エピローグ〜恋の結末〜 5
プロディージから贈られた薔薇の花束を大事そうに抱えながら、メルローゼは帰っていった。
王鳥によってここに来たばかりの頃はどこか沈んだ表情をしていたので、幸せそうな顔をして帰っていった事がとても嬉しい。そんな表情をさせられたプロディージの行動を嬉しく思うし、二人の最高の瞬間に立ち会えて、ソフィアリアも幸せだ。
いつまでもメルローゼの乗っていた馬車が行ってしまった方向をぼんやり見つめているプロディージの背中をニコニコと見ながら、そんな事を思っていた。
「じゃあ、僕達もそろそろ行こうか」
仲良くなったらしい庭師一家との別れを済ませた父がそう言った事に一抹の寂しさを覚えて、つい眉を八の字に下げてしまっていた。セイドにいた頃のような懐かしい時間を家族と過ごして、ソフィアリアの心はすっかりソフィアリア・セイドに戻ってしまったようだ。
「そうよね、もう行ってしまうのよね……」
「あらあら、ソフィったら。そんな顔をする事ないじゃない。一緒に帰ろうって言ったら、もっと困った顔をするのでしょう?」
母がソフィアリアの頰を優しく包んで、優しい表情でそう尋ね、首を傾げる。勿論その言葉には頷くのだが、寂しいものは寂しいのだ。
そう思ってしまうソフィアリアは、結局まだまだ子供という事なのだろう。
父が困ったように微笑み、ポンポンと優しく頭を撫でてくれる。少しドロールと共に過ごした時間を思い出して、でも父の温もりだって離れがたかった。
「またすぐに会えるよ。なんていったって春になれば、ソフィの結婚式だ」
「その前に、ロディのデビュタントもあるもの。次はもう少しだけ長く、滞在させてもらうわね」
「キラキラのお姉しゃまとお兄しゃまとメル義姉たま、とっても楽しみね〜!」
「ピ〜!」
「ピヨ〜!」
そう言ってくれる家族が――『セイドの令嬢だった頃の家族』の言葉が嬉しくて、じんわりと目が潤んでいく。でも表情は、満面の笑みを浮かべていた。
「ええ、わたくしもよ!」
離れがたくても、ソフィアリアの居場所はもう王鳥とオーリムの隣で、家はこの大屋敷だ。その事に不満なんて欠片もない。
生まれてから住んでいたセイドの屋敷は訪問すべき他所の家で、両親達はここに宿泊しに来るお客様。
ソフィアリアにとって家族と呼べるのは今は王鳥とオーリムであって、もう両親達ではない。
結婚するとは、そういう事だ。
「言っておくけど、もうセイドの屋敷に姉上の部屋はないから」
と、ようやくメルローゼの見送りに満足したらしいプロディージが、呆れたように溜息を吐きながらジトリと睨んでくる。
「そうね、わたくしが片付けてしまったもの」
「それと、まだ置いてある家具も移動させて、あの部屋は今回見つけた歴代セイドの資料室にするから。そんな大事な部屋に、他所の家の人間が出入りするなんて許さないし」
「ふふ、それでも貴重品置き場にしてくれるのね?」
別に好きに使ってくれていいのだが、物置や空き部屋ではなく、貴重品を収納する部屋として使う気でいる事に、プロディージのソフィアリアに対する敬意を感じて、優しい目を向ける。
「……執務室から近いせいだから。何勘違いしてる訳?」
「自惚れ屋さんでしょう?」
「付き合ってらんない。王鳥様とリムの傲慢さが伝染してんじゃないの?」
「誰が傲慢だ」
「ビー」
素直じゃないプロディージとの応酬が楽しくて、くすくすと笑う。気持ちを入れ替えて素直に接してくれるより、こういう関係の方がソフィアリア達らしいと思う。
それはそうと、いつの間にかオーリムの事を愛称呼びするくらい仲良くなっていたらしい。それに王鳥はともかくオーリムを傲慢だなんて、プロディージらしい着眼点だ。
言われてみれば、たまに妙な自信を発揮しているような気がする。ソフィアリアはそれを傲慢だなんて思わないけれど。
「……姉上」
「なあに?」
