兵士にも王子にもなれない『おれ』は 2
「あそこがソフィのおうちなのよ! ソフィはお城のお姫さまなの」
無邪気に笑ってそんな事を言うソフィアリアを、ラズは大きな家を見ながら、信じられないように目を見開く事しか出来なかった。
一緒に住もうと言ってくれた時はとても嬉しく、ほんの少し、この綺麗な女の子と暮らす幸せな未来を思い描いていたのに、そんな事は一瞬で吹き飛んでしまった。カラカラと、口の中が渇いていくような錯覚を覚える。
「……あそこがあんたの家?」
否定して欲しかった。嘘だと、冗談だと言って欲しかった。
だってこの大きな家には、悪人が住んでいると聞いた。その悪人のせいでラズはこんな薄汚れた毎日を送っていて、村で見かけるような綺麗な人が羨ましいのに、自分には一生なれないのだ。それがずっと辛く、悔しい思いをしてきた。
ソフィアリアに救われたと思っていたのに、元凶だったのか? 自分は騙されていたのか? そんな疑念が沸々と浮かび、胸がムカムカ気持ち悪い。
だが無情にも、ソフィアリアは明るい笑顔で首を縦に振る。
「ええ、そうよ! ラズくんも……」
カッと目の前が怒りで赤く染まった。言葉を言い終わる前に繋いでいた手を振り払い、ドンっとソフィアリアの肩を押す。
「きゃあ⁉︎」
肩を押したソフィアリアがよろけて地面に座り込んだのを、いい気味だと思った。……思おうとした。けれど実際は、ズキズキと胸が痛かった。
けれど、もう止められない。瞳にギラギラと怒りを孕ませて、憎々しげにソフィアリアを見下ろした。
ソフィアリアはラズを見上げて恐怖を覚えているようだった。当たり前なのにその事に傷付き、より深く心を抉る。自分勝手にも更に傷付けられたと激怒して、ますます止められなくなってしまった。
止まれないラズは怒りの感情に身を委ね、今までの不条理を目の前のソフィアリアにぶつけてしまう。
「っ! あの家は、悪人の住んでいる家なんだぞっ‼︎」
「悪人……?」
だがソフィアリアは何の事だかわからないと言わんばかりにきょとんとしているだけだった。その表情に、余計イライラした。
「悪い奴は村のみんなでやっつけたって言ってたのに、まだ他にも居たのかよっ⁉︎」
悪人のジジイをやっつければ幸せになれると聞いた。美味しいものを普通に食べられて、綺麗な場所に住めると聞いたのに、現実はそうではなかった。理由は、このソフィアリアがまだここに住んでいたからだったらしいと責任の所在を擦りつけた。
「ラズくっ……⁉︎」
手を伸ばされたが、叩き落とした。初めて誰かと手を繋いで歩いてとても幸せな気分だったのに、その相手は悪人で、けれど、幸せな気分は本物で、また繋ぎたいと思ってしまった。
そんなぐちゃぐちゃな気持ちが嫌で、今すぐ発散させたかった。だから……ソフィアリアにぶつけた。頭の中でそれは絶対ダメだと言われた気がしたが、そんな気持ちは踏み潰す。――それが一生モノの後悔に繋がると、この時はまだ知らずにいた。
「綺麗にするなんて、おれに食べ物を買ってくれるなんてよくやれたよなっ⁉︎ おれが汚いのはあんたみたいなのを綺麗にする為で、何も食べられないのはあんた達が自分達だけで食べるからって全部持っていくせいだろっ!」
頭に血が上り、ぐちゃぐちゃした気分を振り払いたくて、あの日聞いた事をジジイという悪人ではなく、ソフィアリアのせいにした。この大きな家に住んでいるのだから、どちらにしても悪人だから一緒だと思った。
だってソフィアリアはラズと違って綺麗で、骨が浮くほど痩せ細っていない。簡単に人に美味しいお菓子を分け与えるくらいだから、食べ物に困った事がないのだろう。それが無性に、腹立たしかった。
「……なのに分け与えていい事した気になって……おれを、あんたがお綺麗な良い子になる為の道具にするんじゃねえっ‼︎」
与えてくれた優しさは、ソフィアリアが優しい子と周りに印象づける為のアピールだと思った。スラム育ちのラズには周りに優しさを振り撒く余裕のある人なんて居なくて、何かの利点があって利用されたと思った。――そんな訳ないのに、当時のラズは捻くれていて余裕がない、嫌味な子供だった。
それだけ言うとソフィアリアは酷く傷ついて泣きそうな顔をしていたから、ラズはそんな表情を見たくなくて走り去る。泣かれたらラズも悪人にされるようで、それだけは絶対嫌だった。
