大海原の上、仮初の夫婦 2
話は今日から二週間前、あの行商初日まで遡る。
「で? 言い訳を聞こうか?」
買い物デートを中断し、大屋敷の応接室に移動した後、オーリムは腕と足を組んで、不機嫌そうにフィーギス殿下を尋問していた。
まあ当のフィーギス殿下は全く堪えておらず、王鳥に突かれたせいで赤くなった額を物ともせず、優雅に紅茶を楽しんでいたが。
「そう怒る事ないではないか。ほんの冗談だよ?」
「信用出来るかっ!」
「プピ!」
そう言ってチクチク警戒するのには、訳がある。二人はソフィアリアとフィーギス殿下の間にあった関係性を、よく思っていないのだ。
といっても、色っぽい話は何一つない。ソフィアリア達の先生が、亡くなったと思っていたフィーギス殿下とラトゥスの親代わり兼教育係の老夫婦だったのが、全てのはじまりだ。
ソフィアリアは王城に帰れなくなった先生達の代わりに、フィーギス殿下が過酷な王城で間違った方向に成長してしまった時の矯正役や親や姉代わりを務めてもらうべく、育てられてきたのだ。
先生達がフィーギス殿下に教えるはずだった帝王学をソフィアリアに施して、側妃として送り込もうとしていた。まあその話はフィーギス殿下が大恋愛をし、唯一の最愛を見つけた三年前に立ち消えた話だが。
話自体は立ち消えたものの、そう言い聞かされて育ったせいか、どうもソフィアリアは、身分的にも年齢的にも上だったはずのフィーギス殿下を、自分の庇護者のように感じる時がある。もしくは、同じ教育を受けて、似通った思考回路をしているので、双子の姉といったところだろうか。
そういうソフィアリアの振る舞いが、何かフィーギス殿下の心を刺激してしまったらしい。母さん呼びは悪ふざけだと思うが、気の許せる家族のような存在だと、ソフィアリアを心に定着させてしまったのかもしれない。フィーギス殿下の婚約者に謝罪しなければならない事が増えていくなと、しくしくと胸を痛める。
オーリムと王鳥は、そんな二人の関係性を許せないから、警戒心を抱いているようだ。
オーリムは孤児だったせいか、親や家族というものに強い憧れがあり、ソフィアリアを親扱いするフィーギス殿下を許せない。
王鳥は伴侶以外は側に置かない大鳥の習性から、擬似親子や姉弟というのを受け付けない。
なので、ソフィアリアを母と呼び慕いそうになっているフィーギス殿下を、牽制せずにはいられないのだろう。二人は実弟のプロディージが弟としてソフィアリアに甘える事すら嫌がる程の、独占欲の強さなのだから。
ついでに、ここに一緒に呼ばれたメルローゼも、ピリピリした雰囲気でフィーギス殿下を威嚇している。元々思うところがあったのに、義姉で友人のソフィアリアを母親扱いするフィーギス殿下への好感度が、ますます下がってしまったらしい。
「だから言ったんだ。年下で友人の婚約者を母と呼び慕うのは、控えめに言っても気持ち悪いと」
ラトゥスまで呆れ顔である。もはや周りに味方なしだ。だからつい不憫になって味方……しようとする思考回路のせいで、ますます拗れるんだろうなと思い至り、ぐっと我慢した。ソフィアリアにも充分原因があると言えるだろう。
「まあ、そこは悪かったと大いに反省するよ。でも、ソフィに助けてほしいのは本当なのだよ?」
「わたくしにですか?」
きょとんとした表情で、首を傾げる。いくら身に余る教育を施されたと言っても、元はただの男爵令嬢だ。今は王鳥妃として、この国では王族より上の位に立っているが、まだ結婚はしていないので権力を振るったとしても、説得力がない。
なので話は聞けても、助けられる事なんて、あまりないと思うのだが……。
フィーギス殿下は懐から一枚、可愛らしい封筒を取り出し、ソフィアリアに差し出した。
「これは?」
「リースからのお手紙ですわねっ!」
中身を見る前に、目敏く見つけたメルローゼのおかげで、正体が判明した。
どうやらこれは、フィーギス殿下の最愛の婚約者である、隣国コンバラリヤ王国の第一王女殿下――マヤリス王女からのお手紙らしい。
ちなみにマヤリス王女は、メルローゼの大親友でもある。フィーギス殿下と婚約したここ三年ほどは会えておらず、内緒の文通で我慢しているメルローゼは、マヤリス王女をこれでもかと猫可愛がりしていた。だから横から掻っ攫ったフィーギス殿下と折り合いが悪いのだ。
宛名を見ると、フィーギス殿下宛てになっている。もしかしなくてもこれは、恋文なのではないだろうか?
