想いの告白 2
「わたくしが初めてフィーギス殿下の事を見たのは、ロディと一緒に勉強を始めて一年くらい経った頃……十歳になる直前でした。と言っても直接見た訳ではなくて、姿絵でしたけど」
そう言うとフィーギス殿下は不思議そうな表情をしていた。
当時のフィーギス殿下は立太子して一年経ったくらいの頃だが然程人気があった訳ではなく、今のように市井に姿絵が出回るような事もなかったので、当然の反応だと思う。
それでも、フィーギス殿下の十一歳の頃の姿絵を確かにこの目で見たのだ。ソフィアリアが大屋敷に移り住む前、最後に見た時にはまだ部屋に飾ってあったので、嘘ではない。
静観しているフィーギス殿下を見て、ソフィアリアは話を続ける。
「ペクーニアのお屋敷の書庫に居た先生に、本の内容について質問したくて探していたわたくしは、書庫の奥でフィーギス殿下の姿絵を愛おしげに眺めていた先生を見つけました。見つけて、将来わたくしの旦那様になるかもしれない人だと言われて見せられたのが初めてでしたわ」
「……ほう? それはまた、聞き捨てならない事を言う御仁だ」
「ふふっ、でしょう? だって当時のわたくしですら無理だって言ったんですよ? わたくしは貴族と言えど男爵家の更に末席、フィーギス殿下は次代の王となられる王太子殿下。デビュタントで生涯一度だけご挨拶出来る貴い御方を旦那様になんて望めない、望んではいけないって。……けれど先生は二番目の妻に……側妃になら、比較的誰にでもなれるよって言って、考えを譲りませんでした」
途端、オーリムとは違うピリッとした緊張感がフィーギス殿下とラトゥスの方から伝わってくる。
当然である。辛うじて貴族令嬢として引っ掛かるだけの十歳の子供を、王太子の側妃になれと唆して必要以上の知識を与えたのだ。不審な点しかないと、今のソフィアリアでも思う。
すっかり色気のある雰囲気は霧散して、その目に宿るのは牽制と警戒。先程よりはずっといいが、正直この反応も違うんだけどなと困ったように笑った。
「わたくしはあまり乗り気ではありませんでしたし、あとから聞いたロディも引いておりましたが、先生のお話を聞くうちに、そういう道もありかなと思うようになりました」
「……一体君は何を言われたのかな?」
「そんなにおかしな話ではありませんよ。まあ、だいぶプライベートなお話でしたが」
コロコロと笑ってフィーギス殿下から視線を外し、庭園を眺める。まるで当時の光景を思い浮かべるように目元を和ませて、後ろで手を組んだ。
ふわりと風が吹いてドレスが舞ったのを合図に、その思い出を口にする。ソフィアリアは和やかなその話を先生達から聞くのが、とても好きだった。
「離宮に捨て置かれ、誰にも顧みられない王子様は悲観的で自己肯定感が低く、でも真面目で優しく、優秀な男の子だと仰られておりました。笑った表情が女の子みたいに可愛かったので、きっと将来、女性問題で苦労して女の子が嫌いになってしまうかもしれないと心配していたんです。そもそも嫌な大人が多かったせいか、人間自体があまりお好きではなさそうだと感じていたみたいですが」
本当ですか?の問いは当然、無言を貫かれた。浮かべた笑みが一瞬引き攣ったので、図星なんだなと思う。
けれどこのくらい、フィーギス殿下の顔を知っていれば、どんな人でも想像がつく範囲だろう。だからまだ特定には至れない。
視線を庭園に戻し、ここから先は逆鱗に触れそうだなと思いつつ、続きを話し始める。
「けれど例外があって、自分と同じ、もしくは自分以上に真面目で優秀な子は目を輝かせて、懐に入れるのですって。本人が優秀だからそれより上の存在をどこかで欲する傾向があって、誰かの庇護下に入る事に憧れを抱いていたようだと話しておりましたよ。そう初めて思った人が、乳兄弟のラトゥスという男の子だと仰っておりました」
そう言うと息を呑んだのが聞こえたが、気付かないフリをして言葉を続ける。
「それとは逆に、可哀想な境遇の子も放っておけない優しさも持ち合わせているのですって。おそらく自分と重ねていて、誰も助けてくれない辛さを知っているから、助けてあげたくなるのでしょうと。だから異常な環境で育ち、フィーギス殿下と並べるくらい優秀なわたくしは、きっとフィーギス殿下のお眼鏡に敵うだろうと言われました。それより前に、そういった境遇のマヤリス王女殿下に出会ったので、なかった話になりましたが」
「……随分と好き放題言ってくれるね?」
「図星だから、ご不快ですか?」
そう指摘するとやっぱり黙るので、そういう事なのだろう。怒っていそうなフィーギス殿下の方を見ないまま、再度語り始める――もう誰も知らないはずの、尊くて幸せな思い出話を。
「人間嫌いの優秀な王子様は、歴史の授業が一番お好きだったそうですね。反面芸術方面に疎く、楽器を持たせれば人に頭痛を与え、筆を持たせれば新たな化け物を生み出す天才だったのだとか」
