居場所 2
――『……私を助けて欲しいんだ、母さん』
――『……ええ、なにかしら? わたくしの愛しい子』
そんな冗談混じりの応酬が、この国にやって来たはじまりだった事を思い出す。
意図していたものだとわかっていたけれど、母や双子の姉のような存在として育てられたソフィアリアは、その相手であるフィーギス殿下の子供のように縋るような表情に抗えず、つい乗っかってしまったのだ。
だから、せめて最初で最後のお願いとして、その切実な願いの一つくらいは叶えてあげようと思った。それがマヤリス王女をコンバラリヤ王国に連れてきて、フィーギス殿下唯一の次代の王妃として迎えたいのだと言うのだから、協力しないという選択肢はなかった。
「わたしが……コンバラリヤ王国に残る道もあるかもしれないと思って……ずっとその道を選ばせない為に、時間を稼いでくれていたのですか……?」
とうとう堪えきれなくなって、ポロポロと綺麗な涙を流すマヤリス王女に困ったような笑みを浮かべ、首を横に振る。
「今となっては、それだけではなくなってしまったわ。だからそんなに思い詰めないでくださいな」
「そうやってまた、私とマーヤの気持ちを軽くしようとしてくれている事はわかっているよ。でもね」
鋭い目をしたフィーギス殿下は激情を抑え込むように唇を噛み、泣いているマヤリス王女に近付いて肩を抱くと、真っ向からソフィアリアと対立する。
「その為にソフィとリムがこんなふうに苦しむ事になるなら、気遣いは無用だったよ! 君達が苦しむ姿を見ている事しか出来ないくらいなら、私達の道は私達だけで、話し合って決められた。その方がずっと楽だったさっ‼︎」
「……本当に、その通りね」
自分に置き換えるなり、よく考えるなりすれば、そのくらい簡単にわかった事だったのに、何を余計な事をしてしまっていたのかと思わずにはいられない。
ただ、運命のように出会ったフィーギス殿下とマヤリス王女が結ばれない可能性を全排除したかったという、個人的な感情にこだわってしまったが故に、こうなってしまった。
本当に、自分は何をしているんだか。
ソフィアリアが珍しく心底後悔しているような表情をしているのを見たフィーギス殿下は、ぐっと眉根を寄せ、目元を覆って大きく息を吐く。そうやって、感情的に怒鳴った事を反省しているのだろう。
「……すまない。もとはといえば私が頼ったせい――私達の為を思ってしてくれていた事なのに……怒鳴りつける資格は、私にはなかったね」
「いいえ。間違いを犯した時に叱ってくれる人がいるというのは、わたくしにとってはありがたい事ですから。どうか気に病まないでくださいませ」
「……すまない」
それっきり、黙りこくってしまった。もっとソフィアリアに言いたい事があっただろうに、反省の意を込めて飲み込むと決めてしまったらしい。
感情を律せるはずのフィーギス殿下がそこまでの失態を晒すのは、やはりどこかでソフィアリアに甘えているからだろう。ソフィアリア的には別にいいと言いたいが、そういう事はマヤリス王女に任せる事にしたのだから、これ以上口出しは出来ない。
「……リスティスに現実と向き合わせれば、国を乱し、王族よりも尊い御三方に横槍を入れようとした自責の念に駆られ、次期王妃の座から降りるだろうとお考えになられたのですね?」
次はギュッと唇を噛んだマヤリス王女が、震える声でそれを尋ねてくるから、ソフィアリアは首肯した。
「実際、早い段階から目を醒させてしまえば、そういった行動に出る人だと思うわ」
「私もそう思います。そうなってしまえば、リスティスへの想いとその血統を求めて王太子の座に甘んじていたレイザールも、責任を取ると言い出しかねません」
「その次はきっと、リース様が女王になると言い出したでしょう? フィー殿下唯一の妃という立場も渋っていたし、いい逃げ道だと思って飛び付いたのではないかしら」
真剣な目でその憶測を突き付けると、キュッと眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情をする。
そんな反応を見せるという事は、図星なのだろう。そのくらいすぐに思い至ったから、どうにか意識を変えようと、オーリムを放置してまで時間を稼いで、その間に説得するつもりだったが……思うように説得の時間を取る事が出来なくて、思いのほか他所に目を向けるオーリムの姿がショックで、ソフィアリアに余裕がなくなってしまったのだから、結局無意味な行動で終わってしまった。
