喪失の未練 6
二人についていくと、生垣の向こうには噴水があった。その噴水の前には――肩で切り揃えた亜麻色の髪にオレンジの瞳の、眼鏡をかけた見慣れない女性が立っている。
「ビー、終わったよ!」
ラクトルが歓喜を隠しもせずに声まで弾ませてそう言い、メルローゼから手を離して女性のもとに駆けていくと、その勢いのままギュッと抱き締めていた。
「は?」
思わず半眼になり、冷たい声音でそう言ったプロディージを置き去りに、他の三人は会話を弾ませ始める。
「デイ姉様、おめでとう! ああ、ようやくね!」
「ありがとう、メルちゃん。けれど、ごめんなさい。こんな事に巻き込んでしまって。……あなたの婚約にも……」
「ううん、私の事は気にしないで。どうせこうなってしまうのも遅かれ早かれだったわ。……私の方こそごめんなさい。トール兄様と私の婚約の話、不愉快だったでしょう?」
「本音を言うとね、少しヤキモチを焼いたのよ? でもルーが毎日のように手紙をくれたから、信じてもいいかなって」
「もうっ、相変わらず熱々なんだから」
そう言ってくすくす笑うメルローゼを目を白黒させながらもじっと見つめる。目の前で想い人が別の女性と抱擁を交わしていて平気なのか。それよりその女性とも知り合いなのか――何故彼女の事も、ラクトルを見る時と同じ熱い眼差しで見つめているのか。
現状わからない事だらけだ。だからとりあえず静観して、情報収集に専念する事にした。……三人の関係をよく知らない部外者なのだから、それしか出来そうもない。
「ごめん、メル。先々週の事も気をつけていたんだけど、どうやら誰かに見られていたみたいなんだ。噂になっている事に気付くのが遅れた。それを、よりによって王妃殿下にバレて利用されてしまったみたいだね」
「ううん、きっと私が迂闊だったのよ。トール兄様がうっかり見つかるなんて思わないもの。形だけでもトール兄様と婚約を結ぶ事はデイ姉様に申し訳なくてショックだったけれど、王鳥様に助けていただいたし、結果的に自然とトール兄様とソフィを……というより、王鳥様を引き合わせられたのだから、これでよかったのかなって」
そう言って嬉しそうに笑うメルローゼ達の話を聞く限り、ラクトルがメルローゼに接触したのは、おそらくその女性と結婚する為に派閥変更がしたくて、その為に姉か王鳥に接触したかったかららしい。
なら、亜麻色の髪の女性はフィーギス殿下派の家の人間のはず。顔に見覚えがないので、まだ完全には網羅しきっていない下位貴族か、商家の人間なのかもしれない。
メルローゼに姉を紹介してもらい、事情を話して協力してほしかったのだろう。たとえば一度だけでも取引してしまえば、ペディ商会の派閥変更の正当な理由が出来る。あわよくば御用達にでも収まれば、王鳥の名によるペディ商会の庇護に取引先、また王鳥妃御用達なんていう新たな看板まで掲げられるので、利点しかない。
ところがそれを相談する為に密会していたのを見られ、ラクトルとメルローゼが恋仲だという噂が流れたのだろう。メルローゼは王鳥妃の実家であるセイドと婚約していて多少注目を浴びており、ラクトルは高位貴族の次男で侯爵位は継がないが、次期商会長だ。そんな二人の噂なんて、足の引っ張り合いが常な貴族にとっては格好の餌食である。
それを噂で聞いたか直接目撃されたかは知らないが、現妃に見つかり、利用された。けれど現妃の計画は失敗し、結果的にラクトルは圧力をかけてきた現妃を見限るきっかけが出来て、行商の噂もあり派閥を変更する正当な理由になった。
憶測だが、そんなところだろう。おかしな点は何もなく、ラクトルは予定とは違ったが自分の願いを叶えた形になる。
問題はメルローゼの気持ちだ。プロディージが見た限りメルローゼはラクトルに想いを寄せているように見えるし、人の機微に異常に敏感な姉もそう思っていた。なら、間違っていないはずだ。
