幸せの瞬間 3
オーリムはハンカチを握りしめながら、王鳥は頭に乗せながら、幸せそうな顔をして、スティックパイを完食していた。スティックパイも刺繍入りのハンカチもそんなに喜んでくれたのなら、作り手冥利に尽きるというものである。
紅茶を飲んで一息入れれば、もうすぐ日付が変わる時間だろうか。そう思うと途端眠たくなってきて、ふわぁ〜と思わずあくびをしてしまった。
それを見逃してくれないのがオーリムだ。
「眠いか?」
「少しだけ。刺繍に夢中になっていて最近寝不足気味だったからかしら。でもせっかくこのドレスを着ているのだから、もう少し一緒に過ごしたいわ」
ダメ?と首を傾げておねだりすれば、うっと怯みつつも許してくれたので、してやったりだ。思わず笑顔になってしまう。
「無理はするなよ」
「本音を言えばしたいのだけれど。それにね、実はまだお二人に、見てほしいものがあるのよ」
ニヤける頰をそのままに、機嫌よくバスケットの底に入れてあった大きめの箱を取り出す。
「それは?」
「ピ?」
「ふふっ、これはね、お母様がわたくしにくれた、一生の宝物になる事間違いなしのプレゼントなの。わたくしのだけれど、わたくし込みで王様とラズくんのものにもなるわ」
その言い回しにピンとこない二人を置き去りに、ソフィアリアは箱を開けた。
蓋を開けて目に飛び込んできたのは、非常に繊細で細かな網目が特徴的な真っ白のチュール生地だ。手に触れると柔らかく、しっとりと滑らかで、触れるのも躊躇う高級品だとすぐにわかる。
これを見てもまだピンときていない二人の為に汚さないよう細心の注意を払いつつ、優しく取り出す。
するとこのチュール生地の裾を縁取るように、白い糸で精密なレースが編まれ、お花の刺繍が入れられているのがわかった。その細かく華やかな模様に、ほうっと溜息が漏れる。
「ピ!」
王鳥はこれが何かようやく気付いたらしい。嬉しそうに鳴いたかと思うと、一瞬だけ手に持つこれが、ふわりと淡い光を帯びる。
「まあ! 汚れないようにしてくださったのですか?」
「ピイ!」
当たりらしい。その配慮が嬉しくてにっこり笑うと、まだピンときていないオーリムの為に勢いよくばっと広げ、頭にふわりと被ってみた。王鳥が魔法を使ってくれなければ、絶対に出来なかった事だ。
そうするとようやくオーリムも、これの正体に気がついてくれたらしい。大きく目を見開いて、惚けるようにソフィアリアを見ていた。
見惚れてくれたのならこんなに嬉しい事はないと、ふわりと極上の笑みを浮かべてみせる。
「どう? とっても綺麗でしょう? 王様に求婚されて王命をいただいた春からずっと、お母様が刺繍を入れてくれていたの。今朝ようやく完成したからって、真っ先にわたくしのところに持ってきてくれたのよ? お母様の最高傑作なのですって」
それは、結婚式の時に被るウエディングベールだった。ギリギリ床につかないロング丈の高級感溢れるこのベールは、ウエディングドレスを発注しているお店に無理を言って先に送ってもらい、刺繍を入れたがっていた母にお願いしていたものだ。ようやく完成したこれは、見事としか言いようがない素晴らしい逸品だった。
多幸感でふわふわした気分のまま、その裾に入れられた刺繍をそっと撫でる。
細かなレースで縁取られ、内側には本物より大きめにセイドベリーのお花と蔓草模様が、そしてところどころ二股に別れた尾羽の美しい大鳥が飛び回る模様の刺繍は、母の最高傑作なのだそうだ。思わず溜息が出るくらい美しく、高級感溢れる生地とこの刺繍を合わせれば、王族より上の位に立つ人間が身に纏うのに相応しいと認めてもらえるだろう。もしかしたらこの機会に、広く話題にのぼる事になるかもしれない。
「ピーピピー」
「ふふっ、まだコームを取り付けていないので、乗せる事しか出来ないのです。どうです? 似合いますか?」
「ピピー」
王鳥はスリッとソフィアリアに頬擦りをし、ずっと持ち歩いていたのか、セイドベリーのお花を塊で取り出すと、ソフィアリアの髪にカチューシャのように飾り付けてベールごと固定し、満足そうに目を細めて眺めていた。
