無邪気なお姫さま 3
「そうだわ! せっかくお水があるのだから、ラズくんキレイキレイしましょう!」
そう言うと立ち上がり、ポケットからお気に入りのハンカチを取り出した。普通の家では滅多に見ない綺麗なハンカチを取り出した事にラズはギョッとしたが、川に寄ってハンカチを水に浸していたソフィアリアは気付いていない。
水に濡らしたハンカチを持ってラズの手を取ると、指の先からゴシゴシと擦る。そのハンカチの手触りの滑らかに目を白黒させて、今更ながら彼はソフィアリアの正体に疑問を抱いたが、それよりも綺麗な女の子に手を握られた事に真っ赤になって、その事は一瞬で吹き飛んでしまった。
「あら? おててがキレイになる前に、ハンカチが真っ黒になってしまったわ。お家に帰って新しいのを持ってこなきゃ。はい、とりあえず気になる所はこれで我慢して拭いてね」
「え、あの……」
「そういえばラズくんはどこにお家があるの?」
ソフィアリアにとっては家がある事が普通だったので当たり前の事を聞いたつもりだったのだが、ラズは眉根を寄せ、不貞腐れたような声音で投げやりに答えた。
「ない。スラムの空き家で、適当に寝てる」
「まあ! お家がないの? ……じゃあ今日からあなたはお友達だから、ソフィ達と一緒のお部屋で楽しく暮らしましょう!」
ソフィアリアにとってはお友達とはお人形であり、部屋で一緒に暮らすというのは普通の事だった。相手が人間であってもその考えは変わらず、お友達だから一緒に暮らすのだと当然のように思っていた。
手を取ったまま歩き出したソフィアリアを戸惑ったように見つめ、けれど物心ついた頃から一人でスラム内を転々としていたラズにとっては抗いがたいお誘いだったので、そのまま引っ張られていた。
家族が他にいるのではないのか、スラムの孤児と一緒に住んでくれるのかとか色々疑問はあったが、綺麗で優しい女の子の手を振り払うのは惜しいと思ってしまったのだ。
繋がれた手を見つめたまま、夢のようなふわふわした取り止めのない話を聞いていたので、ソフィアリアがどこに向かっているのか、全く気付いていなかった。
――ソフィアリアはここからでも見えるお屋敷に真っ直ぐに向かっていた。ここらで一番大きな建物だ。だから迷う事なんてない。
やがて門が見えて来る。ラズはここまで来てようやくソフィアリアがどこに向かっていたのかに気付き、目を見開いて足を止めた。
「あそこがソフィのおうちなのよ! ソフィはお城のお姫さまなの」
ラズにつられて足を止める。お屋敷を見ていたので指を指し、笑顔で自分の正体を明かす。父の忠告なんて、久々の新しいお友達に浮かれていてすっかり忘れていた。
「……あそこがあんたの家?」
どこか暗い声音で呆然と話すラズの声に、けれど人の機敏なんてわかる筈もない無知なソフィアリアは無邪気に大きく、明るい笑顔で首を縦に振る。
「ええ、そうよ! ラズくんも……」
だが言葉を言い終わる前にラズが繋いでいた手を振り払い、ドンっとソフィアリアの肩を押した。
「きゃあ⁉︎」
肩を押されたソフィアリアは尻餅をつき、初めて乱暴な扱いを受けた事に驚いてラズを見上げる。
よく驚いたように目をまん丸にする彼が、スティックパイをキラキラとした目で美味しそうに食べていた彼が、真っ赤になって後ろを着いてきた彼が――宝石のように、いや、宝石よりももっとキラキラとした綺麗な瞳をした彼が、その瞳にギラギラと怒りを孕ませて、憎々しげにソフィアリアを見ていた。
人から悪感情なんて向けられた事はないソフィアリアはその表情に恐怖を覚え、それもお友達になったラズから向けられたものだったので、深く心を抉った。
「っ! あの家は、悪人の住んでいる家なんだぞっ‼︎」
「悪人……?」
「悪い奴は村のみんなでやっつけたって言ってたのに、まだ他にも居たのかよっ⁉︎」
