水平線の彼方にあったもの 1
ソフィアリアとオーリムは、アミーとプロムスに侍女三人を迎えに行ってから、キャルともう一羽迎えを寄越すので馬車で帰るよう指示を出し、王鳥に乗って帰っていった。空に飛び交う大鳥達も王鳥の帰還とともに姿を消し、波乱の大舞踏会もすっかりお開きの雰囲気だ。
もうすぐ日付が変わるというのに、王鳥達三人はこれから空のデートらしい。これだけの騒動の後だというのに元気だなと苦笑しつつ、フィーギスは今回の後始末で今夜は徹夜、明日以降もしばらく多忙になる事が確定しているので、素直に羨ましいと思った。
けど、もう日を跨ぐ頃には生きていないと思っていたのだ。予想外に生きながらえて、マヤリスとの未来も諦めなくていいと知った今、多忙も不思議と悪い気分ではない。まあ、政務に悩殺される頃にはこんな感情は消し飛んでいそうではあるが。
そんな事を考えていたから、表情が緩んでいたのだろうか。
「……機嫌が良さそうね、フィー」
そう言ってテーブルを挟んで対面に座るうちの一人、プリモアからくすくす笑われた。
プリモアとはフィーギスがマヤリスと出会うまで婚約者候補の筆頭だった事もあり、幼少期から付き合いのある幼馴染みだった。マヤリスと婚約してからは交流が途絶えてしまったが、お互い恋愛感情はなくても、親愛はあったと思う。彼女が王妃になっても、燃えるような恋心はないが、穏やかな家族にはなれていただろう。
その隣では居心地の悪そうなリスス・アモール公爵が並んでいる。彼は普段騎士団長として壁際に控えている事が多いので、こうして対面に座る事に慣れていないようだ。
「まあ、今日は予想外な事が随分と重なったからね。悪い気分ではないよ。……けど、もう遅いし、早く終わらせようか」
表情を引き締め、いつもの笑みを浮かべると、悠然と足を組み、対面に座るプリモアと公爵を見据えた。二人もそんなフィーギスの態度に、姿勢を正す。
「君達を騙した事、国の……いや、世界の為とはいえ、申し訳なく思う。すまなかったね」
頭は下げない――言葉だけだ。王族は、如何な理由があろうと、臣下に首を垂れてはならないのだから。
ただ、生きながらえてしまった今、心に消えないしこりが残ってしまった。
公爵もプリモアも既に察しているだろう。アウィスが代行人の偽物だった事を、フィーギスが知らない筈がない。昔から王鳥と代行人と交流がある事は知っているし、この婚約には国王と王太子にしか使えない王命を出したのだ。だから二人はアウィスが偽物だと知った時点で、フィーギスに騙された事を瞬時に悟っただろう。
公爵は座ったまま頭を下げ、プリモアは静かに首を横に振った。その表情は当たり前だが、憂いを帯びている。
「国の、いえ世界の礎に選ばれた事を光栄に思いこそすれ、謝っていただく事など何もありますまい。我らは王太子殿下の臣下です。繁栄のために、如何様にもお使いくだされ」
「フィーのする事だもの。悪意でやった事ではないってわかるから平気よ。ただ、わたくしったらとんだ間抜けね。一目惚れした人が別人に変わっていた事に気付かなかった。こんなわたくしが王太子妃にならなくて、本当によかったわ」
そう言って伏せてしまった顔色は、決していいとは言えなかった。むしろ相当悪い。
フィーギスはそんなマヤリスに、何も言ってあげる事が出来なかった。そうさせたのは他ならぬ自分なのだ。謝る資格も、慰める資格もない。ただ結果から目を逸らさず、背負う事しかしてやれないのだから。
「セイド嬢……いや、王鳥妃から君に伝言を預かっているよ。彼女は身内以外に手紙を出す事も難しいからね。『王鳥妃の立場の為にプリモア様を深く傷付けてしまった事、お詫び申し上げます。二度とこの名前を思い出す必要はないけれど、ソフィアリア個人の事を、一生許さないでほしい』だそうだよ」
「……何よ、それ。わたくしこそ、勘違いで不愉快な思いをたくさんさせてしまったのだから、謝らなければいけないのに……。大鳥様からも、庇ってくれて……」
耐えきれなかったのか、ポロポロと涙を流す。公爵はそんなプリモアの肩を抱き寄せ、フィーギスはせめて泣き顔を直視しないようにした。
フィーギスの見立てでは、蟠りをなくしたソフィアリアとプリモアは、きっと気が合うように思う。立場や出会い方が違えば親友にもなれただろう。
けれど大屋敷という手紙一つ届ける事も困難な場所にいるソフィアリアと高位貴族であるプリモアは、おそらく二度と、会う事も手紙を出す事も叶わない。それが少し、悲しい。