返事をしたら、慣れた香りと慣れない温もりに包まれて、目を見開いた。視線を上げようとすると、後頭部を抱え込まれて顔すら動かせなくなる。
肩口に顔を寄せたがるのは双生であるオーリムと一緒だなとくすくす笑って、宥めるようにポンポンと背中を撫でてあげた。
「この場所はお互い落ち着かないわねぇ」
「一生に一度、今だけだから」
「そう? よかったわ」
なんとなく可愛くない言葉を返してみる。この場所が落ち着かないのは本心だ。
この場所はメルローゼのものであり、ソフィアリアを包んでいいのは王鳥とオーリムだけなのだから、今だけだと言われなければ、たとえ弟からでも、許可していなかっただろう。
でもやっぱり可愛い弟が、こうしてまで何か言いたい事があるのなら、姉として聞いてあげようではないか。
「――好きだよ」
シンプルで、特別過ぎる言葉を耳元で囁かれて、思わず耳を疑う。その言葉こそ、ソフィアリアがプロディージから貰うはずのないものだ。多分今のソフィアリアは、間抜けな表情をしている事だろう。
「う……」
「嘘じゃないよ。今くらい素直に聞いてってば。……最初の頃は馴々しく付き纏われて本気で鬱陶しかったのに、いつの間にか僕から姉上の姿を探してた」
それは気付いていた。言葉で邪険にされつつも視線はソフィアリアを探すようになり、目の届く場所に置きたがっていた。まさかその事を自覚して、素直に告白してくれるとは。
だったらソフィアリアも、秘めようと思っていた胸の内を曝け出してあげようではないか。
「わたくしはね、そうやってわたくしの存在を必要としてくれるプロディージに、救われていたわ」
「よく言うよ。あちこちで人をたらし込んで、僕以外からも必要とされていた癖に。浮気者め」
「それでも、一番ロディからそう思われるのが嬉しいと……いえ、嬉しかったと思っていたんだもの」
大事な事なので言い直すと、ふっと鼻で笑われた気がする。
そう、もうそれは、セイドに居た頃までの話だ。今ソフィアリアを必要としてほしいのは、弟のプロディージではないのだから。
そしてプロディージだって、これからも側にいてほしいと追い求めるのは、姉のソフィアリアではない。二人の少し歪だった関係は清算され、これからは別々の道を歩んでいく。
「そっか。……今まで側にいてくれて、たくさん助けてくれてありがとう。ローゼとこれからも一緒に居られるのは、姉上のおかげだよ」
「助けられていたのはわたくしよ? もうメルと喧嘩しちゃダメよ。優しくしてあげてね」
「当然優しくするけど、誰だって長く一緒にいる限り、意見の相違で喧嘩する事くらいあるから難しいんじゃない? 姉上だってそのうち王鳥様やリムと、喧嘩するよ」
「実は最近、ちょっと王様と喧嘩みたいなものをしていたわ」
「よりによって王鳥様とってところが姉上らしいね」
そう言って抱き合ったまま、くすくすと笑い合う。こうして穏やかな気持ちでプロディージと二人で笑い合った事なんて、あまり記憶にないなと思っていた。
「まあ、傷付けない努力はするよ」
「ロディ……プロディージ」
そう言って肩を押して、顔を見上げる。プロディージは一番長く一緒に過ごしてきたソフィアリアすらあまり見た事がないくらい、穏やかな表情をしていた。
こうして穏やかに話せるくらい落ち着いた精神と、すっかり見上げる位置に顔が来た事に、成長を感じる。だからソフィアリアは無意識のうちに慈愛の――『母』のような表情をして、プロディージの頭に手を伸ばし、優しく撫でていた。
「……大きくなったわねぇ」
行動も言葉も、まさしく母親のようだった。多分ソフィアリアはプロディージにとって、実母よりずっと母のような存在だったのかもしれない。ソフィアリアもそれを望まれていると勘付いて、無意識のうちにそう振る舞っていた。
プロディージもそう感じたのか、照れて頰を染める――その表情をソフィアリアの前でするのだから、今日は珍しい事続きだ。
