喪失の未練 11
彼の周りに覆い被さっていた邪魔な瓦礫を吹き飛ばし、痛みを一切感じないように防壁を張り巡らせる。自分でもそうしていたみたいだが、それによって身体が痛めつけられるのでは何の意味もない。
彼は痛みがなくなった事を不思議に思ったのか、ゆっくりと目を開けた。そしてこちらを向き、ふわりと微笑んだ――その微笑み方は、どことなく大切な妃と似ている。
「やあ、王鳥様。随分と遅かったね? ぼくは二年……いや半季も、君が来るのを待っていたんだよ?」
『其方が完全に未練を断ち、安心して逝く為には必要な時間だったからな』
話しかけたものの王鳥の声が聞こえるとは思わなかったのだろう。大きく目を見開いて、けれど今の自分の存在は人型の大鳥のようなものだったと思い出して頷いている。そして困ったような笑みをこちらに向けた。
「……ぼくは余計な悪事を働かされた気がするんだけど?」
『二人の絶望が其方の未練だと言うておったが、もっとあったであろう? 例えばアーヴィスティーラの本拠地からセイドの資料を見つからないように隠し、あの部屋を閉鎖する事。劇団を追われて島都外れの盗賊に捕まり、娼婦をさせられていた劇団員を助ける為に盗賊団を潰す事。劇団の再結成を見届ける事。そして王妃の命を奪わないまでも、嫌がらせをする事……二年も生きておれば、新しい未練だって増えるだろうて』
そう言ってつらつらドロールの未練を述べていくと、目を見開いて驚いていた。
本当は二年前から、ドロールの行動は見守っていたのだ。
オーリム達がドロールの死を乗り越え、立ち直って幸せになる事が一番の願いだったようだが、生きていれば願いや望みなんて次々と増えていくものだ。極力未練を増やさないように人里離れた所で静かに暮らしていたようだが、それでも劇団はどうなったのかとか、王妃はまだ健在なのかとか、どうしても気になる事はあったらしい。
それを見に行くうちにうっかり未練を増やしてしまっていた。増やしてしまった未練を全て清算出来るように、時にはそっと手を貸しながら、ずっと見守っていたのだ。
急いでいたので開けっぱなしだった元アーヴィスティーラ本拠地にあった部屋も封鎖した。まあその後オーリムに見つけさせ、資料はセイドの――プロディージの手に返したが。
島都近くにあった盗賊団を潰す事を本人にやらせると助けた劇団員に情が移ってますます離れがたくなりそうだったので、それらしい資料をアジトに放り込み、あれはアーヴィスティーラだと偽ってオーリム達に潰させた。
まさかドロールもあんな所で鉢合わせするとは思わなかったのだろう。隠れたもののうっかり見つかり、咄嗟にオドオドした子供を演じて誤魔化す様がなかなかに傑作だった。ミクスという取り込まれた魂の一人から名を借り、そうやって侯爵家に使える従者の存在を作り上げていた。
ちなみに王妃のソフィアリア暗殺依頼書をあんな盗賊団なんかの所に持ち込んだのは、完全に王妃への嫌がらせだったようだ。それを盗賊団に持ち込み、実際に自分が被害にあってみせ、自警団にアジトの場所を通報する事でそれが見つかり、あわよくば失脚しないかと目論んだようだが、まあそれが成功した所で握り潰されるのがオチだったと思う。
その盗賊団が潰れた事で劇団員は逃げ出し、島都に集結していたかつての仕事仲間と合流し、名前は違うしメンバーも足りないものの、新たな劇団を立ち上げたのを見届けていた。いつかはかつての看板を掲げる事が夢だと誓い合う姿を見て、そこに戻りたいという気持ちが芽生えそうになっていたなと思う。
けれど劇団の再結成の為には世界は平和でなくてはならないのだと考え直し、寸前で諦めていた。劇団員として返り咲く事ではなく、劇団がまた大きくなれるように世界を正すのだと、そうやって決意を新たにしていた。
世界を護る為に死に行くよりもずっと健全な願いだ。世界を救うなんてちっぽけな人間一人で背負おうとする無謀な献身よりも、自分が大切だと思ったものを護る為だと決めた方がよほど身が入りやすく、人間らしいではないか。
そして王妃の力を大きく削ぐという最大級の嫌がらせだって果たした今、ようやく未練らしい未練もなくなった。ヨーピの悲しみやプロムスとオーリムへの最期のメッセージもソフィアリアに託したし、これで心置きなく逝ける事だろう。
「……そっか。まさか王鳥様とあろう者がこのまま見逃すつもりかと思って焦ったけど、そんなに甘くないと知れてよかったよ」
『そこまで甘くはなれぬよ。でも……すまぬな、ドロールよ。其方の犠牲は余の見通しの甘さが招いた事だ。一生恨むがよい』
後悔という程の事ではない。もしもう一度過去に戻ったとしても、フラーテと共にヨーピを始末するなんて事はしない。だってヨーピは始末するには影響力の強い侯爵位の大鳥で、当時は断罪されるような事は何もしていなかったのだから。