なのにラクトルが別の女性といる所を微笑ましげに見つめて心から祝福し、またその女性の事もラクトルを見るのと同様の熱視線で見つめている。だから色々と意味がわからずに混乱してしまうのだ。
「セイド卿」
まだ見極めがすんでいない所にラクトルから声を掛けられ、思考を切り替える。プロディージを晴れやかに見つめる表情に微妙な気分になったものの、それを顔には出さずにいた。
「君にも申し訳ない事をしてしまった。私はただ派閥変更をしたかっただけなのだが、気がつけば随分と大事になってしまった」
「……イン・ペディメント侯爵家とペディ商会という大きな力を持つ家と商会が派閥を変更なさるのですから、これくらいの騒ぎは当然ではないでしょうか」
「違いない。けれど、その代償に大ホールを失う事になるとは思わなかったけどね」
そう言って未だに燃え盛る大ホールに視線を向けていた。
イン・ペディメント侯爵家もペディ商会も力を削ぎ落とす事にはならないと思うが、大きな夜会の最中に起こった火災事故――と処理されるだろう――だ。それも今回は王太子殿下や王鳥関係者まで参加している。
反勢力の人間がいたから奇襲されたのでは?という憶測やそれなりの責任を追求してくる奴らは必ず出てくるだろう。
ただでさえ商会は年末年始が忙しいのに、明日からはそれらも対応しなければならない。大ホールの再建も必要だろうし、しばらくはうんざりする程忙しいだろうなと思った。
「……派閥を変更した代償がそれなら、まだ安いものだったのではないでしょうか?」
「そうとも言える。けれど、君達の婚約は決して払っていい代償ではなかった。……本当に申し訳ない。再婚約の際の口添えでもなんでも協力は惜しまないから、遠慮なく頼ってほしい」
「お気遣いありがとうございます。では、何かあればお願いいたします」
それには曖昧に口角を上げて聞き流す。罪悪感を感じで再婚約する際の不都合を引き受けてくれるようだが、おそらくプロディージが頼む日は来ないだろう。だから、その気持ちだけしか受け取る事が出来なかった。
本当に、何をするにも抜かりもなく誠実な人だ。もっと愚かであってくれれば嫌味で言い潰す事も、恨む事も出来ただろうに、それすらさせてもらえない――おそらくそれも、彼は計算に入れている。そういう強かさだって持ち合わせていそうだ。
「セイド卿、私からも婚約の事、謝罪させてください。私はイデリス子爵家が次女デイビーと申します。メルちゃんとは旧知の仲で、私では力不足で謝罪だけしか出来ませんが、この度は大変申し訳ございませんでした」
ここに居た女性もラクトルと並んでおへその前で手を重ね、綺麗な所作で頭を下げる。
「……ああ、あなたが。どうか頭を上げてください。イデリス嬢から謝罪していただく事など何もありません」
プロディージは彼女の顔はわからなかったが、その名前は知っていた。それを聞けば色々と合点がいく。
イデリス子爵家――イデ・アリス侯爵家だったその家は十年程前、現妃に粗相をしたという理由で降爵処分となった家だ。当時はそれなりに騒ぎになったらしい。
侯爵位だった頃は現妃派だったのだが不興を買い、フィーギス殿下派に寝返らざるを得なかったのだという。当時のフィーギス殿下は王鳥に認められておらず、また離宮に捨て置かれていたので、かなりの少数派だったにもかかわらずだ。
おそらくラクトルとデイビーの二人は、降爵処分前からの付き合いだったのだろう。同じ侯爵家、イデ・アリス侯爵家は当時は弱小ながらも商会持ちだったはずなので、充分考えられる事である。
だが処分を受けて派閥違い、家格違いとなった事で二人は引き裂かれ、ラクトルの反応から考えて現妃に恨みでも募らせていたのか。そして自分が商会を継ぎ次第、反旗を翻したかったというところなのだろう。それは理解した。
