想いの告白 4
「ええ、そうね。フィーギス殿下がマヤリス王女殿下と出会ってくれて本当によかったわ。王族の婚姻は身分と能力を兼ね備えた相応な方とするのが一番だもの……ところでリム様、そろそろ手を緩めてくれないと、意識が飛んでしまうわ」
「えっ? ああ、すまない……」
そう言ってようやく離してくれたので、深く深呼吸する。温もりがなくなるのは寂しいが、新鮮な空気は美味しい。
うっかり思いのままに絞めてしまってしょんぼりしているオーリムの頭を撫でて慰めていると、はぁーと大きな溜息と共にフィーギス殿下はしゃがみ込み、顔を隠す。そんな様子をキョトンとして見守っていた。
「……フィーギス殿下?」
「白状するけどね? これでもセイド嬢からの告白という言葉に、少し浮ついていたのだよ」
「だってわたくし、あの時先生と同じ表情をしていましたもの。先生から向けられる眼差しを久々に感じ取っていただけたのなら、なによりですわ」
危ない発言にはそう言って上塗りをする。お互いそういう事にしておいた方が無難だろう。
「先生……そっか、先生だね」
「ふふっ、わたくしの事を先生とお呼びになりますか? 特別にお母様でも、双子のお姉様でも。お好きなようにお呼びくださいな」
「許すか、そんなもん! せっかくロディを姉離れさせたのに、今度はフィーとか、冗談じゃないからなっ!」
「でもね、リム? セイド嬢は私の先生であり、母や姉となる為に育てられたのだよ?」
「気持ちの悪い事を言うな! そんなものはもう無効だっ!」
当たり前だが、未来の旦那様は許してくれないようだ。
そうやって呼び名を呼ぶ事で、意識をそのように持っていければいいと思ったのだが、ダメなら仕方ない。まあ寝て次の日にはお互い意識を切り替えるくらいの技量は持ち合わせているのだから、少しの気の迷いという事にしておいた方がいいだろう。
これはまだ、静かに蓋を出来る程度の気持ちだろうから。
すくっと立ち上がったフィーギス殿下はいつも通りに笑って、右手を差し出してくる。
だからソフィアリアもその手を握り返して、いつも通りの友人の顔で微笑んだ。
「セイド嬢、ありがとう。君が来てから引っ掛かり続けていた疑問が解消されてスッキリしたよ。先生達の事も、知れてよかった」
「わたくしも、ようやくお話出来てよかったですわ。……先生達、わたくしの花嫁姿が見たいから、結婚式の日に島都まで来てくださるのですって。多分それを口実に、フィーギス殿下とラトゥス様のお姿も見たいんですよ。きっとペクーニアのお屋敷に紛れ込むつもりでしょうから、なんとかして会いに行ってあげてくださいませ。先生達、絶対お喜びになりますわ」
優しく微笑んでそう言えば、綺麗な海色の瞳を目一杯見開いて、子供のようにくしゃりと表情を崩す。目尻に浮かびそうになっているものは、見ないフリをしてあげる事にした。それを拭えるのはソフィアリアではないのだ。
「……ああ、必ず会いに行こうではないか! ああ、そうだ。何か望みはあるかい? 私は今、とてもお礼がしたい気分なんだ!」
「ございますよ」
間髪入れずにそう言うと、心からの笑みを浮かべて期待される。後ろからまた不機嫌オーラが漂ってきている気がするが、とりあえず気にしない事にした。
ソフィアリアは一度目を閉じて、深呼吸する。
そして意識を切り替え――『ソフィアリア』として眉を精一杯吊り上げて、むっと怒ったような表情でフィーギス殿下を見つめた。
まさかそうくるとは思わなかったのか、フィーギス殿下は笑みを引き攣らせて首を傾げている。
「……セイド嬢?」
「それ! それですわっ! もうっ! フィーギス殿下はいつまでわたくしの事をセイドのご令嬢だと仰るおつもりなのですかっ! わたくし、いつそれを指摘してやろうかずーっと機会を伺っていたんですからねっ!」
そう言ってわざとらしくぷりぷり怒ってみせると、フィーギス殿下は呆気に取られていた。
当然だ。フィーギス殿下の知るソフィアリアは……先生達に教育された聡明なソフィアリアは、こんな子供っぽい事はしない。だからあえて、ソフィアリアらしい行動をやって見せた――このオーリム達にする素のソフィアリアを、フィーギス殿下は受け入れられないだろうとわかっていたから。