まあ戻れたとしたら、フラーテの血筋がなくなるその日まで、ヨーピを大鳥の世界に閉じ込めておくくらいの事はするが。
王鳥の言葉に、ドロールは苦笑した。
「今から死ぬ人間の一生とは随分と短いね? せっかく世界一偉い神様がたかが一人の人間風情に謝罪したのだから許せとか、そういう風に思わないんだ? リムから王鳥様は横暴だって聞いていたんだけどな」
『余は確かに世界一偉いが、開き直った上で横暴な態度を取るほど小さくはなれぬ。それに、謝罪はお互いの為に必ず必要な事だが、謝罪した本人しか気持ちは軽くならんからな。謝罪した本人が許しを乞うのは違う。許しは謝罪された側の慈悲なのだから、慈悲のいらぬ者には不用ぞ。だから其方は余を許すな』
「そっか。でもぼくは立派になったロムとリムの友人として、そして綺麗な従姪に誇らしい自分でありたいから、許して逝く事にするよ」
そう言って笑う表情と性格が本当に妃によく似ているから、気持ちは重くなるばかりだ。
王鳥から見れば同じ血族の中ではソフィアリアとドロールが一番似ていると思っていた。お互い生きて会えれば、一番仲のいい異性の友達になれたのではないかと思う。まあ、それを王鳥とオーリムが許すかは別の話になるが。
「……王鳥様はこうなる事は予想していなかったのかい? 例えばフラーテに息子がいる事。その息子が大屋敷に来る事。ヨーピがその息子と接触する事。そのくらい察知出来そうな気がするんだけど?」
『……ああ、考えておったよ。少なくともヨーピはいずれ其方の事に気付いて、必ず接触するだろうとは思うておった。……それで慰めだけを求めると思うたのが間違いだったな』
そう。王鳥だってそのくらい考えたのだ。もう少し落ち着いて人間の住む世界に戻ってくれば、ヨーピはフラーテの忘れ形見の事を察知し、接触を図るだろうと。
予想外だったのは落ち着く前にドロールの気を察して、復讐の為に歪んだ契約を成した事だった。これには大いに驚かされ、そして焦ったのだ。
『侯爵位の大鳥は、余と空位で未知の公爵位の大鳥を除けば一番力が強く、また人間と寿命を共にする余とは違い長命……いや、半永久的に生きると言っても過言ではない。今まで侯爵位の大鳥が死亡した例なんて、ヨーピしか居らぬからな』
「今まででヨーピだけ?」
『左様。だから単純な力量は王鳥の方が上になるが、寿命なんかも含めると侯爵位の大鳥の方がずっと影響力が強く、長く生きる分我だって強い。余ですら彼奴らの考えを読むのは不可能ぞ』
そう言って渋面を作る。話しながら、これは言い訳でしかないと気付いたからだ。
それでも、ヨーピにもっと注意を払ったり、ドロールの護りを固めたり、やれる事はいくらでもあったのだ。
それをドロールの優しさならいずれはヨーピを慰めて心を癒す事が出来るかもしれないと過分に期待して、こういう最悪な事態を予測していなかったのは王鳥の甘さであり、落ち度だ。だからドロールの死は、王鳥が背負うべき咎だった。
「そっか。王鳥様でもそんな事があるんだね」
『ああ。だから其方は余を許すな』
「さっきも言ったけど、許すよ。気持ちや考えなんて、結局本人しかわからない……本人ですらたまにわからなくなるんだから、他人が全てわかろうなんて傲慢なんだよ。だからぼくは、王鳥様を許して逝く事にする」
『……ほんに其方は……』
なんと高潔な魂なのだろうと思った。綺麗で慈悲深く、他人に優しさを振り撒く事に抵抗もない。それでいて愚かという訳でもなく、自分をしっかり持ってもいる。
大鳥が最も好く魂の在り方だ。王鳥ですら、心がこんなに強く揺さぶられる。これがセイドの血筋なのだろうか。
大鳥は人間の血族を理解しないが、セイドだけはずっと特別だろうと思った。といってもセイドの血筋で大鳥に関わったのなんてフラーテが初で、その血が大鳥にも注目を浴びたのは、ソフィアリアのおかげなのだが。
『其方、生まれ変わりに望みはあるか?』
「無理矢理生き返った身からすれば、生まれ変わりなんて抵抗があるだけなんだけど。でも、そうだな……今度こそ、国一番の役者になりたいかな。でもまたロムとリムや従姪にも会いたいし、悩ましいね」
『それが望みなら、相分かった』
急に何?とくすくす笑い、ふとあの事を思い出したのか、王鳥を見上げた。
「……ねえ、もし生まれ変わりが本当ならあの子は……あの子達は、今度こそ大事な人と幸せになれる?」
やはり自身の中にある魂の一部のおかげか、その事実に勘付いたらしい。あれは歪みのせいではなく、正当な手段で発生したものなのだと。
王鳥は目を優しく細め、首肯した。
