少女は救いを夢見る 1
十歳になる直前まで、現実の世界は自分にも優しかったと思う。
父もよく構ってくれたし、母はたくさんの愛情をくれた。優しく微笑んでくれる使用人。歓迎してくれる領民達――ちょっと頼りないけど、真面目で優秀な仲のいい婚約者。彼と過ごす時間は幸せで、お嫁さんになる日を指折り数えて待っていた。
『次の誕生日プレゼントはアメジストを使った髪飾りなんだが……その、貰ってくれるか……?』
――ああ、そんな話もしていたような気がする。
状況が一変したのは母が亡くなってから。何故亡くなったのかは覚えていない。心が痛くて忘れてしまったから。
その後、喪も明けないうちに父は愛人を屋敷に招き入れた。父は優しかったけれど母を愛していたわけではなくて、母も父を愛していなかったから、そんなものだと受け入れられた。喪も明けないうちから招くのはどうかと思ったが、それだけだ。
愛人には、自分と同じ琥珀色の瞳を持つ可愛らしい女の子もついてきた。
『お姉様が出来て嬉しいです。その、よろしくお願いします!』
そう言ってちょこんとカーテシーをする姿は本当に愛らしい。だから姉として導き、優しくしよう思った。これからは家族になるのだから。
けれど父と義母、義妹はそう思わなかったらしい。
まず部屋を取り壊し予定だった旧館に移された。母からもらった綺麗なドレスや装飾品は義妹のものになった。食事が最低限生きる為の粗末な物になった。使用人が冷たくなった。
――婚約者は可愛い義妹に夢中になり、庭を並んで歩く義妹の髪には、綺麗なアメジストの髪飾りが飾られていた。
変わってしまった現実に心が疲弊して、くるくる表情が変わる明るい女の子が、物を映さない人形のようになるのは仕方なかったのだろう。
だから夢の中にだけ救いを見出した。そこで出会ったのが『ラズ』と名乗った男の子だったのだ。
*
「おはよう、リム様。今日はみんなでパンケーキを焼いてみたの。わたくしの作ったものは生クリームとセイドベリーソース添えなのだけれど、朝から甘い物でも大丈夫かしら?」
「あ、ああ、おはよう……うん、食べたい。ありがとう」
「どういたしまして。席について待っていてくださいな」
翌朝。一番最後に起きてきたオーリムに笑顔を振り撒きながらそう言うと、バツが悪そうに視線を逸らされた。
いつもならキラキラした目で喜んでくれるのにと心をチクチクさせながら、それに気付かないふりをして配膳をする。
何故パンケーキを焼いているのかというと、朝起きたらプロディージがオーリムが寝坊していると不貞腐れながら作っていたので、女性四人は便乗する事にしたのだ。みんなが想い人の分もと張り切っているなか、メルローゼが作る事だけはプロディージが全力で阻止し、代わりに作ってあげていたが。ついでにラトゥスの分もプロディージが用意していた。
幸せそうなみんなとは違ってオーリムからは思っていた反応が返ってこなかったが、食べたいと言ってくれたので気持ちは浮上した。
全員揃ったのでいただきますと挨拶をし、王鳥に分け与えながら隣に座るオーリムの反応を伺う。とても普通だ。普通だから、やはりおかしい。いつもはもっと幸せそうな顔をしながら食べてくれるのに。
でも、ニコニコ笑い続けた。王鳥もスリスリしてくれるし、これで正解なのだろう。
「美味しい、リム様?」
「ん、美味い。セイドベリーは王が?」
「ええ、そうよ。貰ったからソースにしてみたの。王様も美味しいかしら?」
「ピ!」
美味しいらしい。二人にそう言ってもらえたからソフィアリアも満足して、笑顔が止まらないのだ。
せっかくだから今聞いてみようかなと、より一層笑みを深めた。
「ねえ、リム様? 今日は夢の中で、どんな浮気をしていたの?」
「ぶっ⁉︎」
予想していなかった質問なのかパンケーキを喉に詰まらせ、ケホケホと咽せていた。ソフィアリアは水を差し出し、笑みを浮かべたまま背中を摩る。
テーブルの空気が凍り付いているが、はて、何かあっただろうか?