でも、最後の悪あがきに一つだけ。こうして何もかも準備が不十分なまま卑怯な手を使って、せめて最後の賭けに出る事にした。
――信仰する大鳥への告解という行為を利用して全てをぶち撒け、そこまでさせてしまった罪悪感を煽って願いを汲み取ってもらうという、最低最悪な手段を取った。
マヤリス王女もそれを察したのだろう。痛ましい表現を隠すように顔を伏せて、長く重苦しい息を吐く。ソフィアリアへの嫌悪を感じないあたり、そんな行動に出たソフィアリアより、そうさせてしまった自分の方が許せないようだ。
嫌ってくれていいはずなのに、優しい子だと笑みを浮かべ、その優しさにつけ込むソフィアリアの卑劣さがますます際立っていく。
でも、目的の為に使える手はなんでも利用するのが、ソフィアリアという人間なのだから、後悔はない。
あとはソフィアリアという人間の悪辣さを受け入れて、マヤリス王女の決断を見守るだけだ。
「……あんな事を言い出したレイザールを、もう信用出来ません」
「うん」
「これからの事を思うと、今の王家をそのままにしておく事も、得策ではないと考えております」
「そうね」
「リスティスだって、もう、信用出来ませんっ……」
「……そっか」
「ですから……です、からっ…………」
その決断を下す瞬間を、ソフィアリアは静かに見守っていた。王族という立場をよく理解している聡明なマヤリス王女が出す答えなんてわかりきっていたけど、万が一があればいいと願って。
「マーヤ」
苦しみに喘ぐマヤリス王女の手を取ったフィーギス殿下は、優しい表情をしてその場に跪く。
「ギース様?」
「このままソフィに頼りきりというのは、あまりにも情けない男だと思われるからね。だから私の口から言わせてほしい」
そう言って手の甲に口付ける。マヤリス王女はふわりと頰を柔らかく染めた。
突然始まった二人の世界を邪魔しないよう静かに立ち上がると、ガゼボから出て、王鳥の隣から二人を見守る事にした。さり気なくピタリと引き寄せられ、片翼で肩を抱かれる。
「マーヤ……マヤリス・サーティス・コンバラリヤ第一王女。心から愛しいと思える私の運命。どうか私の唯一の妃として、我がビドゥア聖島に来てくれないか?」
蕩けるような甘い表情で言われたプロポーズの言葉に、マヤリス王女は目を見張って動揺していた。
「でも、わたしは……!」
「こんな故郷でも捨て置けない優しさは知っているよ。なにせ死にたがりの王太子の命を繋ぐ為に、自分からプロポーズするような子だったからね」
「っ! プロポーズした理由は、それだけではありませんっ! わたしがギース様に恋をして、もっとずっとお側に居たいと……思ったのです……」
言葉が尻すぼみになるのは、説得力がないと自分でもわかったからだろう。
恋をして側に居たいが為に自分からプロポーズまでしたのに、側妃を娶ってほしいと矛盾した態度を取るのは何故なのか、まだ誰にも打ち明けていない。なんとなく察するところはあるが、本人の口から語られた訳ではない。
そこを突くように、フィーギス殿下は笑みを浮かべながら、すっと目を細めた。
「私は別にいいと思っているのだよ。たとえ優しさだけが理由だとしても、私の隣を望んでくれただけで満足さ」
「違います、違うんですっ……!」
涙を湛え、強く否定する。
だから、理由を言わない訳にはいかなくなってしまった。ずっと口に出そうとしなかった、その弱さを曝け出さない訳には……。
ギュッと手に力を込めたのが見える。
一度落ち着くように深呼吸して、震える声で、初めてその胸の内を教えてくれた。
「ギース様の事をお慕いしている気持ちは本物です。隣で共に頑張りたいと思った気持ちも……。ですが、わたしはこの国で、結局自分の立場を確立する事が出来ませんでした」
そう言って項垂れる姿を見て、やはりそうだったんだなと目を伏せる。
「どうせ私の国に来るのだから、この国での地位なんて、必要ないのではないかな?」
「そういう訳にはまいりません。他国から王女を迎えるのですから、その王女が国でどんな事を学び、嫁ぐ国にどんな利益をもたらし……自国でどのような立場を構築して、評価されてきたかだって、当然図られます」