多方向からジロジロ見られるのは照れ臭いが、大好きな旦那様の一人を見惚れさせたのなら悪い気はしない。
そしてすっかりぼんやりしてしまったオーリムにも褒めてもらいたくて、視線を向けた。
「ラズくんもどう?」
「…………花嫁」
ソフィアリア以上にふわふわ夢見心地な表情は気になったが、そんなに気に入ってくれたのなら何よりだ。呟かれた単語を拾って、そう言ってくれて嬉しいと言わんばかりに、大きく頷いた。
「ええ! 王様とラズくん、あなた達の花嫁さんよ!」
「フィア!」
と、急に正気に戻ったかのような真剣な表情を浮かべ、肩を掴まれたから、少し驚いてしまった。
けれどふわりと微笑むと首を傾げ、そんなオーリムを見つめる。
「なあに?」
「そう言えば俺はまだ、フィアには言っていなかった。けど、このままなし崩しにするのはよくないから、聞いてほしい」
その表情と言葉である程度は察して、でもオーリムからもらえるとは思っていなかったので驚きつつも、頷く。
「ええ、聞かせてくださいな」
その声は歓喜に震えていた。期待を込めた眼差しでオーリムを見つめると、オーリムの瞳だって充分過ぎる熱を宿している。
オーリムは緊張しているのか、一度大きく深呼吸をする。
そしてソフィアリアをまっすぐ見つめて、言った。
「フィア、俺は一時期諦めていた事もあったけど、セイドで会ったあの日に言ってくれた『一緒のお部屋で楽しく暮らしましょう』って言葉を、ずっと夢見ていたんだ」
「ふふっ、懐かしいわね」
あれはまだソフィアリアが愚かな子供だった頃。お友達がぬいぐるみしかいなかったソフィアリアは、家のないお友達は一緒の部屋で楽しく暮らすものだと思い込んでおり、簡単にそう言ったのだ。
何も知らない子供の戯言だと言えばそれまでだが、そんな言葉にそこまで夢と希望を持ってくれていたのか。今はそれが、泣きそうなほど嬉しい。
オーリムもふっと笑って、大きく首肯する。
「ああ。あれから八年越し……実現する頃は九年近くになるけど、その夢が現実になる事が本当に嬉しくて、どうしようもなく、幸せなんだ」
そう言って深めた笑みが眩しいくらい輝いて見えたから、思わず目に涙が浮かぶ。なんて事ない、間違えてやらかしてばかりのソフィアリアの存在に、そう言ってくれる人が居る。恋をしたその人に言われたからこそ、こんなにも嬉しくて、胸がいっぱいになるのだ。
「ここに連れてきた事でフィアには今日みたいに辛い思いもさせてしまうかもしれないし、危ない目にもあわせるかもしれない。でも、すまないけどこれからの人生、そういうものだと諦めてくれ。俺と王が支えるし、護るから、ずっと俺達の側にいてもらう――俺と、俺達と結婚してほしい」
その決定的な言葉に堪えきれず、くしゃくしゃな表情を見られる前に、オーリムの胸に飛び込んだ。
「ぅわっ⁉︎」
オーリムは急に抱きついてきたソフィアリアに慌てふためき、けど緊張しながら肩を抱き寄せてくれる。その指先が緊張で震えていた事を、この瞬間を、ソフィアリアは生涯忘れないだろう。
「ええ、ええ! わたくし、ラズくんと王様のお妃さまになるわ。どんな事があっても決して離れないから、ラズくんも覚悟してくださいな」
「願ったり叶ったりだ。……そうか、うん。フィアにそう言ってもらえて嬉しい。大変な目に合わせる事になるだろうけど、必ず幸せにするから」
「ふふっ、何もしてくれなくても、側で笑ってくれれば、勝手に幸せになるわ。ラズくんと王様もそうだと、もっと嬉しい」
「当然だろ。な?」
「ピ!」
後ろから肩越しに王鳥も頬擦りしてくれる。大好きな二人に恋をして、気持ちを返されて求婚までしてもらえた。
そんなソフィアリアは今、世界一幸せな女の子だった。
「……フィア」
真剣な、熱っぽく甘い声。思わず身を震わせて顔を上げると、いつも以上に艶っぽい表情をしたオーリムと目が合った。
頰に手を添えられるその意味を察して、熱に浮かされたようにぼんやりと思考が染まっていく。
