謀ったのは
遠ざかっていく背中を抱き止めたくなるから、オーリムは振り返れなかった。
立場だけはソフィアリアよりもフィーギスよりも上にいるクセに、二人はオーリムよりも先の先まで見越して行動しており、誤魔化されて言い含められて、流されていたら全てが終わっている。こんな事をずっと繰り返してばかりだ。
自分の情けなさと浅慮さに深く溜息を吐く。しっかりしたいのに、なかなか思う通りにいかない。
『くはっ。元より単純なおぬしには、貴族の化かし合いなぞ向いておらぬよ。今までろくに人間に関わっておらぬ、引きこもりだったではないか』
当たり前のように思考を読み、脳内でくつくつ笑う王鳥にイラっとする。誰が引きこもりだと悪態を吐いてもどこ吹く風。行動も、思考も、感情も何もかも、繋がっている王鳥には全てお見通しなのだ。
昔はそれが嫌でたまらなかったが、今はすっかり慣れてしまった。どころか、気配がないと落ち着かないとまで思ってしまうのは、単純に毒されたのか、王鳥に何か魔法をかけられたのか。何にしても、今はすっかりこれが普通になってしまっていた。
『そなたは代行人だからな。そなたは余であり、余はそなただ。意識は二つあるが、右手と左手が同じ一人のものであるのと同じように、切っても切り離せぬよ。……さて、さっさと用事を済ませてくるがよい。妃との逢瀬の時間を、これ以上減らされるのは我慢ならん』
その通りだ。オーリムだって、ソフィアリアをこれ以上一人で立たせたくない。一人でも頑張れるのだとしても、一人の方が好都合なのだとしても、もうオーリムの方が傍に寄り添っていないと落ち着かない。ソフィアリアはオーリムの中で、王鳥と同じくらい絶対になくてはならない存在へと膨れ上がっていた。
一度目を閉じて深呼吸をし、無表情を――どこか威厳のある、冷たさを帯びた表情を顔に貼り付け、代行人としての仮面を被る。そしてリスス・アモール公爵と向かい合った。
公爵は何故か、恨みがましいと言わんばかりの目で、オーリムを鋭く見据えていた。オーリムだって、彼が娘の行動を黙認している事は許せそうにない。
周りの貴族が、遠巻きにこの状況を見ている。蔓延る根も葉もない噂の為か、やはり気になるようだ。フィーギスの望み通り、これだけの人目があれば上々だろう。
「公爵。聞きたい事がある。……娘の事だ」
「私めからも言いたい事があります。お許しいただけるのでしたら、この首をも喜んで捧げましょう」
オーリムより一回りは大きく、背も頭半分は高い公爵が拳を胸に当て、深く礼をする。そんなものを捧げられても迷惑極まりないので一瞬眉根を寄せたが、スッと無表情に戻す。
「顔を上げろ。首はいらない。言い分は聞くが、嘘偽りを口にするのは許容しない」
「ありがたき幸せ」
顔を上げ、頭が高いと思ったのかしゃがみ、騎士の礼を取る。正直いらない配慮だが、話を早く終わらせる事の方が重要なので、頷いてそのままにする事にした。
「我らが妃であるソフィアリア・セイドは王鳥の伴侶となり、私と婚約した事は先程聞いていたな? しかし公爵の娘は、私と婚約する正当性を社交界で嘯いていると耳にした。あのドレスを身に纏っている事といい、とても容認出来る事ではない。……弁明を聞こうか」
つい必要以上に威圧的になってしまう。特にあのドレスの色は……紺混じりの黒に青のグラデーションの色のドレスは、ソフィアリアに着てみたいと言われたが、オーリムの我儘で断ってしまったのだ。
なのに全く無関係な公女に先を越させてしまった。ソフィアリアは傷付いただろう。こんな事になるなら、外出着でも部屋着でもいいから許しておくべきだった。己の見通しの悪さと狭量さに腹が立つ。
オーリムの威圧感に負けじと、公爵も眼光鋭く睨みつけきて、低く唸るような、怒りの感情を押し殺した声音で言葉を発した。
「嘯くなどと……代行人様と……アウィス様と我が娘プリモアが婚約していたのは、事実でございますれば」
「……は?」