まあ、そんな大それた作戦に十年前に交流があった、ただの子爵令嬢メルローゼを使った事に思う所がない訳ではないが、メルローゼ本人は旧知という事もあり快く引き受けたみたいなので、プロディージは何も言えない。
「ありがとうございます。どうかメルちゃんの事、よろしくお願いしますね」
デイビーのその言葉にも、曖昧に流す事しか出来なかった。
「では、私達は戻るよ。メルにビーを会わせられてよかった」
「ええ、私も十年振りにデイ姉様にお会い出来てよかったわ!」
「私もよ。ふふっ、メルちゃんも社交デビューするし、来年からはたくさん顔を合わせられそうで嬉しいわ」
「私もよ。じゃあ、またね」
メルローゼが手を小さく振ると、二人はプロディージにも会釈しながら行ってしまう。プロディージも頭を下げて見送った。
チラリと見たメルローゼはショックを受けた風でもなく、眩しそうに二人を見送っている。
その事が、まだ腑に落ちない。
「……君はイン・ペディメント卿の事が好きだったんじゃないの?」
「はあっ⁉︎」
何故、と驚愕の眼差しを向けられたが、こちらこそ何故、だ。メルローゼは確かにそれなりの熱い眼差しでラクトルを見ていたはずなのに、その事をおくびにも出さずに見送れるのが不思議でならない。ラクトルだって、メルローゼに対してそれなりに思わせぶりなアプローチしていたではないか。
ラクトルを敵視し、ヤキモキしていたプロディージは一体なんだったのかと思ってしまう。
「なんでっ……あっ、あ〜。もしかして一昨日、ソフィとの話を聞いていたの?」
一昨日とは、中庭のガボゼでの話だ。当時感じた嫌な気持ちまで思い出してしまい、思わず顔を顰めてふいっと視線を逸らした。
「もうっ! あの日も違うって言ったじゃないっ!」
「……完全には否定してなかったし、君だってそれなりに想いを寄せていたじゃないか」
「まあ、トール兄様の事をいいなとは思っていた気持ちは否定しないけど」
そう言って唇を尖らせ、いじいじと髪をいじり出す。ほらねとジトリと半眼で睨め付ければ、メルローゼは困ったように眉を八の字に下げていた。
「あの時は色々と気が動転しててソフィには言い忘れていたけど、十年くらい前まで交流があったのは、トール兄様とデイ姉様の二人となのよ? トール兄様と二人きりではないわ」
「イン・ペディメント卿だけじゃなかった訳? 婚約の話だって出てたって言っていたじゃないか」
「どちらかと言えばキラキラしたカップルの二人に突撃したのは私なのよ。それを私がトール兄様に一目惚れしたって勘違いして、お互い商会持ち同士業務提携しようかって話になった事はあるけど、おそらくすぐにトール兄様が潰していたわ。……結局、うちがフィーギス殿下派につく事になったからすぐに流れたけど」
紛らわしくも思わせぶりな言い回しをしてしまった自覚はあるのだろう。気まずそうに視線を逸らしていた。それをプロディージはジトリと、ますます呆れたように睨み付ける。
「……イン・ペディメント卿が今日君に接触してきたのは?」
「今日王妃殿下に派閥変更するって伝えたかったのと、デイ姉様が私に会いたがっているのを叶えようとしていたのよ。私も先々週お会いした時に、デイ姉様にも久し振りに会いたいって話してしまったし。結局直前に目配せする事でしか激励出来なかったし、会うのもこんなタイミングになってしまったけど」
「あの状況でファーストダンスを申し込んだのは?」
「トール兄様にとってはファーストダンスではなかったと思うわ。夜会が始まって随分と時間が経っていたし、王鳥様の関係者だと思われている私を連れ出すタイミングはあそこしかなかったもの。でもデイ姉様の願いを叶えたいって気持ちが先行し過ぎて少し焦っていたのではないかしら? あなたの事まで攻撃するし、そんな余裕のないトール兄様を見たのは初めてだったからビックリしちゃった」