何の話をしているのか全くわからなかった。わかったのは、ソフィアリアがあのお城に住んでいる悪人だと思われて、嫌われてしまったという事だけだ。
「ラズくっ……⁉︎」
手を伸ばす。悪人なんかじゃないとわかってほしかった。けれど伸ばした手は叩かれて、指先に激痛が走る。
思わずギュッと叩かれた手を握り締めて見上げたラズは、目を爛々とさせ、憎悪を帯びた鋭い眼差しでソフィアリアを見下していた。
「綺麗にするなんて、おれに食べ物を買ってくれるなんてよくやれたよなっ⁉︎ おれが汚いのはあんたみたいなのを綺麗にする為で、何も食べられないのはあんた達が自分達だけで食べるからって全部持っていくせいだろっ!」
目を見開いた。ソフィアリアは可愛くて綺麗な物が大好きだ。だからたくさん集めていた。
そうしてソフィアリアが綺麗になったから、ラズはハンカチでは足りないくらい真っ黒に汚れてしまったのだろうか。昔食べた『いこくのこうきゅうひん』や毎日の食事は、誰かが食べるのを盗ってきたものだったのだろうか。
混乱するソフィアリアに、ラズは言葉を続ける。
「……なのに分け与えていい事した気になって……おれを、あんたがお綺麗な良い子になる為の道具にするんじゃねえっ‼︎」
そう言って走り去ったラズを、ソフィアリアは追いかけられなかった。
だってそう言ったラズは泣いていたのだ。友達が悪人で悲しいと、ソフィアリアの言葉も聞かずにそう決めつけて行ってしまったのだ。
それに自分は本当に悪人じゃないのか、ソフィアリアにもわからなかった。だってキラキラ綺麗なものも、美味しいものも、ソフィアリアはたくさん持っている。それがどこから持ってきたものかなんて知らない。
呆然とその場で座り込んでいたら、村の方から父と母が血相を変えて走って来る。真っ青な顔で座り込むソフィアリアを抱き上げて、二人して泣きそうな顔で覗き込んできた。
「ソフィ⁉︎ あぁ、よかった‼︎ 心配したんだよっ」
「本当に良かったっ……! ソフィも正体がバレて、殺されてしまったんじゃないかと……」
嗚咽を漏らす母を見て、その言葉を、固まった表情のまま聞いた。
「……ねぇ。お父ちゃま、お母ちゃま……」
「なんだい?」
「ソフィはお姫さまじゃなくて、悪人なの……?」
そう言うと二人は目を見開いて、息を呑んだ。
それからソフィアリアは家に帰って、両親からこの領地の事を聞いた。
祖父は贅沢な暮らしをする為に、ご先祖様が稼いで貯めたお金――財産というものを使った事。
それだけじゃ足りなくなってこの領地でみんなが暮らす為に集めたお金――税金を使った事。
もっと足りなくなって集める税金を上げた事。
その税金が高いと、みんなは普通に暮らす為のお金がなくなってしまう事。
だからこのセイド領には今、明日のご飯も満足に食べられないくらいお金を持っていない人がいる事。
お金を持っていないから家がない人がいる事。
お金がないから子供を養えず、捨ててしまう人がいる事。
そういう家がない人達が集まるスラムという場所がある事。
村のみんなでお金を稼ぐ手段を得ようと、お父さんが頑張っている事。
でもお父さんも知識がないから難しい事。
――祖父は贅沢な暮らしをする悪人だから、村のみんなにやっつけられた事。
――この屋敷に住んでいるとバレたら、ソフィアリア達もやっつけられてしまうという事。
ソフィアリアでは難しい事もあったけど、たくさん質問して、時間をかけて全部理解しようとした。
「馬鹿じゃないの? あのクソジジイと姉上が悪いのに、なんで理解出来ないのさ。ほんと、こんなのが僕の姉でこのセイド領の令嬢だなんて、恥ずかしいったらないよ」
溜息をついて呆れ返る弟の言う通り、ソフィアリアはお姫さまなんかじゃなくて無知な悪人なのだと、よくやく理解する。
ガラガラと、ソフィアリアの中で何かが崩れた音がした――




