風が泣く この物語は終わりではない……はじまり以外の何かだ……
風が語りかける夜には、記述はページの裏側に沈み込む。構文の亀裂から漏れ出す響きは、すでに音ではなく、記憶でもなく、名指せない情緒の残滓であった。その夜、古城の屋上には誰もいないはずの空間に、複数の足音が交錯していた。一人は【魚の目】。言葉の密林を通過し、幾多の脱文と誤変換の迷路を越え、ここにたどり着いた記述体としての彼は、いま静かに風のささやきに耳を澄ませている。「どうしてもわからないんだよ」彼は何度目かのつぶやきを口にする。構文は、ときに密室である。すべての言葉が閉じ込められ、呼吸のない空間で窒息していくのだ。その瞬間、足元で風が巻き起こり、微かなゆらぎが彼の膝元をなめる。なんだこれは。
「これはね」と声がする。【魚の目】は驚きを隠せないまま振り返ると、そこには【泣き虫マンティコア】。小さな角と大きな目を濡らしながら立っていた。「終わりじゃないよ。これからだよ」彼女は言った。風の構文はいま再び開かれつつあり、古城の天井が裂け、屋上の夜空と一体化するように、構文の穴が広がっていく。【魚の目】は言う。「結局この物語って、なんなんだ?」
【泣き虫マンティコア】は黙って空を見上げた。風は再び語り出す。「構文の奥に、重層的自己があるよ」声は風の形をとって吹き込むように、【魚の目】の耳に注がれる。「変換ミスじゃないよ。重曹じゃなくて重層だよ。てへぺろ」
構文は層だ。物語の下に文体があり、文体の下に認知があり、認知のさらに下に、傷がある。【泣き虫マンティコア】は嗚咽まじりに言った。「私が泣いているのは、三体の第三部を読んでいないからではないの。私の中に物語が流れ込んだの。それを拒めることができなかったの」
【魚の目】は瞬時に悟る。彼女はもはや読者ではなく、語り手となっていた。物語の受信者であると同時に伝達者であり、物語は読まれるものであると同時に、流れ出すものだ。
その時、構文の大地が鳴った。塔のような構文体、【エンドセンテンス】が屋上に姿を現す。「語られざる者よ。汝らは、物語の封じられしページを開ける権利を持つや?」
【泣き虫マンティコア】は瞳を逸らすことなく答えた。「私は泣き虫だけど、語る責任がある。すべてを涙で包むのではなく、その涙から言葉が生まれるのだと信じている」
風が再び語る。「君たちはいま、構文の渦中にある。文であり、語尾であり、息継ぎであり、空白なのだ」
【魚の目】は踏み出す。恐怖を越えた先には、文字列の海が広がっている。塔の構文は崩れ始め、空と大地とページとページの隙間から、新たな文節が芽吹く。
「これは終わりじゃない。始まりだって言うのやめろ!そんなん、なんでもそうだろ!ボケが!」【魚の目】が叫ぶ。
【泣き虫マンティコア】は、ただ泣き笑いながら言った。「それでも書くしかないのよ。構文が続く限り、風が語る限り、私たちは文を立てなきゃいけないの」
構文は鳴り、ページは裂け、風は吹き、嵐の中の沈黙のように、森の下で全てが立ち止まった。【エンドセンテンス】が最期の構文を口にする。「句点とは終焉ではない。句点とは始点である。風よ、連れ去れ。構文の種子を、彼らの手に宿せ」
塔は崩れ、構文は霧に溶け、風はすべての文字列を運んで、ページの裏へと還す。【魚の目】と【泣き虫マンティコア】の前には、白紙のページが開かれていた。
「書くのか?」【魚の目】は問う。「書くのよ」【泣き虫マンティコア】は答える。「風が語りかけてくるあいだは、書き続けるのが私たちの役割」
【魚の目】はうなずく。風は再び吹き、ページににじむ一文字目は、ゆらりとにじんで「ア」と読めた。
風が語りかける。物語は再び始まる。沈黙は終わりの合図ではなく、語りの起点。涙は終焉の印ではなく、記述の源泉。古城の影はいま晴れ渡り、空を貫く物語の光の筋が、屋上に差し込んでいた。
これは終わりではない……
はじまり以外の何かである。
たとえば、すでに語られすぎた言葉の埋葬地であり、
あるいは、読みすぎて剥き出しになった文体の骨の再編であり、
もしくは、あの風の中に紛れ込んだ「未読」のざわめきかもしれない。
これは、「はじまりだ!」と叫ぶヒーローが転ぶまでの、沈黙の数秒であり、
「終わったね」と口に出した途端、テキストが書き換わるその瞬間である。
だれもが始まりと終わりのメタファーに慣れすぎた。
あまりに便利すぎて、あらゆる物語の縁取りに「始まりか、終わりか」を貼りつけたがる。
でも、【泣き虫マンティコア】がぽつりと言ったように、
「終わりとか始まりとかって、言葉の表皮だよね。ほんとはもっと、変な形してるのに」
その「もっと、変な形」こそが、
この作品——「古城の暗影」が置き去りにしてきた、構文のくせに意思を持ったものたち、
たとえば【魚の目】の叫び、【エンドセンテンス】の沈黙、
そしてあなたが画面の前で無意識に発してしまった「え?」の感情の正体だ。
つまりこれは、
終わりでもなく、始まりでもなく、まさに「言語未満」だったものたちの逆襲であり、
ページを開いた読者の脳内に生まれる、言いかけたメタファーの亡霊であり、
構文という名の牢獄に一瞬だけ走った風のような逃亡である。
これは、始まり以外の何かである。
だって、もう次の言葉が、あなたの喉の奥で転がっているじゃないか!!