水平線の彼方にあったもの 3
オーリムは顔を強張らせて、何も言えずに固まってしまっていた。そんな彼にふわっと笑いかけて、顔から手を離し、そのまま両手を優しく握り締める。
「不思議ね。髪も、瞳も、ほんの少しだけ顔も違うかしら? それなのにリム様があのラズくんだって思うと、二人の姿がピッタリ重なるの」
「……何、故」
カラカラに乾いた、辛うじて搾り出たかのようなか細い声をきちんと拾って、今度はギュッと手に力を込める。
「王様に言われた黄金の水平線の彼方という単語の意味を、ずっと忘れずに意識していたわ。それが何よりの前提。ぼんやりと気付いたのは、リム様が昨日何気なく漏らした『周りの人間を自分を綺麗に見せる為の道具にしようとするんだ』って言葉。その言葉と似たような事を、ラズくんに言われた事があるの。わたくしにとってそれは、ずっと忘れられない言葉だったから」
確かにそう言われた事があると、話した事はある。けれどあまり使わないような特殊な言葉だし、実際にオーリムが口に出した事によって、ぼんやりと輪郭が見えてきて愕然とした。それが昨日の話。
その後フィーギス殿下や王鳥に後押しされて、そうなんだろうなとは思っていた。
「はっきり見えてきたのは、さっきの社交ダンスの時よ。リム様の瞳をじっくり見つめていたら、その水平線の彼方が輝くようなオレンジ色だって気付いたの。そしてそのオレンジ色は、言葉と同じくらい、忘れたくても忘れられない色だったから。……少し悔しいけれど、王様のヒントがなければ、わたくしは絶対あなたを見つけてあげられなかったわ」
オーリムがラズだと気付いた一番の理由は、やはり黄金の水平線の彼方というヒントだ。このヒントがなければ一生気付かず、オーリムをオーリムとしか認識しなかっただろう。オーリムはむしろ、その方がよかったみたいだが。
案の定オーリムは、キッと王鳥を睨む。だが動揺を隠しきれない瞳では、なんの効果もありはしない。
「王様のヒントとリム様の言葉で気付いて、そしてさっき、セイドベリーのスティックパイを食べる表情で確信したの」
グッと泣きそうになり、けれど嬉しくて表情が緩む。
もう八年も前だが、あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。当時のラズもスティックパイを一口食べて、よほど美味しかったのか、目を輝かせて黙々と食べていた。オーリムも一瞬そんな表情をしたが、食べ進めるよりも驚きが勝っていた。
「このパイを食べた反応が見たかったから、今朝早起きして作ったのよ。昨日ペクーニア商会から届いたものがこのセイドベリーだったから、すごくいいタイミングだったわね。……わたくし、ずっとラズくんに会って謝りたかった。初めて出来た人間のお友達だったのに、わたくしは自分が悪人だと知らなくて、傷付けて、泣かせてごめんねって。けれどもう、謝る事は叶わないと思っていたわ」
「…………う」
「どうしてここに居るのかとか、あんな別れ方をしたのにどうしてわたくしを求めてくれたのだとか、そもそもわたくしがラズくんが亡くなる原因を作ってしまったのにどうして生きているのだとか、たくさん聞きたい事があるわ。特に最後のは、昨日王様に尋ねたの。王様は死人を蘇生できるのですか?って。答えは当然否だったけれど」
「……がう」
「でも、辛いなら何も聞かない。詮索しないまま、リム様がラズくんだって事を心の奥底に封印して、一緒に暮らすわ。でも今だけは、せめてラズくんに謝り……」
「っ! 違うっ‼︎」
痛みを堪えるかのように顔を顰め、大声で否定の言葉を発した。けれど大声に驚いたソフィアリアを見て更に表情を歪ませ、俯いて目元を隠してしまう。
立ち上がって距離をとった彼は、興奮を抑えるかのように肩で息をしていた。そんな姿が、どこか痛ましかった。
「あの……」
「違うっ! パイを奢って掬い上げようとしてくれた優しいお姫さまを、周りに流されて考えなしに詰る最低野郎なんかに謝る必要なんてないっ‼︎」
声を震わせて、髪の上から目元を押さえるオーリムの言葉に驚く。彼はずっと、そんな事を思っていたのか。
「忘れて、嫌ってくれればよかったんだっ! ……そんな無知なガキなんて。あのガキは……俺は……、優しいお姫さまを悪人に変えた、最低野郎なんだぞ…………」
ああ、やっぱりそれを気にしていたのかと、ストンと腑に落ちた。
オーリムはソフィアリアが悪人を自称する事を、とても嫌がっていた。彼は過保護だが、ソフィアリアの生い立ちを知って、たかが自称をそうやって必死に否定する様子は少し不自然だと思っていた。オーリムはそれを自分のせいだと責めてしまっていたのか。……だから自分の事を、最低野郎だと言ったのか。
けれど、それは絶対に違う。ソフィアリアも立ち上がり、ビクリと肩を震わせる彼に無理矢理近寄って、その胸に縋り付く。王鳥も、そんなソフィアリアの側に寄り添ってくれた。