プリモアはしばらく泣いたら落ち着いたのか、涙を拭って深呼吸をした。そしてフィーギスを見て、ふっと笑う。
「彼女、男爵令嬢と言っていたけど、とてもそうは見えなかったわ。フィーが惹かれるのもわかる気がする」
「そんなのではないよ。あれは私の策の一つだったのだ。私にはマーヤが居る」
「でもマヤリス王女殿下に出会っていなかったら、王鳥妃でなければ、あなたはソフィアリア様の事を、きっと好きになっていたわ」
答えなかった。ない、とも言えないからだ。
今、ソフィアリアという一人の女性に恋愛感情を抱いているかと言われれば、否だとはっきり言える。が、それとは別に、妙に惹かれるのも確かなのだ。
彼女はおそらく考え方が自分と非常によく似ている。生き別れた妹に会ったような、不思議な感情を抱いていた。もしお互いマヤリスが居なければ、王鳥妃でなければ、それを恋愛感情と錯覚しないとは断言出来なかった。
それに、先程の別れ際のソフィアリアのお願いと、王鳥の言葉が頭から離れない。フィーギスの中でソフィアリアの存在は、非常に強烈な印象を残していた。
「そうだとしても、進んだ先は地獄だったさ。だから今が一番いいのだよ」
けれど、フィーギスは王太子でソフィアリアは男爵令嬢だ。お互い違う方法で巡り合い、仮に恋愛感情に近い何かを抱いてしまったとしても、よくて側妃だ。自分の親を見ていると、いい結果には転ばないだろうというのが安易に想像がつく。
この国の王族は、何故か昔から身分違いの恋に陥りがちなのだ。真面目で優秀なフィーギスの父であり現国王陛下も、王妃にはなり得ない伯爵令嬢だった現妃に入れ込んでいる。フィーギスだってマヤリスと初めて会った日、一目惚れした彼女を使用人だと思って冷や汗をかいた。幸いすぐ第一王女だと知って事なきを得たが、本気で血は争えないと思い知ったものだ。
それに、今から話す事だって過去の王族の後始末だと言える。
「……さて、話を戻そうか。公爵とプリモアには追い討ちをかけるような真似をして申し訳なく思うのだが、君にそれ以上上に立ってもらうのは困るのだよ」
公爵は神妙に頷く。正直彼は娘を王妃にする事も、代行人という立場の人間と婚姻を結ぶ事にも反対したかったのだろう。彼はリスス・アモール公爵家がこれ以上繁栄するのを嫌がっているのだから。
公爵の祖母は王女だ。だが本来、リスス・アモール公爵家は……いや、元アモール伯爵家は、王女が降嫁出来る家柄ではなかった。王女が近衛騎士と恋に落ち、身籠ったので無理矢理陞爵させ、過去を改竄し、降嫁させたに過ぎない張りぼての家柄なのだ。正直よくこんな話通したなと思うような事が山ほど出てきて、色々とウンザリした。
彼の父親の代まではなんとかなっていたが、最近では綻びが出始めたのか、傍系が調子づいてきて制御しきれなくなっていた。だから公爵は、せめて伯爵に降爵させたがっていた。領地経営に専念せず、当主が未だ騎士団長をやっているのもそれがあるからだ。
フィーギスは今回の事でそうするつもりだったのだが、王鳥が余計な気を回して寵など与えたせいでそれが叶わなくなってしまった。おそらく今回の件を政治利用する事は許さないという、無言の圧力なのだろう。
このまま放置すれば勢いづいたリスス・アモール公爵家は制御不能なまま、何をしでかすかわからない。本人は放棄したが、一応王位継承出来る立場なのも非常にまずい。だから……急遽、足枷を嵌める事にした。
「何度も婚姻に口出ししてすまないが、プリモアには私の側近を婿にとってほしい。子爵家の三男で、本人と家からは了承を得ている。そしてプリモアの子供の代まで、島都での社交を一切禁じさせてもらうよ」
そうすれば、リスス・アモール公爵家の力を大きく削ぐ事が出来るだろう。子爵令息なのでとても公爵家に婿入り出来る身分ではないのだが、力は削げ、フィーギスの側近を婿に迎えてもらう事によって、管理も監視もしやすくなる。
それに、アモールの領地はかなりの栄華を誇っており、社交をせず領地経営だけでも、今まで通り充分暮らせるはずだ。
代わりにフィーギスの後ろ盾が著しく弱体化するが、今回大鳥達の怖さを充分理解してもらえたので、勝手に便乗しようと思う。そのくらいは許してもらえるだろう。
「私めは構いませぬ。しかし……」
公爵はチラリとプリモアを一瞥する。プリモアは、傷も癒えないうちからの新たな婚姻の話に、顔を強張らせていた。
だがフィーギスは無情にも、首を横に振る。