と、どんっと突然足に衝撃がはしり、思わずよろけてしまった。
プロディージもだったようで、お互い支え合うような姿勢をとりながら、バランスを保っていた。
衝撃のきた方を見下ろすと、ソフィアリアとプロディージの足にクラーラがしがみついていた。ピーとヨーも、それぞれの足にぴっとりと張り付いている。
クラーラはぷくりと小さく丸い頰をますます膨らませて、キリッと迫力のない表情で、ぷりぷりと可愛らしく怒っていた。
「お姉しゃまとお兄しゃまだけでイチャイチャずるーい! クーも、クーもっ!」
「ピーピ!」
「ピーヨ!」
どうやら兄弟の中でクラーラだけ――ピーとヨーもらしいが――仲間外れにされてご立腹なようだ。確かにクラーラだって兄弟なのだから、悪い事をしてしまったと困ったように微笑む。
プロディージもそう思ったのか、お詫びとしてクラーラを軽々と腕に抱き上げる。その様子を見て、オーリムより線が細く、男性としては華奢な方でも、やっぱり男の子だなと感心した。ソフィアリアはクラーラを抱き上げると、よろけるようになってしまったのに。
だからせめて、双子の大鳥を抱き上げてみた。プロディージから何してんだこいつと言わんばかりの視線を向けられたが、クラーラと契約した大鳥なのだから、この子達だって兄弟の一員だろう。
まあクラーラが自分の子供扱いしているので、姪っ子達と言うべきなのかもしれないが。
「これで満足した?」
「うん! クーたちきょーだいは、みんなとーっても、なかよしさんね〜。あっ! お兄しゃま、こんどはお姉しゃまにギューするのを、わすれているわ」
「はいはい」
そう言ってプロディージはクラーラを片腕だけで抱えると、もう片方の腕でソフィアリアを引き寄せ……ようとして、その腕が宙を掻いていた。
ソフィアリアはプロディージとは別の、慣れ親しんだ腕の中に攫われている。
「……ちょっと、家族団欒の邪魔なんて、無粋な真似はしないでもらえる?」
「うるさい。フィアの家族はもう俺と王だ。仕方ないから一度は見逃してやったが、次は許可しない」
「ビー」
「まだ結婚してないくせに何言ってる訳?」
ジトリとオーリムと王鳥を睨めつけるプロディージと、我慢の限界に達したらしい険しい表情のオーリムの言い争いが始まった。先程の仲良し兄弟の雰囲気は儚く散って、もう二度と戻ってくる事はないとわかってしまう。
でも、それでいいのだ。プロディージとはお互い素直な言葉や態度で愛情を示さなくても、気持ちは理解しているのだから。それに、プロディージには悪態をつかれている方が、やっぱり安心する。
「僕達はいい子供達に恵まれて幸せだね、ムーさん」
「わたくしは、いい旦那様にも恵まれたわ」
「うっ、ぼ、僕もだよ! へへ、こんな僕にそう言ってくれて、ありがとう」
少し離れた所でこちらを優しい目で見ていた両親が、さり気なく身を寄せ合ってそんな事を言っていたのが聞こえた。そう思ってくれた事が、ソフィアリアだって嬉しい。
「あーあ、興醒め。じゃあもう行くから。姉上」
「なあに?」
「ソフィアリア・セイドっていう人間はもういないんだから、せいぜいここで上手くやってなよ。出戻りなんて許さないから」
ニッと意地悪く口角をあげ、手を伸ばして髪を乱されながら言われた言葉に、笑顔になるのは仕方ない。触れてくるのは珍しいが、なんてプロディージらしい激励なのだろう。
「勿論よ。二人に愛想を尽かされても、必死にこの場所にしがみつくわ」
「フィアに愛想つかす訳ないだろ。俺達の方が離すつもりないから、そんな心配しなくていい」
「ビ!」
残念ながらプロディージの手はオーリムによってペシリと払われ、王鳥はソフィアリアの腕に居座っている双子の首根っこを掴んで、クラーラの肩に戻しているが。他人が触れるのは弟だろうが赤ちゃんだろうが、許してくれないらしい。
「あっそ。まあなんでもいいよ。じゃあね」