「王鳥様にとっては人間同士の婚約など……いくら片方が代行人様の事と言えど気にも留めぬのかもしれません。ですが、代行人様も一人の人間です。愛し、求めたプリモアとの婚約をなかった事にはしてくださいますな。――王鳥様」
オーリムは公爵の主張に顔を顰める。出鱈目を言うなと怒鳴りたくなったが、彼の目は真剣そのもので、開きかけた口を閉じた。
彼の言っている言葉全てが理解出来ない。オーリムが婚約した事のある人間は後にも先にもソフィアリアただ一人だ。それ以外は絶対あり得ない。
そもそもアウィスとは? 確かにオーリムはアウィスレックスの家名をもらっている。が、今まで一度もそんな名前で呼ばれていた事などない。
それに何故今のオーリムを王鳥だと思っている? 代行人の事を一人の人間として認めろと言いつつ、公爵はそんな事すら見抜けていないではないか。
何より不愉快なのが、代行人がプリモアを――今初めて名前を聞いた公女を、自ら愛し求めて婚約したのだと言う。そんな事実は一切ないし、虚言でも許せる言葉ではない。ソフィアリアとすら、王鳥を介して婚約する事になったのだ。
絶句しているオーリムに、公爵は尚も言い募る。
「今代の王鳥様と代行人様が別人だという事は聞き及んでおります。何故そうなったのかは知りませぬが、王鳥様が王鳥妃様を愛し求めたように、代行人様であるアウィス様も一人の人間の男として、プリモアと恋に落ち、婚約したのです」
「……なにを」
「……王鳥様。愛しいお妃様をご寵愛する気持ちは、よくわかるつもりです。ですが、必要以上に甘やかし、堕落させる事は、愛とは違うと私めは思っております。お妃様のアウィス様も欲しいという願いを叶えて差し上げたい、そのお気持ちを、私如きが諌めるのは烏滸がましいのは重々承知です。ですが」
「……待て」
「今代の代行人様は、一人のアウィスという人間です。あなた様が選んだ代行人様のお気持ちも……プリモアを一目で見初めたと言ってくださったアウィス様のお気持ちも、少しばかり考えてやってはくださいませんか? 二人は王鳥様とお妃様と同じように、お互い愛し合って――」
言葉を続ける公爵に気圧されて、思わず一歩下がる。浅く何度か呼吸して、グッと歯を食い縛った。
『ほう? なるほどのぅ。世論はそうなっておったのか』
何がおかしいのかくつくつ笑う王鳥は、だがその言葉とは裏腹に全て知っていたのではないかと思う。おそらく公爵の言葉に拒絶を示すオーリムに、理解を浸透させる為に発した言葉なのだろう。王鳥が言うなら、それは事実だ。
要約すると、アウィスと言う名の代行人がプリモアという公女と相思相愛で婚約しており、だがソフィアリアがアウィスに横恋慕して、王鳥に頼み婚約破棄させ、奪ったという事か。フィーギスが昨日言っていた、公女がオーリムとの婚約の正当性を主張し、ソフィアリアの醜聞が広まっているというのがきっとそれなのだろう。
だが待ってほしい。オーリムはアウィスという名前で社交をした事がない。婚約もした事がないし、それは絶対に別人だと言い切れる。
顔はともかく、王鳥と同じ髪色の人間が他にもいるとは思えない。なら、顔の似た誰かが髪色を偽って代行人を騙り、プリモアと婚約したのだろうか。或いは顔より髪色の方が目立つのだから、顔は似ていなくてもいいのかもしれない。
世論と王鳥が言っていたから、そのアウィスという人間はプリモアを伴って社交もしていた筈だ。オーリムはあまり人目に姿を晒さず、顔より髪色の方が目立つので、そうやって偽る事は不可能ではない。
そして理解したくないのが、ソフィアリアが王鳥に願って婚約破棄させたという部分だ。ソフィアリアはそんな身勝手な振る舞いをする筈がないし、王鳥もそんな我儘を許す程甘くはない。が、社交界に出た事がないソフィアリアと、オーリムを介さなければ言葉を聞けない王鳥の性格など、伝わっている筈がない。
何故そんな出鱈目な事が広まっているのかはわからないが、わかる事はある。