目の前と背中にいる大好きな二人の事以外、もう何も見えない。もう何もいらない。だからソフィアリアは一度柔らかく微笑んで、そのまま目を瞑り、恋しい二人の存在に浸る事にした。
最初に触れたのは熱くて少しだけ固い、いつもの指の感触。すっかり慣れ親しんだそれがソフィアリアの唇をなぞった事に、いつも以上に胸を高鳴らせる。
――次に触れたのはもっと熱くて柔らかい、今までに感じた事がないもの。軽く触れただけでピクリと身を震わせて、腰が抜けそうになるのを、必死にしがみついて耐えていた。
時間にすればほんの数秒だっただろうか。その瞬間がまるで永遠のようにも感じて、離れた時はつい、その熱を自ら追いかけそうになるほど、初めてのキスに夢中になっていた。
うっとりしたまま目を開けると、同じくぼんやりとソフィアリアを見ていたオーリムと視線が絡む。
お互い熱に浮かされて、照れて顔を赤く染めたまま、ふわりと微笑み合った。その事が、こんなにも幸せだなんて。
「ラズくっ⁉︎」
だが、そんな夢見心地でいられたのは、そこまでだった。
言葉を被せるようにオーリムは再度唇を強く重ね、柔らかく食まれる。
目を閉じる事を忘れたまま驚きで白黒させているうちに、至近距離でニンマリと目を細めた表情が見えた――だから誰の仕業か、すぐにわかった。
少し唇を離し、吐息が絡む近さでオーリムは――王鳥は話す。
「余の真似をしてみるがよい。出来るな?」
「は……い」
「いい子だ」
そう言って再度唇が重なると当然のように食まれ、とりあえず言われた通り動きを真似てみる。
初心者になんて大変な事をさせるのだろうか。そう頭の片隅で考えつつ、けれど熱に浮かされたソフィアリアは、王鳥に言われた通りに従っていた。
すっかり腰が抜けても、強く抱え込まれたまま離してくれない。ソフィアリアは王鳥の腕の中に、すっかり囚われの身だ。
今度こそ永遠にされるのかと思うくらい長い時間、そうやって王鳥に翻弄され続けた。唇を離されたのは、本当にだいぶ経ってから。
「〜〜っ‼︎ もうっ、王様っ!」
すっかりヘロヘロで足に力が入らないまま、ぽかぽかとその胸を叩く。唇を尖らせたらまた食まれたので、拗ねた気持ちでさっと顔を背けた。そうするとくつくつと笑われてしまう。
甘い雰囲気といえばそうなのだが、ソフィアリアは何もかもが初心者だ。さすがに舌を入れるような素振りは見せなかったが、初めてで何をしてくれるのか。
「くはっ、其方が愛いのが悪い。余は半年以上待てをしたのだから、このくらいは許されて当然であろう?」
そう言って片手で抱き寄せたまま、ポンポンと頭を撫でられる。
「……そう言われたら、何も言い返せませんけれど」
「其方はほんになんでも許すな? まあ良い、これから頑張って慣らそうな」
そう言って髪を梳いてくれた王鳥の目はギラギラと熱い。ソフィアリアはすっかり溶けそうである。
しょうがないと言わんばかりに笑い、こくりと頷く。するとコツリと額がぶつかり合って、優しく微笑んでいるのが見えた。
……けれどその顔は、だんだんと赤みが増していく。聞こえる鼓動だって心配になるくらい、早くて強かった。
「……おかえりなさいませ、ラズくん」
「〜〜っ! 王っ⁉︎ おまえっ、おまえって奴はっ‼︎」
「プピー」
「誰があそこまでやっていいって言った⁉︎」
「ピー」
「手本なんているかっ!」
話に聞く限り、どうやらオーリムもちゃんと意識はあったらしい。なるほど、王鳥は私欲もありつつ、初心者二人のお手本も担ってくれたのか。
すっかりヘロヘロなソフィアリアは二人が言い争いをしている間、ずっとオーリムに抱え込まれていた。腰が抜けたソフィアリアの為というより、今日はこうして抱き抱えたい日なのかもしれない。
甘い雰囲気は、言い争いを始めた二人のせいですっかり霧散してしまったが、こうしている間にもオーリムからの抱擁と、王鳥からの眼差しを一身に受けているソフィアリアは、この幸せな瞬間に、いつまでも浸っていたのだった。