プロディージはクラーラを抱えたまま馬車の方へ行ってしまった。背中を向けながら、さり気なく手を振っている。
「お姉しゃま、王鳥たま、だいこーにんしゃま。このたびは、おしぇわになりました! バイバイ〜」
「ピピー」
「ピヨヨー」
抱えられたクラーラと双子も、満面の笑みでぶんぶん手を振ってくれたので、ソフィアリアもそれに応え手を振って見送った。オーリムもぎこちなく手を振り返している。
「じゃあ行くね。オーリムくん、今回は出来なかったけど、次は一緒に聖都と島都観光もしようね」
「その、すまない、せっかく来てくれたのに、ここに滞在する事しかさせてやれなくて。俺もほったらかしにしてしまったし」
「お仕事だったのだから仕方ないわ。ふふ、オーリムくん、王鳥様。ソフィからの刺繍入りのハンカチを、もうもらったかしら?」
「ああ、ここに」
「ピ」
オーリムは懐から、王鳥は片翼の下からハンカチを取り出すと――あれは本当にどこから出てくるのか――、ニヤケそうになっている表情を必死に引き締めながら、母に見せていた。
もう持ち歩いてくれている事は嬉しかったが、ソフィアリアは笑顔のまま、口角を引き攣らせる
母は二人からハンカチを受け取ると、優しい目つきで刺繍を撫で、じっと観察をしていた。その様子を見ながら、背筋に冷や汗が流れるのがわかる。
「……ソフィ」
「な、なにかしら?」
「早く渡したかったのはわかったけれど、荒くなるくらいなら、時間をかけてでも丁寧にやりなさい。これを持ち歩くオーリムくんと王鳥様の事も考えて」
やっぱり認めてくれなかったかと思ってしょんぼりする。母は刺繍に関しては容赦がないのだ。
正直丁寧にやってもあまり変わらない仕上がりにしかならない気がしているが、そう言われては仕方ない。これからたくさん渡す機会があるのだから、刺繍ももっと練習すべきなのだろう。
「ごめんなさい。……王様、リム様、回収して作り直してもいい?」
「いい訳ないだろ⁉︎」
「ピー⁉︎」
パッと母からハンカチを回収すると、懐にしまって取られないように警戒された。やはり手放してくれないようだ。
「ふふ、仲良いね。じゃあ、お世話になったね」
「お世話になりました。王鳥様、オーリムくん、娘をよろしくお願いします」
「勿論」
「ピ」
そう言って両親も馬車に乗り込んで、とうとう行ってしまった。その馬車が門を潜り抜けても、ソフィアリアはその場から動けずに、いつまでも見送ってしまう。
「……寂しいか?」
オーリムがどこか落ち着きなく、そう尋ねてくる。みんなと帰りたいと言い出さないか、心配しているらしい。
そんな訳ないのにと苦笑い。それを打ち消す為に、きちんと言葉に出しておく事にした。
「少しだけよ。みんなと帰るより、ここに居たいと思う気持ちの方がずっと強いもの。そう思うわたくしは、もうソフィアリア・セイドを名乗れないわ」
プロディージが言っていたように、もうセイドの男爵令嬢だったソフィアリアはいないのだ。ソフィアリアは名前と王鳥妃、あと一季先にはラズ・アウィスレックス姓を名乗る事しか許されていない。
オーリムがソフィアリアの言葉に、安心したように笑った。
「ああ、名乗らせない。帰してやらないけどいつか、セイドの屋敷にも遊びに行こう」
「ピーピ」
王鳥も身を屈めてスリっと頬擦りしてくれる。逃がさないと言われているようで、その物言いが幸せだ。
「ええ! 遊びに行きましょう!」
ふわりと微笑んで、ふと半年前、セイドからここに来る為に馬車に乗り込んだ時の事を思い出した。
あの時にあまり実感していなかった『嫁ぐ』という事を、今この瞬間、強く実感出来た気がする。もうあまり名乗らなくなった『ソフィアリア・セイド』と名乗る日は二度とない。そんな予感がしていた。
でも、それでいい。だってソフィアリアは男爵令嬢ではなく、恋をした王鳥とオーリムの、お妃さまなのだから。