「王鳥の寵を得た今、おそらく君には今まで以上に縁談が舞い込む筈だよ。このままだと身の危険もないとは言えないし、領地に戻る前に書類上だけでも結んで帰ってほしい。もし今、高位貴族と繋がってしまえば、リスス・アモール公爵家が筆頭貴族となる可能性だってあるのだ。酷かもしれないが、引き受けてくれるね?」
「……わかり、ましたわ。その……」
辛うじて返事を返すが、すぐには割り切れないのだろう。おそらくプリモアはまだアウィスを……一目惚れしたオーリムではなく、共に過ごしたアウィスを愛してしまっているのだ。
フィーギスはそんな彼女を宥めるよう、ふっと表情を和らげて微笑んだ。
「一度会ってくれないか? 君は覚えていないかもしれないが、小さい頃に一度だけ会った事がある筈なのだ。――ロミット」
フィーギスはそう呼ぶと、部屋に赤毛の、少女に見紛うような男に連れられて、男性が二人入ってくる。そのうちの一人を見て公爵は勢いよく立ち上がり、姿勢良く頭を下げた。
「テネカルム師範!」
「久しいな、弟子よ。今はもう公爵を継いだらしいではないか」
「はい……! 師範もお元気そうで、何よりでございます」
一人は、大柄だが皺と白髪が目立つ高齢の御老体だ。彼は十年以上前に引退した公爵の前任の騎士団長で、剣の師範だった。今は引退して領地で余生を楽しんでおり、公爵と会うのは十年振りらしい。
そしてもう一人を見て……プリモアは目を見開いたまま固まっていた。
「紹介しよう。私の側近であるロミット・テネカルム。年は二十二歳でテネカルム子爵家の三男。……十年程前、一日だけ祖父に連れられて公爵家に行った事があるらしく、プリモアの事を十年も未練がましく覚えていたそうだよ? 君は、残念ながら忘れてしまっていたみたいだけどね」
少し意地悪くそう言うフィーギスは、だが反応に満足そうに笑っていた。
ロミットと呼ばれた男はプリモアに寄ると足元に跪き、右手を取ると指先に口付ける。そしてプリモアを見上げ、ふっと優しげに笑った。
「……少し痩せてしまったね、プリモア」
「アウィ……ス……?」
目を見開いたまま涙を流すプリモアを、ロミットはそっと抱き寄せる。
最近まで染めていたので少し痛んでしまった青色の髪に、薄いオレンジの瞳。背はあまり高くなく、プリモアより少し高いくらい。端麗な顔をしているが少し童顔で、猫のような大きな吊り目に、上向きの眉。
ロミットは、オーリムにとてもよく似ていた。
「違う。それは代行人様の家名の一部なんだ。僕はロミット・テネカルム。十年前に小さな君に叶わぬ恋をした、見る目がいいだけの馬鹿な男さ」
「あ……。わたくし、その名前、覚えているわ……。優しいお兄ちゃん。大きくなったら結婚してってお願いした…………」
そう、オーリムに似ているのだ。それは逆に、オーリムはロミットにとてもよく似ているとも言えた。一目惚れしたというわりに別人に入れ替わっても気付かず、そのまま気持ちを育んできたのは、そういう事なのだろう。
――本当はフィーギスは、王鳥妃の不可侵を徹底する為、他にも策は考えてあった。最終的にフィーギスは見せしめになる案ばかりだったが、中にはもっと手っ取り早くて確実なものもあった。
きっかけは、当時ぼんやりしていたオーリムが、デビュタントを迎えたプリモアをうっかり誑かしたとプロムスから聞いた事だ。フィーギスはその話と側近の身分違いで叶うはずも無い初恋話と彼の容姿、リスス・アモール公爵家の現状を見て、少し心許ない今回の案を通す事にした。リスクは高いが、上手くいけば色々な事が解決出来る、この案が一番魅力的だったのだ。
予定では伯爵に落ちぶれて醜聞塗れになったプリモアにロミットとの縁談を持ってくつもりだったのだが、結果オーライという事でいいだろう。
それに……ロミットがオーリムに似ているのは、容姿だけではないのだ。だからロミットの願いを叶えてやれば、オーリムも叶えられるのではないかと少しだけ夢を見ていた。何の根拠もない、都合のいい話だが。
すっかり二人の世界に入ってしまったプリモアとロミットを部屋に残して、フィーギスは部屋を出る。今回の婚姻で親族となる公爵とその師範も今から飲み明かすらしく、深々と礼をされ何処かへ行ってしまった。
執務室に戻ると、ラトゥスが一人で残って書類整理をしていた。もう一人の赤髪の側近はロミット達を部屋に連れて来たあとは逃げ帰ってしまったらしいし、ロミットは公爵家に婿入りするので、もうここに来る暇もないだろう。
「……終わったのか?」
「まあね。予想外の大団円だ」
ふと見た窓の外は満天の星空で、明るい満月だ。この空を飛ぶ彼ら三人も、早くそうなってしまえばいい。