それに、呼び名は本当にずっと引っかかっていたのだ。たしかにまだ結婚していないのでセイドの令嬢で間違いではないのだが、ソフィアリアからしてみればセイドは実家ではあるが、もう他所の家だ。セイド嬢と呼ばれるべきなのは、妹のクラーラだけだと思っている。
だからこの機会に言ってやった。ずっとモヤモヤしていたので少しスッキリして、勝ち誇った表情をしてみせる……今更声を張り上げた事に羞恥心が湧いてきたのは、気付かないフリをした。
「……あ、ああ、うん。そうだったね。……ふむ、ならなんと呼ぼうか?」
「お好きなようにお呼びくださいな。ラトゥス様のようにソフィアリアでも、みんなみたいにソフィでも」
「……愛称を許すのか?」
「少し気が早いですが、ラズ・アウィスレックス夫人でもいいですわよ?」
頰に手を当て、そんな事を言ってみる。途端、後ろで思いっきり咳き込んでいる人がいるが、愛称すら許さない狭量な未来の旦那様が悪いのだ。
ソフィ呼びをする男性は他にも居る――というか、大屋敷の鳥騎族や使用人は大体そう呼んでくれているのに、何故フィーギス殿下だけはそれを渋るのか。ギリギリ何もなかったのだから、別にいいではないか。
ソフィアリアの発言とオーリムの様子に、フィーギス殿下はぷっと吹き出して、そのままおかしそうにケラケラと笑う。ソフィアリアもそれに便乗してくすくすと笑った。
「ははっ、君の未来の旦那様はよっぽどその呼び名がお気に召したようだね? ラズ・アウィスレックス夫人?」
「ええ、ええ! ふふっ、呼び名一つであんなに喜んでいただけるなんて、わたくし、幸せ者ですわね?」
「〜〜っ! わかった、わかったからやめてくれっ! 愛称呼びでもなんでも許すから、その恥ずかしい呼称はまだ勘弁してほしい!」
どうやら夫人呼びはまだ恥ずかしいようで、すっかり耳まで真っ赤である。王鳥妃呼びとどちらが多いかは未知数だが、どうせもう一季もすればみんなからそう呼ばれる事になるのにと、少し残念に思ってしまった。
フィーギス殿下と顔を見合わせて、お互い肩を竦める。
それが仲良さそうに映ったのか、オーリムはまだ頰が赤いまま渋面を作っていた。
だって仕方ない。ソフィアリアは先生の為にフィーギス殿下の代わりとして、彼を模倣するような――双子のような存在を意識して、長年過ごしていたのだから。だから思考が似ていて、おかげで無駄に息ぴったりなのだ。
と、ストンと聞き慣れた音が聞こえたのでパッと表情を輝かせ、音のした方に視線を向けて微笑んだ。
「王様、おかえりなさいませ」
「ピ」
そう、王鳥だ。王鳥はペディ大ホールに出来た次元の歪みを修復したり火災を鎮めたり忙しかったらしく、こうして迎えに来てくれるまで待っていたのだ。
少し寂しかったので駆け寄って、その胸元に抱き付く。屈んで頬擦りされたのでどこかほっとして、ようやく肩の力が抜けたと思った。
「――――そうか、火は消えたか。一応あれも大鳥がやらかした火災になるから、賠償金を支払わないといけないな」
「ああ、それなら半分でいいよ。王妃殿下を脅して搾り取ってくるから」
「……あれがそれを認めると思うか?」
「黙認する為に出させるんだ。そのくらいならどうとでもなる。……本当なら認めさせたうえで拘束して、全額出させたいんだが。すまないね」
「別にいい。あの王妃だし、期待してない」
どうやら大ホールの修繕費は大鳥がやらかした時用に溜め込んでいる資金と王妃殿下が出す事になるらしい。
大鳥の分はセイドの償いの一環としてソフィアリアの余った予算から出してもらえないか、それより行商計画をもっと前倒しして一刻も早くお金を稼ぐべきかと色々と算段をつける。
今度提案してみようと考えたところで、ヒョイっとオーリムに横抱きにされ、ふわりと宙に浮いて王鳥の上に乗せられた。
「じゃあな、もう帰る。医者を呼んでくれてありがとう」
「ありがとうございました、フィーギス殿下。夜分遅くにお邪魔いたしましたわ」