「……わたくしがお読みしてもよろしいのでしょうか?」
「いいとも。私への愛の私信は、抜き取ってあるからね」
「本当に抜き取ってありますの? 最初からそんなものはなく、都合のいい妄想ではございませんこと?」
「なんて事言うのかね、ペクーニア嬢? 見せる気はないけれど、婚約してから三年分、目一杯の愛を受け取っているのだよ」
「ふっ、三年。私は九年分ございますわよ!」
「ははっ、君こそまやかしじゃないかな?」
「まごう事なき現実ですわっ⁉︎」
二人の言い争いに付き合っていたら話が進まないので、少し悪い気がしつつ、中身をあらためる。
開けると便箋につけられた甘い香りがし、そそそと隣に移動してきたメルローゼがピタリとくっ付いてきて「あっ、リースの香り」なんてうっとりしているが、色々後回しにする。
文章は途中から始まっているので全文は不明だが、綺麗で可愛らしい文字で書かれているのは、近状報告と恋文混じりのようだ。まっすぐ素直な気持ちが可愛いなと頬を緩ませて読み進めていたら、後半はそんな気持ちが失せてしまうくらい、大変な事が書かれていた。
「……コンバラリヤ王国では今、厄介な病でも流行していたりするのでしょうか?」
とりあえず一番最初に思いついた可能性を口にする。それはそれでマヤリス王女を迎える事が危ぶまれるのだが、多分そういう話ではないだろう。仮にそうだとすれば、ソフィアリアには手に負えないのだから。
「病気ではない……と思うのだけれどね。流行り病の類はないらしいよ」
「なら、何故こうもあの国の王子や姫が、次々と除籍されるなんて事になる?」
メルローゼの反対で手紙を覗き見ていたオーリムも、渋面を作る。
そう、手紙には最近、マヤリス王女の腹違いの兄弟達が、次々と除籍される事態に陥っており、残る王族は王太子である第一王子と第二王子、そしてマヤリス王女だけになったと書いてあった。そして第二王子の方の除籍は、時間の問題だとも。
もし両王子殿下が除籍となれば、最後に残ったマヤリス王女が女王として立たねばならず、その場合、フィーギス殿下と結婚出来なくなるかもしれないという嘆きが綴ってあったのだ。
このビドゥア聖島では認められていないが、コンバラリヤ王国では女王が君臨するのを認められている。まあ、非常に稀な例ではあるみたいだが。
メルローゼが扇子で口元を隠し、少し考えてから、言った。
「第二王子殿下が除籍間近なのでしたら、普通に考えて、王太子殿下が他の兄弟を除籍に追い込んでいるのではありませんの?」
「何の為に? 彼は王太子としての地盤は盤石だし、危機感を抱いて周りを追い落とす事が出来るような、気概のある男ではないよ」
「王太子殿下がそうでも、周りが放って置かなかったのかもしれませんわね」
話を聞く限りコンバラリヤ王国の王太子殿下は、少し頼りない感じのようだ。なら、頼りない王太子殿下が間違いなく国を継げるよう、周りが勝手に気を回すというのは、ない話ではない。
それくらいフィーギス殿下でもわかりそうなものだがと首を傾げながら次を読み進めると、思わず硬直してしまった。なるほど、その可能性を捨てるのも納得である。
「……何故、唯一残りそうな王太子にも、廃嫡の可能性が出る?」
「下手うって、誰かに決定的な証拠でも握られたとか?」
「たとえそうだとしても、唯一残りそうな王族よ? 自分の地位を確立する為だったと言えばいいだけだし、廃嫡なんてなさらないと思うわ」
あまり褒められ事ではないし、王位を継いだ暁には相当な反発や内乱は免れないだろうが、それでも唯一残った後継者候補だから、据え置かざるを得ない。
なのに、王太子殿下ですら廃嫡の危機に晒されている。これはどういう事なのだろうか?
「あっ、リースは絶対違いますわよっ⁉︎」
「ふふ、わかっているわ。マヤリス王女殿下が王位欲しさにした事なら、こんな切実なお手紙を送ってくるはずがないもの。疑っていないから、安心して」
「そうだとも。冷遇されていたマーヤはコンバラリヤに思い入れはなく、私と共にこの国で暮らす日を、心待ちにしてくれているのだからね!」
「ええ、リースは婚約者を隠れ蓑に、私に会いたくて、この国にやってくるのですわ!」
笑顔で火花を散らし合う二人は、もう好きなだけやらせておく事にして、色々考えてみたものの、やはり判断を下す為の材料が少な過ぎるなと思った。
どのみち様子見の為に、フィーギス殿下との婚姻の延期は確実で、年明けには正式な文書による通達が届けられてしまうだろうと書かれていた。より深刻なのは、こちらかもしれない。
そこまで読んだと察してくれたラトゥスから、少し困ったような表情を向けられた。
「……そんな通達が届いてしまえば、フィーとマヤリス王女殿下の婚約は、確実に解消されるだろう」
「当然だな。そんな曖昧な理由で他国との婚姻を反故にしようだなんて、あっちがこの国を軽んじている証拠だ。そんな国の王女を、わざわざ国に招き入れる必要はないと判断するだろ」
オーリムと同意見なので、ソフィアリアも頷いた。そして「助けてほしい」というのが何の事なのかも、漠然と理解する……今日という日を狙って、このタイミングで縋り付いてきた理由も。
そのちゃっかりさはさすがだなと困ったように微笑むと、フィーギス殿下と目が合い、また縋るような視線を向けられ、切実に訴えかけてくる。
「だからソフィ、私と共に、コンバラリヤ王国に行ってくれないだろうか?」
――ソフィアリアはその視線に弱いと、すっかりバレてしまったうえで。