「待ってなんで知ってるのっ⁉︎」
「ふふっ。そこまで言われると気になるので、いつかわたくしにも見せてくださいな。ちなみにわたくしはどちらも得意ですのよ? あと歴史好きもご一緒ですわね。……自分でお茶を淹れられるようになればと思って教えれば、フィーギス殿下はとても渋くなって、ラトゥス様はこの世に存在してはいけない何かを生み出して、思わず笑ったのだそうです。毒以外で食材を無駄にする事は許さなかったので、その日のお茶会はとても悲惨だったと優しい目をしておられました」
シーンと静まり返る。多分二人は、目を目一杯見開いて驚いている事だろう。だってこんな事を知る人間は彼らの他にはたった二人しかいない……もうこの世にいないはずの、その二人しか。
「一度王城の使用人達がこっそり可愛がっていた猫がここに迷い込んできて、お二人は初めてみる猫に夢中になって可愛がるあまり、うっかり尻尾を踏んで引っ掻かれてしまったそうですね? 殺処分騒ぎになったのを泣いて止めて、以来たまに遊びに来るその猫を心待ちにしていたのだとか」
「セイド嬢、それは」
「何を思ったのか庭園でカードゲームを始めたお二人は、案の定風でカードが飛ばされて必死で庭園中を探し回り、最後の一枚を探し出すのに先生達を巻き込んで、夜までかかったのだとか。探しながら怒ったから、二人はすっかりベソをかいていたと笑っていましたよ?」
ソフィアリアが聞いた離宮での思い出話はいつも楽しそうで、たくさん聞かせてほしいとおねだりをした。
だから長い間ずっと想っていた。可哀想だけど可愛い、ソフィアリアにとっては兄弟子にあたるフィーギス殿下達の事を。
楽しい思い出が詰まった庭園から目を逸らし、再度フィーギス殿下と、その後ろに控えているラトゥスに向き直る。ここに居ない二人の代わりに精一杯の慈愛を宿して、まるであの二人を真似るように親の顔で微笑んだ――それが一番二人には効くと、話を聞いたから知っていた。
「先生はあんな形で別れてしまった後、離宮に残されたお二人の事をいつも心配しておられました。暗殺の魔の手がお二人に届かないか、信頼出来る大人が周りから居なくなって、フィーギス殿下は真っ当に育つのか。出来ればお二人のもとに帰りたかったけど、戻っても暗殺されるだけ、フィーギス殿下を追い落とす駒にされるだけだとわかっていたから、それを叶える事はとても難しかったのですって」
初めて会った頃からたまに、ある方向を遠い目をして眺めているのを目にした。今思えばそれは島都の方向で、先生達はきっと離れてしまった教え子二人の事を、そうやって忘れずに想っていたのだろう。
その寂しく心配そうな表情を、ソフィアリアはずっと見てきた。
「だから代わりに、飛び抜けて優秀なわたくしに目をつけて、お二人のもとへ送り込む事にしたそうです。フィーギス殿下に教えるべき事を代わりにわたくしに教え、間違った成長を遂げていたらわたくしが矯正出来るように……立派な次代の王として成長した暁には、先生達の生存をお二人に伝えられるように」
――それが、ソフィアリアがずっと想っていたフィーギス殿下への告白だった。
先生はあの日、姿絵を見せてくれた時に言ったのだ。
『この子の代わりに君を育ててあげよう。あの幸せな離宮で私達に育てられた場合の姿を君に見出してしまえば、この子は君にきっと惹かれる。だから、もし会ったら、私達が君に教えた事をこの子にも教えてあげなさい。私達の代わりに先生や親のように……この子の双子の姉のように振る舞って、孤独なこの子の家族になってあげたらいい』
『孤独?』
『王とは孤独なものだよ。人間の立てる一番高い場所に立って、周りから厳しく見られるから気を抜けない。間違いなんか許されない。上に立つ人間が間違いを犯したら辛い目に遭うのは下の人間だ。それはわかるね?』
『うん……』
『なのに信頼出来る仲間というのはなかなか見つからず、気を休める場所を見つけるのが本当に難しいんだ。だからソフィがこの子の安らげる場所に……家族になってあげたらいい。夫婦が嫌なら私達のように先生や親になって、見守ったり導いたり。ソフィならきっとそれが出来るよ。……この子の事、私達の代わりに頼むね』
そう言って頭を撫でてくれた。
歪んだ愛情を受け取ってきたソフィアリアに愛情を与えられるか不安だったが、ソフィアリアは『返さなければ』いけないのだ。領民に返す為に手を貸してくれた先生が王太子殿下にそうしてほしいと望むのなら、ソフィアリアは先生から受け取った知恵と愛情をフィーギス殿下に与えなければいけない。それがソフィアリアに出来る償いのひとつだと思った。
だからまず、フィーギス殿下と同じくらい優秀になる為に、フィーギス殿下が受けている帝王学を叩き込んでもらった。本来ソフィアリアには不要な知識だったが、勉強は好きだったし使命でもあったので難なく覚えていった。
