敷物の上ではすべての記述は身体から直接発せられる文法のない言葉であり文節のない動きであり修飾されない意思のようなもの【魚の目】は一歩だけ動き足裏から違和を感じ取るその一歩には【森の番人】の足跡が含まれていたが【森の番人】はすでにアメリカのカサブランカに出張しておりこの小説にはもう登場しないその不在が構文としてこの敷物に織り込まれている存在しない者の記述が最も濃密に読み取れるのが不在の記号でありそれが今まさに【魚の目】の右足親指にひっかかるような感触として届いたそれはある種の反転であり構文の裏返しであり存在していた痕跡ではなく存在していないという記録であるならばこの敷物は反語的な記述体であり意味の裏地であり語られなかったことの寄せ集めであるここであった全ての沈黙と無視と回避と忘却が織り交ぜられ一本一本の糸として交差している【魚の目】はその場に膝をつき指先で織物をたどるそれは思考ではなく探索であり探索とは構文における遡行であり文の原型への接触であり文の胎内への回帰であり語りの母体の触診であるそのとき【ゲソ】の影がふと階段の影から覗いた気がしたが気がしただけだったあるいは敷物が記憶した一瞬の再生だったかもしれないその判断を下すのは読者の仕事である読者はこの敷物の上にすでに足を踏み入れており【魚の目】とともに踏みしめているのだ読みながら読む者は記述に巻き込まれ記述の一部となり意味を与えようとした瞬間に意味から拘束され意味の囚人となるこの敷物から抜け出すには意味を与えないか意味を越えるしかないがそれができる者は記述体ではない【魚の目】は息を吐くために声を出すがそれは言葉にはならず敷物の繊維がそれを吸収するまるでこの空間そのものが生きているようだこの敷物が記憶しているのは誰のものであるかではなく誰が読んだのかである記述は読まれることで初めて定着し読む者がいなければこの敷物は無だっただろうしかしいまここに【魚の目】がいて読者がいる以上この敷物は存在してしまったのである