「リム様は、わたくしの昔話を聞いてくれたじゃない。なら、それは違うとわかる筈よ」
「俺、は」
「自分を責める必要なんてないわ。だってわたくしはラズくんがそう言ってくれたから、ようやく自分を理解しようとしたの。無邪気で無知なお姫さまは、あなたの言葉でやっと夢から醒めて、現実を見られるようになった」
「けどっ」
「何も知らなかったから当時は痛かったけど、間違った事は何も言っていないわ。わたくしは確かに領民から集めた税金でお祖父様と贅沢な暮らしをしていたし、気まぐれにラズくんを助けて、いいご身分だったと今のわたくしですら思うもの」
「違うっ! フィアは何も知らなかったんだ。故意に悪い事が出来るような子ではなかった」
「ええ、そうよ。知らなかったの。でも……わたくしは知らないなんて許されない、男爵令嬢だったから」
オーリムがゆっくり顔を上げたのを見て、ソフィアリアも目を合わせる。酷く痛そうな表情をしているのを見て、困ったように眉尻を下げて、微笑んだ。
「男爵は貴族としては末端だけれど、そこに住む領民にとってはトップに立つ人よ。なのに、知らなかったから、子供だったからという言い訳なんて、通用させてはいけないの」
ソフィアリアが一般家庭の子供だったのなら、無知でもよかったのだ。全て自己責任、家庭内の責任として、内々に処理されるだけの話だった。
けれどソフィアリアは領民の税で暮らす男爵令嬢だった。貴族として産まれたなら、その瞬間から全ての事に責任が生じてしまう。知らなかったは一切許されない。
そんな重く難しい立場だからこそ、貴族は税金で暮らす事を許されるのだ。例外なんて、何があっても認められてはいけない。
「だからラズくんがわたくしに突きつけた現実は、わたくしを改心させ、少しだけ早くセイド領を立て直す足がかりになったのよ? ラズくんはセイド領の英雄様ね」
「フィアを悪人に貶めて英雄なんて、絶対呼ばれたくないっ!」
「英雄様なのだから、悪人のわたくしも救い上げてくださいな」
そう言うと濡れた目をまん丸くするものだから、ついふふっと笑った。そんな表情も、可愛くて愛おしい。
「リム様は嫌がるけれど、わたくしはやっぱり悪人でいいのよ。環境のせいだったとはいえ、背負ってしまった業は消せないし、消したくない。汚名も罪も背負う覚悟はあるけれど、でもわたくし、幸せにもなりたいわ。それを、リム様はあの時認めてくれたから」
思えば現実を知った八年前も、幸せが罰だと言ってくれた一季半前も、そしてきっと、ここに来た事も。ソフィアリアが大きくいい方向に変わるきっかけを作ってくれているのは、いつだってラズであり、オーリムだった。
だからソフィアリアにとって、彼はやはり英雄なのだ。いつもそうして、優しく救ってくれる。
「わたくしの一番の幸せは、王様とリム様に恋をする事よ。気持ちを返されたらもっと幸せだけれど、義務も強制も嬉しくないから、どちらでもよかったの。でも……自惚れてもいいかしら? リム様も王様と同じように、わたくしの事を愛し……」
目を丸くしたままソフィアリアの言葉を聞いていたオーリムは、だがそこまで聞くと慌てたように人差し指で唇を塞いで、静止させる。そんな事をされたソフィアリアは驚いて、言葉を詰まらせてしまった。
「それはちゃんと俺が自分から伝える。けど、フィアには先に知って欲しいんだ。最低な俺の事、全部」
半分諦めていたが、教えてもらえるとわかり気分がフワッと上昇する。思わず満面の笑みで、コクリと大きく頷いた。
「ええ、知りたいわ。リム様の事全て。わたくしに受け止めさせてくださいませ」
「それは聞いてからでいい。――フィア」
オーリムは一度ギュッと抱きしめてくれて、けれどすぐ肩を押して離れてしまう。それが少し寂しくて、物足りなさそうな目で追ってしまったからか、オーリムは困ったように笑った。
「まずは自己紹介、だよな。――俺の本当の名前は、オーリム・『ラズ』・アウィスレックス。孤児時代は名無しで、八年前、憧れの女の子にラズって名前を貰った」
「オーリム・ラズ・アウィスレックス……。ああ、そうよね。リム様は王族より位が上だもの。ミドルネームがなければ不自然だわ」
気付かなかった。……いや、少し引っ掛からなくもなかったが、そういうものかと流してしまった。彼はそれを、大事に隠していたらしい。
オーリムはフルネームを呼ばれて、ふっと嬉しそうに笑った。
ほんのり黄色の綺麗な満月を背にしたおかげか、オーリムの夜空のような綺麗な髪色が月の光に照らされて、少し茶色がかって見えた。昨日王鳥が夜中に訪問した際にも見えた色で、その色はラズだった時の髪色と同じ色だったから、また少し泣きそうになってしまう。
「フィアの言った通りだ。王がフィアを王鳥妃に迎えたのは……ここに連れてきたのは、元はと言えば、全部、俺のせいなんだ」