『ああ、それは余が保証しよう。彼奴らが次に選んだのは周りから愛情を多分に注がれて、まっすぐな娘に育つであろうからな。彼奴ら自身も既に多くの者に目を掛けられておるし、今は幸せいっぱいだろうて』
「……そっか。よかった。だったらぼくも、来世に期待しようかな」
そう言って安心したように微笑む。これで未練とまではいかなくても、残っていた憂いの一つも晴れただろう。
そもそも今回生き返りなんていう荒唐無稽な事が起こった原因は、この国の人間はこの島内で輪廻転生に縛られるという、特異性のせいだった。生まれ変わりであれば、そうおかしな事ではないのだ。
この国で死んだ人間の魂は数百年かけてその記憶ごと浄化され、全くの別人として、この国にまた生まれ変わってくるのだから。
唯一浄化されないのは大鳥との契約だ。鳥騎族は死した後、生まれ変わっても導かれるかのように同じ大鳥を求め、出会い、何もわからないまま再度契約を結ぶ。
この輪廻転生は人間とは寿命が違う大鳥も同じで、大鳥が死んで新たな大鳥として生まれ変わった後、また同じ魂を持つ鳥騎族と巡り合い、再度惹かれる。
このビドゥア聖島では、人知れずそんな事が行われていた。
これはたった一羽を除いて大鳥も知らない事だった。まさか契約した人間の魂はずっと同じだなんて大鳥も思っていないだろうし、死んだ後も同じ魂を持つ人間と繰り返し契約を結んでいるなんて気付きもしない。
ヨーピはその理を無意識に歪めた。親子というだけで別の魂を持つ人間と契約し、その契約すら、同調を強くするなんていう方法を取り、好き放題に弄ってくれた。
おかげでヨーピの魂にはフラーテとドロールという二つの人間の魂との契約が結びつき、王鳥がその契約を強制的に破棄したので、ヨーピの魂の一部はフラーテとドロールの魂を離すまいと抱え込んでしまい、世界の歪みと共鳴してこんな形に収まった。
そして魂の一部が足りないまま浄化が完了し、生まれ変わったヨーピの魂は欠けたまま、ああいう形となって現れてしまったのがほんの最近だ。ドロールは魂の一部を抱えたままなので、それを察知したらしい。
けれどそちらはもうどうしようもない。もしかしたらドロールが死した後、欠けた魂の一部を吸収してしまうかもしれないが、これから新たな形で生きていくしかないだろう。
それは諦めるとして、まだドロールが生きているので世界は歪んだままだ。その歪みを利用して、王鳥はドロールの次の生まれ変わりに介入出来そうだと思った。このくらい、罪滅ぼしとしてやってやろうと思った。
どうせこの大きな世界の歪みの修復は、今の王鳥の代の間は続くのだろう。歪みが引き起こす事態を解決しなければならないのだから、そのくらいの我儘は許されて然るべきである。
プロムスとオーリムに会えて、役者になる事。なら、生まれ変わりはそう遠くには出来ない。魂の浄化を手伝えば、十年と掛からないくらいには出来るだろうか。
もうヨーピの魂とは契約を結べないが、王鳥ですら惹かれる魂を持つのだから、また鳥騎族になるかもしれないなと思った。役者になるには余計かもしれないが。
『……今度こそ、幸せになるのだぞ』
「うん。そうなれたら素敵だね」
そう言って浮かべた笑みは、どんどんとぼんやりしてきていた。苦しまず、眠るように死ねるよう王鳥が細工したのだから。
王鳥はドロールの……ミクスの姿をしたドロールの髪を梳く。心地いいのか、気持ちよさそうに瞼を閉じ始める。それをずっと見守っていた。
『王鳥様も……幸せに……ぼくの従姪と…………』
言い切る事なく、完全に瞼は閉じられた。それを看取って、すりっと頬擦りする。王鳥の甘さが招いた咎を忘れないように。一生背負っていけるように。
けれど
『……その願いは、もう叶えられぬよ』
そうポツリと、寂しそうな声音で呟いた。
*
両親に抱えられたままぬくぬくと眠りについていたが、それを察知してむくりと起き上がる。
親に再度寝かしつけられそうになったのを躱し、ポテポテと巣から抜け出して、呆然と空を見上げた。
ふわふわと雪が降り始めた夜空は空気が澄んでいて、昨日より星がキラキラと綺麗に輝いて見える。それを大好きな『ママ』で『おともだち』と楽しく鑑賞したのはつい数時間前の事なのに、全てを思い出した今となっては、幸せな夢のように思えてならなかった。
と、自分と同じく巣から抜け出してきた半身が隣に並び、同じように夜空を見上げる。
『……思い出したの』
『忘れちゃダメだったのに』
『わるい子なの』
『ひどい子なの』
『これからどうしよう?』
『もういっしょはダメ?』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
そうやって二羽は夜通しずっとポロポロと涙を流していたのを、両親は困惑しながら見守っていた。