その際、フィーギス殿下の模倣となれるように、先生から彼の話をたくさん聞いて、フィーギス殿下ならどうするか、どう考えるかというのをソフィアリアなりに研究し続けた。
研究して、先生があのまま離宮に留まり、フィーギス殿下が先生からあのまま教育を受けていたらどうなっていたかという理想を具現化する事を意識した。だってソフィアリアに求められているのはソフィアリア個人ではなく先生から見ればフィーギス殿下の代わりであり、フィーギス殿下から見れば先生の代わりなのだ。そこにソフィアリア個人の考えはいらないと思った。
先生もまさかここまでとは思っていなかったようだが、フィーギス殿下を完璧に模倣したソフィアリアに苦笑して、このままだと女王陛下にもなれそうだねと笑って頭を撫でてくれたのだから、期待には応えようと思った。
そして間違いなく親や先生となって愛情を与えられるように、あらゆる人間をじっと観察し、人は一般的にどうすれば喜ぶのか、どんな言葉が嬉しいのかを見極め、セイドの人間で実践していた。
結果的に人身掌握術に長け、プロディージを歪ませる結果になった事だけは誤算だったが、これで先生の言う先生や親の愛情というものを、フィーギス殿下にも与える事が出来そうだと喜んだのだ。
そしてこっそり、ソフィアリアは先生達の事も観察していた。二人は何も言わなかったが、先生達の代わりになるのならば、それも必要だろうと思っていた。
姿勢、仕草、言動、思考。それをきちんと覚え、フィーギス殿下に少しでも先生達の面影を感じてもらえたらいい。フィーギス殿下が一番に求めるのはソフィアリアという存在ではなく、先生達のような親代わりの存在なのだから。
まあそうやってフィーギス殿下の先生や親代わりとして立派に成長しきった頃にフィーギス殿下はマヤリス王女という最愛の伴侶を見つけ、親や先生の庇護なんて必要なくなったので全くの無駄になったのだが。
それでも、どうにか先生達の生存は伝えたかったのだけれど、先生達に言われてしまった。
『もうその必要もないだろう。噂に聞くあの子は私達がいなくても次代の王として立派に成長出来た。きっと王鳥様のおかげだね。親の手から離れて自立しかけているフィーギス殿下にはもう、先生達の存在は過去のものだから、伝える必要はないよ』
『そんな事ありません! たしかに先生や親としてはもう必要ないかもしれませんが、それでも先生達が本当は生きていたと知れば、きっとお喜びになるはずです。わたくしが社交デビューした暁にはなんとかお伝えしますから、いつか会ってあげてくださいませ』
『……どうしてもというなら、いつか自力でその答えに辿り着けるように、怪しい行動で匂わせるに留めておきなさい。それが幼少期に少しだけ過ごした先生としての、あの子達への最後の課題だよ』
その言葉は先生達らしいと思った。自分で調べて答えを見つけさせて、自分達の生存という何よりも嬉しいご褒美も用意されている。
フィーギス殿下が一人前になっても二人は相変わらずフィーギス殿下達の先生で、親代わりなのだろう。ただ架け橋になる事しか考えていなかった紛い物のソフィアリアとはやはり違うのだ。
だからソフィアリアは大屋敷で、フィーギス殿下達の前で男爵令嬢であるまじき言動を繰り返した。一部王鳥妃として立つ為にやむを得ない事態もあったが、怪しんでもらえる程度には優秀さをアピール出来たと思う。
ソフィアリアの振る舞いはきっとフィーギス殿下の目を惹いた事だろう。間違いなく上に立つ者の思考をし、無償の慈愛を振り撒く。それでいて人を突き放しすぎず、信用し過ぎず、けれど慈しみあふれる性格故に、たくさんの人に慕われている。
フィーギス殿下と似ているようで、人間嫌いのフィーギス殿下では成し得ない自然な人当たりの良さを身に付け、けれど振る舞いはまさしく王――女王だ。フィーギス殿下があのまま先生達に育てられていたら、きっとこうなっていたの具現像。
答えを見つけられるにはまだ遠いが、残念ながらもう潮時だ。二人は充分怪しんで探りを入れたものの、次から次に起こる緊急事態を捌くのに手一杯で、見つける余裕がなかったのだから仕方ない。これ以上セイドに迷惑を掛け、多忙な二人に手を煩わせてモヤモヤを抱えさせ続ける訳にはいかないのだ。
それに、このまま黙っていればフィーギス殿下のソフィアリアを見る目が取り返しがつかなくなってしまう。それだけは、なんとしても避けなければいけない事態だった。
ここまで話してしまえばほぼ答えを言ったようなものだが、直接は伝えていないので一応先生達の願い通りだろう。だからこれで許してほしい。
「これが、貴方達が知りたかったソフィアリアという不自然な人間の全てです。この答えでご満足いただけましたか? フィーギス殿下」
ふわりと熱を宿し、慈愛の表情で優しく微笑んだ。この表情は恋愛感情ではなく、フィーギス殿下の母代わりだった礼儀作法の先生――トゥーヒック夫人と一緒だと、今なら気付いてくれると信じて。