「あの、ソフィアリア様? それはあまりにも……」
引き攣った表情でオーリムの助け船を出そうとするプロムスに視線を向け、笑みを浮かべながら首を傾げる。何故かそれだけで言葉を詰まらせていたが、そもそも、だ。
「わたくしね、考えたのだけれど、隠れてこそこそするから、邪推して辛くなってしまうと思うの」
「は、はあ……?」
「でもね、いっそ堂々と言ってくれれば、わたくしも現状を把握出来るし、平等を求めたり、上回ったりする事が出来るでしょう? そうすればわたくしも余計な事を考えなくて済むから楽、リム様も隠し事がなくなって楽じゃないかしら?」
名案とばかりにキラキラしながら言うと、マヤリス王女以外の人は引いていた。プロディージも鼻で笑ってくれたが、目は冷たい。
「浮気内容を知るのは、かえって辛くないか……?」
「はは、他所で何をしてきたのか報告するのかい?」
遠い目をしたラトゥスとフィーギス殿下の言葉を見るに、男性側の意見は微妙らしい。
女性陣に視線を向けると、メルローゼとアミーには青い顔をされ、首を横に振っていた。知りたくないようだ。
「そうですね! 仔細話される必要はありませんが、状況を大雑把に把握しておくというのは正妻という立場であれば必要かと思います。特に二人だけでしたら管理者は自分になるので、過不足あれば指導する必要がありますし、いい案ではないでしょうか?」
マヤリス王女は管理の重要性をわかってくれているが、それが必要な第二王妃の件は諦める気はないのか、そちらばかり気になってしまう。フィーギス殿下も頰を引き攣らせてしまったし、嫌な事を思い出させて申し訳ない。
王鳥も不満顔で頭を突いてくるし、いい案だと思ったのだが、ダメなようだ。難しいものだと溜息を吐いた。
「……本当にフィアは楽か?」
頭を悩ませていたら、ようやく復活したオーリムから真剣な表情で尋ねられて、首を縦に振る。
「わたくしは知っておきたいけれど、リム様が辛いなら我慢するわ」
反応を見るとソフィアリアの意見は少数派らしいので、それだけは伝えておく。ただでさえ辛い思いをしているオーリムをこれ以上苦しめるのは本意ではない。
だが優しいオーリムは首を横に振った。
「フィアに辛い思いをさせてるのは俺だから、別にいい」
「一番辛いのはリム様じゃない」
「俺もキツいけど、フィアはもっとだろ。それに、上書き出来るものはしておきたい」
態度は冷め切ってしまったけれど、言葉はいつも通りでキュンとした。やはりオーリムはソフィアリアが好きなのだと頰が緩む。食事中に行儀が悪いが、頰を両手で挟んでふわふわしていた。
「あら、そう? ふふふ、嬉しいわ。なら、なんでも遠慮なく言ってくださいな。ちなみに今日は何をしていたの?」
「子供の姿で、どこかの庭をエスコートして歩いてた。でも……」
その時の感情を思い出したのか、幸せそうな笑みを浮かべるオーリムにチクチクしつつ、どこか歯切れの悪さに首を傾げる。
「……あなたは妹のところに行かないのかって尋ねられたな」
シーンと沈黙が流れ、困惑した雰囲気が漂う。
「妹って、ミゼーディア公爵家のあれよね?」
メルローゼもだいぶ失礼な態度を隠そうとしなくなったなと苦笑しつつ、頷く。リスティスの言う妹とは、きっとルルスの事だろう。
リスティスがそう尋ねる何かが身近なところで起きていたらしい。その何かは、昨日プロディージ達がお茶会で集めた情報と照らし合わせれば、なんとなく想像はつく。
「うむ? レイザール殿はルルスと密会でもしていたのかな?」
「表情から見ても苦手意識が強く、接触は避けたがっている様子だったが」
フィーギス殿下とラトゥスの言う通りだとソフィアリアは思った。
それに、ソフィアリアから見てルルスは色々な意味で近寄りがたいのだが、リスティスから見れば、ルルスは人を惹きつけるような子に見えるのだろうか?