どうやらすぐにでも連れ帰られるようなので、笑って手を振った。
フィーギス殿下は片手を上げ、ラトゥスは静かに頷いて見送ってくれる。
「――ソフィ」
聞き慣れた声で、聞き慣れない呼び名。フィーギス殿下は結局、愛称呼びをしてくれるようだ。
「こう呼ばせてもらう事にするよ。だからソフィも私の事をフィーと呼んでくれたまえ。君を先生や親、双子の姉代わりにはもう望めないみたいだけど、同じ先生から学んだ妹弟子くらいは許してくれるだろう?」
『妹弟子』――それくらいなら悪くないかと思ってふわりと微笑んだ。だってそれは、ソフィアリアにだけ許された特別ではないのだから。
「ええ、かしこまりました、フィー殿下。ふふ、それを言ってしまえばロディとメル、あとまだ一季くらいしか直接教わっていないのですが、クーちゃんもなのですよ?」
「……ラーラも先生仕込みになるのか……」
ラトゥスは遠い目をしている。子供を産めない末席の男爵令嬢が、傍系とはいえ筆頭公爵家と縁続きの伯爵家に嫁入りするのだ。本人の優秀さは必須だと思う。
それに元気で活発だが、勉強も意外と嫌いではないらしい。今は母から礼儀作法を習いながら、先生から送られてくる一般教養の課題を一生懸命頑張っている最中だ。先生が帰ってきたら領地経営や社交、フォルティス領の仔細なども教育してくれるだろう。
「ふふっ、ラトゥス様だってわたくしの兄弟子なのですから、一緒にソフィとお呼びになりませんか?」
「わかった。なら、僕の事もラスと呼べばいい……義姉上でなくていいのか?」
「……年下の妹弟子が義姉か……ややこしいな……」
「リムの事も義兄上と呼ぼうか?」
「やめろ」
「ふふっ、わたくしの事はどうぞお好きなように」
その応酬が楽しくて、つい笑ってしまう。愛称呼びを許された事でなんとなくオーリム達の仲間と認めてもらえたようで嬉しかった。
そんな和やかな雰囲気のなか、フィーギス殿下はすっと笑みを消してまっすぐソフィアリアを射抜く。
ソフィアリアも姿勢を正し、うっすら笑みを浮かべながらフィーギス殿下を見つめ返した。
「ソフィ、一つだけ忠告しておくよ。……君は王妃殿下をああいう人だからと思って侮っているみたいだが、あれでも島都学園では陛下と母上を抜いて、主席で卒業している」
言われた言葉に目を見開いた。ソフィアリアは現妃の事をあまり調べていなかったので知らなかったが、どうやら見た目通り可愛いだけの人ではないらしい。
それはまるで――
「そう……王妃殿下はわたくしとどこか、似たような人なのかもしれませんね」
王鳥妃として人前に立つ時の、学がなく寵愛だけでそこにいると見せかけているような、ソフィアリアと。
けれどその言葉に、オーリムは心底嫌そうに顔を顰めた。
「フィアはあんなんじゃない」
「そうだといいわね。……ねぇ、フィー殿下。わたくし、王妃殿下がどうしても好きになれない……いえ、はっきり言って嫌いなんです。だってあの方はわたくしの大切な人達を……ロディとメルや、フィー殿下とラス様と先生達を引き裂いたんですもの」
笑みを一層深めてそう言えば、フィーギス殿下は苦笑して頷いてくれる。
「私もだよ。いつか蹴落としたいと思っているのだ」
「ふふっ、ご協力出来る事があれば遠慮なく頼ってくださいな」
「……フィアに頼るなら俺がやるからな」
「ははっ、頼もしい限りだよ。けど、うん。どうせなら私の手でやり遂げたい事だから」
笑みを浮かべながら目は笑っていないフィーギス殿下は生まれてからずっと、あの現妃に辛酸を舐めさせられてきたのだ。募った恨みも相当なのだろう。
いつかその願いが叶う日が来るといい。出来ればマヤリス王女という、彼が安心して寄りかかれる存在が側に居る時に。
ソフィアリアはそんな彼らを王鳥やオーリムと一緒に陰ながら支えて、背中を押せればいい。
フィーギス殿下とその伴侶を陰ながら見守り、理解し、支えるというそれが、先生とあの日交わした約束なのだから。
ソフィアリアはその約束だけは違わず、生涯貫こうと心に決めているのであった。