「そうだね。でも他で補ってあまりあるなら、多少大目に見られたっていいのではないかい? 実際マーヤの得た知識を我が国で広めてもらえば、その恩恵は計り知れない」
「両国が友好であるなら、それもありでしょう。ビドゥア聖島でコンバラリヤ王国の王女が歓迎されるだけの信頼があるならば」
そう問われたら、口を噤むしかなくなる。たしかに一番近しい大国だと広く知られているが、友好的な態度をとれるかどうかは微妙なところだ。ビドゥア聖島はどこか閉鎖的で、大鳥に護られている特異性から、むしろ他国を下に見る傾向にあるのも確かなので。
「……マーヤが信用を勝ち取れば済む話だよ。それが出来ると信じている」
「ええ、そうです。わたし次第なんですよ、ギース様」
困ったような微笑みを浮かべながらそう言われて、ようやく全てが腑に落ちた。血統も確かで志も高く、高い学力を有するマヤリス王女が何をそこまで気にして、フィーギス殿下唯一の妃という立場を躊躇していたのか。
「だから、最初から全てが完璧でなければならないって考えてしまったんだね」
苦笑するフィーギス殿下にしょんぼりした顔を見せながら、マヤリス王女はコクリと頷く。
「最初はわたしも社交をし、公務をこなす事で地位を確立しようと行動しておりました」
「そのあたりの事は、私も聞いているよ。でも途中で王妃教育で手一杯になったんだよね?」
「……いいえ」
ゆるゆると首を振るマヤリス王女に、ソフィアリアはそうだろうなと納得したが、初耳だったらしいフィーギス殿下は驚いて目を丸くしていた。
「王妃教育自体はそう難しい事ではありませんでした。ある程度の下地はありましたし、早々に習得し終えて、もっと専門的な学問を深掘りする程度の余裕はあったのです」
「では、何故途中から社交を怠ったんだい?」
「わたしが地位を確立し、動けば動くほど……わたしの事を次期女王に据えようとする勢力が蠢き始めたのを感じとった為です」
「ああ、うん。そうだったね……」
そう言って遠い目をしているフィーギス殿下は、そのあたりの事が頭から抜け落ちていたらしい。ソフィアリアも言われるまで、考えが及ばなかったけれど。
というのも、フィーギス殿下はきちんと正式な手順を踏んで、抜かりなくマヤリス王女をビドゥア聖島に迎える手筈を整えていたので慢心していたようだが、コンバラリヤ王国にとってビドゥア聖島とは辺境の島国でしかなく、ぞんざいに扱っても許される小国と侮っている節がある。ビドゥア聖島から見て対等だと思っていても、コンバラリヤ王国から見れば案外そうでもないのだと、この学園に来て初めて思い知った。
だから王家から蔑ろにされて育った王女一人を送ったところで無関心でいられたが、その王女が実はとんでもなく優秀で、自力で地位を確立しはじめ、人気を集めるとなると、そういう訳にはいかなくなったのだろう。
だってマヤリス王女は二代前の女王と同じ血が流れる、生粋の王族だったのだから。
「ですから、ビドゥア聖島に渡れなくなり、次期女王だと担がれる事を恐れて、表舞台から消える他ありませんでした」
「その言い訳として、王妃教育が忙しいという理由を使ったのだね」
「はい、申し訳ございません……」
「構わないとも。マーヤを我が国に呼べない方が、よほど由々しき事態だ」
そう言って安心させるように微笑んでいたが、マヤリス王女の表情が晴れる事はない。
「ですが、国内での地位を確立出来ない事で、新たな問題が発生したのです」
「自国で地位を確立する事すら出来ない王女に、次期王妃が務まるのかと不信感を抱かれると考えたのかい?」
「わたしが不信感を抱かれるだけなら別にいいのです。実際にビドゥア聖島に渡ってからそれを払拭すればいいだけですし、その為の策略も色々と考えてありました」
「では何故?」
フィーギス殿下がそこまで考えていたのに?と、心底不思議そうな顔をしていたので、それを見たマヤリス王女は困ったような表情をして、言った。
「わたしが評価されるまで、おそらく数年から数十年単位で時間が掛かるでしょう。それまでのわたしは、大国の王女という血統しか誇れるものがありません。……そんな人間を唯一として娶ったと、ギース様の足を引っ張りたくないのです」
そう訴える瞳は、誰よりも切実だ。