「昔は違ったんじゃないの?」
「レイザール殿下が昔はルルス様を好きだったってか? あのルルス様を?」
「……ルルス様がミウム様のように、人が変わられた可能性があるのでしょうか」
アミーがポツリと溢した言葉に、みんながはっとする。その可能性に思い至らなかったのだ。
そしてこの中で知っていそうなマヤリス王女に視線が向いた。
視線を向けられたマヤリス王女は、気まずそうに視線を逸らしていたが。
「えっと、申し訳ございません。わたしが表に出してもらえたのがここ三年くらいですので、それ以前の事はさっぱりです」
「それでもいいわ。その間どんな様子だったのか、なにか知らないかしら?」
ソフィアリアがそう尋ねると、マヤリス王女はう〜んと唸り声を上げながら、考え込む。
「……たしかに今ほど高圧的ではなかったかもしれませんが、何かあればレイザールに会いにくる事だけは、あまり変わりません」
「えっ、昔はあんなに威張り散らしていなかったの⁉︎」
「ええと、はい。でも、なんと言いますか、下手に出る風を装って、言葉で圧力を掛けてくる子ではありました。リスティスの立場が悪くなるかもしれませんね、みたいな感じで、よくレイザールに詰め寄っていたのを覚えてます」
それでは今とあまり変わらないのではないかと思ったが、下手に出るという姿は、ソフィアリアの知る限りでは想像出来ない姿だ。見た限りかなり積極的で、高飛車に見えたのに。
「今と違った意味で面倒臭い女ですね。ではいつ頃から様子が変わったのか、覚えてませんか?」
プロディージがそう問うと、マヤリス王女は困ったように眉を下げる。
「一年くらい前だったでしょうか? あまりにも見かねて一度だけ、注意をした事があるんです。それはレイザールを脅しているのかと」
「ははっ、マーヤも我慢出来なくなったのかい?」
「はい。オドオドしながらそんなつもりはないと言われましたが、そうにしか見えず……。筆頭公爵家の令嬢がそうやってオドオドしてる事もどうかと思うと咎めてからは、今みたいに堂々と脅してくるようになってしまいまして……。レイザールにはかえって申し訳ない事をしてしまいました」
「それは態度を改めたのか、歪みにあてられたせいなのか、判断が難しいですね」
「そうなんです」
しょんぼりしてしまったマヤリス王女の事は、ヴィルが嘴で髪を梳いて慰めていた。
たしかにラトゥスの言った通り、判断が難しいなと思った。表向きの態度だけは変わったようだが、結局リスティスを盾にやりたい放題している事には変わりない。
「ありがとうございます、リース様。それだけ聞ければ充分よ」
「お姉様にそう言っていただけると救われます。今日リスティスにも聞いてみなければいけませんね」
ふんすと握り拳を作って気合いを入れるマヤリス王女を頼もしく思いつつ、まあ、何にしても今日はリスティスと、夜にはレイザール殿下と話す機会があるのだから、直接尋ねればもっと何かがわかるだろう。この状況も、解決の糸口が見つかればいいなと願っていた。
「で、リム様」
「……なんだ?」
パンケーキを食べ終わってきょとんとしているオーリムに、にっこりと笑う。
「お庭を散策して、エスコートをしただけ?」
うふふと笑ってそれを問うと、ギクリと肩を震わせ、つーっと視線を逸らされた。
「リ・ム・さ・ま?」
「…………抱きしめて、頰にキスした」
「ビ!」
「痛っ⁉︎」
だろうなとシクシク胸を痛めていたら、王鳥に突かれていたから、まあいいかと許す事にした。昨日は爪先にキスをして踊ったと言っていたから、行為がエスカレートしているのではないかと推測していたのだが、その通りだったらしい。
所詮夢の話だ。現実じゃない。でも心中複雑どころではないから、早急に解決する必要があるだろう。明日がどうなるかだなんて、考えたくもなかった。
「なら、わたくしには両頬にくださいな」
色々な気持ちを押し込めて笑顔でおねだりすれば、頭を押さえながら涙目でコクコクと頷いたからよしとしよう。お返しもすれば上回った事に出来るだろうかと、のほほんと考えていた。
「怖ぇ〜……」
なにかプロムスから言われたが、聞こえなかった事にした。