神である王鳥の選んだ代行人を、赤の他人が騙るなんて畏れ知らずな事をやっている人を、その人は黙認しない筈だ。協力者でなければ、の話だが。
偽物の代行人と貴族であるプリモアが婚約するには、仲介人が必要だった筈だ。王鳥とオーリムがソフィアリアと婚約した時、その人が立ち会ってくれたように。
婚約も婚約破棄も、その人の許可がなければ実行出来ない筈だ。貴族の婚姻には、王族の許可が必要不可欠なのだから。
社交界に嘘の情報を流す事も、オーリム達に社交界の情報を伏せて偽の情報を渡す事も、その人には容易い筈だ。その人には使える手駒もたくさんあり、大屋敷にすら出入りしていた。
信じられないように目を見開いて、オーリムは勢いよく後ろを振り向いた。
『ようやっとわかったか。内容はともかく、妃は一季半も前から、其奴が何か企てる気でおる事は見抜いておったぞ。だが、遊びは終いだ。……妃の行方が先程から掴めぬ』
「――は?」
『王城は大鳥達が造形美を気に入って保管魔法をかけておるのは知っておろう?好き放題やらせておるから、気配が混じり合って中の様子がわかりづらい。余は妃とまだ繋がっておらぬから、ぼんやりとしか居場所を感知出来ぬし、たった今見失った。防壁はかけておるから万が一はないと思うが、何かあってからでは遅い。その場は放置してよいから先に身柄を確保しに行け』
ギョッとした。役立たずと脳内で罵り、慌てて踵を返そうとして、壁際で申し訳なさそうに立っているプロムスとアミーを見つけて、眉を吊り上げる。
『今日この場で妃があの二人を連れて行ける筈がなかろうて。少しは考えよ』
冷たい言葉で吐き捨てられ、グッと息が詰まる。
……そうだ。ここには貴族ばかり居て、プロムスもアミーも平民なのだ。何かあれば力になってくれるだろうと思って付けたが、二人が貴族に立ち向かえる筈もないし、二人……特にアミーに何かあれば、キャルが動いてしまう。ソフィアリアがそれに気付かない筈がない。色々と考えなしだったオーリムこそ愚かなのだ。
首を振って気を取り直し、さっさと探しに行こうとした。が……
「お待ちください、王鳥様!」
公爵に呼び止められる。怒りを鎮めるように目を閉じて、深呼吸をした。拳を強く握りしめると、無表情を――代行人という仮面を顔に貼り付け、マントを払いながら公爵の方へと振り向く。
今更だが、公爵からはあまり強い悪意は感じない。こういう貴族が集まる会場に来ると、誰とも知れないその悪意を勝手に感知して、肌が泡立つ感覚が強くなるのだが、彼からは比較的弱い方だ。
思い返してみれば、あの不愉快なドレスを纏っていたプリモアからも、あんな姿を堂々と晒しているにもかかわらず、特に何かを感じる事もなかった。
この父娘二人は誰かに、いいように操られている証拠だ。黒幕が別にいるのなら、二人に何も感じないのは当然だった。その事にようやく気が付いた。
そしてその黒幕は、王鳥が認めたから、その手の気配は一切しなくなっているのだ。
「……私は今、王鳥ではない。この王城で王鳥と変わったのは、二曲目のダンスの短い間だけだ」
「しっ、しかしっ……!」
「公爵。私は今まで一度も『アウィス』という人間であった事などない。人間名は別にあり、私も王鳥も同じく一人の妃のみを……ソフィアリア・セイドというただ一人のみを、生涯唯一愛している」
公爵が驚愕を目に表したのを見て、今度こそ踵を返す。チラリと一瞬視線を向けたフィーギスは、どこか冷たさを孕んだ笑みを湛えていた。
それには何も言わず、走り出す。今知った事が真実だとすれば、ソフィアリアは故意にオーリムと離されて、途轍もない逆境の只中に、一人で立たされている事になる。それがもう、我慢ならなかった。
――先程公爵に言った言葉は、本当はソフィアリア本人に一番最初に伝えたかった言葉だった。この後のデートで伝えてもいいだろうかと、少しだけ夢を見ていた。
だからバチが当たったのだろう。だってオーリムは一番大きな隠し事を、ソフィアリアにはまだ伝えられずにいるのだから――