そう言ってくすくす笑っているが、そんな理由でラクトルに嫌味をぶつけられたのかと渋面を作るしかない。なんとも迷惑な話である。
メルローゼは笑うのをやめ、二人が去っていった方向を優しい表情で見つめていた。
「デイ姉様は早いうちから家を出て、ペディ商会に就職してトール兄様のパートナー兼秘書をしていらっしゃるのよ? 商会持ちとして、貴族として、そして男女として、二人は私の憧れなの。私はデイ姉様と知恵を出し合って商会を切り盛りしているトール兄様が好きだし、トール兄様の力になりたいって奮闘しているデイ姉様が好きよ。二人に割り込みたいって訳じゃなくて、二人が好きなの」
そう言ってこちらを向くと、照れたように瞳に熱を宿らせて微笑むメルローゼに胸が高鳴った事は横に置いておき、ふとその表情に既視感を覚えて、ようやく色々と納得した。
ラクトルやデイビーに向ける熱っぽい視線は、メルローゼがマヤリス王女の事を興奮気味に褒めちぎったり、姉が何かいい政策を思いついた時に向けていた視線と一緒だ。ラクトルが異性だったのでその熱を別の意味で捉えてしまったが、そういう事だったのだろう。
メルローゼはそうやって人柄に惚れ込むのだ。主にマヤリス王女と姉に向けていたので二人限定かと思っていたが、どうやら違ったと初めて知った。
プロディージも姉もセイドから出た事がなかったので知らなかったが、既にペクーニア商会員としてそれなりに顔が広いメルローゼにはそういう人が他にも居たらしい。あえて言えば尊敬……というか、崇拝といったところか。
プロディージも勘違いしたが、姉も間違えた。人の機微に敏感な姉が間違えるはずがないという先入観に支配されていたが、そういえば今の姉はどこか様子がおかしいのだという事を思い出して苦笑した。
まったく、なんとも馬鹿らしいオチである。
「姉上やコンバラリヤの王女殿下と同じって訳?」
「そうよ! その二人より早い、初めて憧れを抱いた二人だったんだから。だからその、ご、誤解しないでよっ!」
そう言って弁明する言葉の意味を考える。普通だと復縁を期待する所なのだが、それはないとプロディージは知っていた。
――そう、ラクトルやデイビーはすぐに再婚約を結ぶものだと思っているようだが、それだけは決してないとわかっていた。卑屈でもなんでもなく、メルローゼがそれを望んでいないのが言葉の端々から伝わってくる。それに気付かない程、プロディージは鈍感ではない。
「はいはい、あの二人にも悪いもんね」
「まったくだわ! これからは同派閥だしたくさん会う機会があるのに、余計な誤解を与えて気まずくなるなんてイヤ! 私は二人に突撃した可愛い妹分でいいんだから」
そう言って未知の未来を楽しみに笑う、白を纏うメルローゼの姿も今ならそう悪くないなと思えた。ラクトルに懸想している訳ではないと知ったからだろうか?
だからつい、言ってしまったのだ。
「……君って案外可愛いところもあるよね」
素直に、心からそう思った。けれどメルローゼはそれを照れもせず当然のように受け入れて、ふふんと得意げに笑う。
「何? 今頃気付いたって訳?」
揶揄うように人の口癖を取り入れてコロコロ笑うメルローゼはもう隣に立つ事はないのだろうけれど、こうして側で軽口を叩き合う関係をまだ、未練がましくも望んでしまう。
婚約者を望んでいないのなら、気心の知れた幼馴染として。いつまでもずっとという訳にはいかないだろうが、せめて学園に在学している間だけでも、そうやって傍に居れたらいい。
そう思えるようになっていたプロディージはこの時、メルローゼの婚約者という地位への未練が消えたのだと思った。