ボロボロ涙を溢しながら走って、さっき一緒に座った川辺に辿り着いた。木の下で蹲り、赤子のようにわんわん泣いた。
だって悲しかったのだ。綺麗な女の子とたくさん話して、お菓子と名前を貰った。手を繋いで歩くのはポカポカして、一緒に暮らそうと言われた時は村の人達のように綺麗で幸せになれる未来を予感していた。
なのに、その正体は悪人だったのだ。ラズは騙されていて、あの大きな家に連れて行かれて悪人の仲間にされるところだった。確かに今の生活もうんざりしていたが、誰かにこの生活を押し付けて自分だけ幸せになるのはもっと嫌だった。そういう変な正義感だけは持っていた。
泣いて、たくさん泣いて、頭が痛くなっても泣いて、空が赤くなってようやく涙も涸れた頃。息がヒクつきながらも少し冷静になってきて、自分のやらかした事にサァっと青くなる。
よくよく考えれば、ソフィアリアが悪人だと決まった訳ではないのでは? と今更思った。あの大きな家――ソフィアリアはあれをお城だと言っていた――に最近引っ越してきたのかもしれないし、逆にどこからか連れ去られてきて、別の悪人に閉じ込められている可能性もある。……それは色々おかしいが、でも悪人に騙されて囚われている可能性もあるのでは? とようやく思い至ったのだ。
ソフィアリアは自分をお姫さまだと言っていた。ぼんやりとしか知らないが、とても偉い女の子の事だったと思う。確かに物知りで綺麗な子だったから、そうなのだろう。悪人とお姫さまを間違えて酷い事を言ったラズこそが、悪人で最低野郎だった。
こうしちゃいられない。捕まっているなら助けてあげなければいけないし、捕まってなくても謝らないといけない。立ち上がると、足元に薄黄色い布が落ちていて慌てて拾う。これは、ソフィアリアがラズを綺麗にしたいからと渡してくれた大切なものだ。手を拭いただけで真っ黒になってしまったが、何も持っていないラズにとっては名前と同じくらい大事な宝物だった。
絶対落とさないようにポケットに入れようとして、でも尖った石を入れた時に底が破れていたのを思い出し、なくさないようにギュッと手に握りしめる。そしてまたお城へと走り出した。
だが、当たり前だがもうお城の前には居なかった。しばらく待ってみても出てこなかったし、本当にお城に捕まってるのかもしれないと思って中に入ろうにも真っ暗で何も見えず、侵入する事はとても難しかった。仕方がないから明日出直す事にして、とぼとぼとスラムに帰る。
今日も適当な場所に寝転がりながら、でも綺麗な布を誰かに盗まれるのが怖くてギュッと強く握りしめる。物を持っていると盗まれるのがここでは普通なのだ。
目を瞑って寝ようと思ったが、盗まれる恐怖心と傷付いたソフィアリアの顔、そうさせた最低野郎な自分に吐き気がして眠れなかった。ぐるぐる考え込んでいるうちに空が明るくなったので、むくりと起き上がり、フラフラとお城の方へ歩いていく。が――
「おい! そこの赤いの!」
声を掛けられ、そしてその声の主に思い至ってゾッとした。思わず大事な布をポケットの中に入れて、落ちないようにズボンの上から強く握り締める。
振り向くと案の定、自分と似たような髪色の少年だった。彼はここらで有名な物盗りだ。非常に暴力的で、村では食べ物だけではなく、お金というのも人を殴って奪うらしい。初めて声を掛けられたのがよりによって今日とは、なんてついていないのだろう。
「な、なんだよ」
「その服いいじゃん。くれよ」
どうやらこの派手な服目当てなようだ。薄黄色い布が見られてなくてよかったと思った。
けれど昨日までは気に入らなかったこの赤い服は、ソフィアリアがラズという名前を思いついた服だ。盗られたくないと思って、少し躊躇ったのが間違いだった。
「くれって言ってんだろがっ‼︎」
物盗りの少年は激昂して、ラズに掴み掛かってきた。殴られて、殴られ続けた。
倒れた時に思わず布が入っているポケットを下にして、見つからないように必死にそれを隠した。幸い気付かれず、一通り殴って気が済んだのか、赤い服を剥ぎ取って何処かへ行ってしまった。
よろよろと立ち上がり、全身痛かったが特に足を痛めたのか、ズルズルと引き摺るように歩き出す。ポケットの中に薄黄色い布が入っている事だけが、唯一の救いだった。




