過去の『せいさん』 1
この日のソフィアリアは一人、玄関ポーチで空を見上げていた。
まるで誰かを待っているかのような物憂げな表情はひどく儚げに見えるだろう。けれど今日は側に誰もいない。その現実に打ちのめされていた。
と、ガチャリと音がして玄関扉が開かれる。
「おはよう、フィア……フィア?」
やってきたのはオーリムだった。喜びの笑みを浮かべてソフィアリアの姿を目にしたが、その背中があまりにも寂しそうだったので驚いているようだ。
「……おはようございます、ラズくん」
振り向いた表情は暗く、その声は酷く弱々しい。よく見ると睡眠時間が足りなかったのか何かあったのか、目の下に隈まで出来ていた。
オーリムは側によると、その細い肩に両手を添えてくれる。
「何かあったのか?」
「……王様がいないんです」
「王が? ――――ああ、今日は大きな戦闘になるから、先に行って見回りをしてくれてる。行けなくてすまないだとさ」
「……そう。いえ、そうかしら?」
思わず疑問が口に出てしまった。首を傾げるオーリムに今の情けないソフィアリアは見られたくなくて、俯いて顔を隠した。
「何が不安なんだ?」
「なんだか昨日の朝から王様が遠いの。見えない壁を作られている気がして」
「王が?」
コクリと頷く。けれどオーリムはそう感じていないのか、首を傾げていた。
それを見て、もしかしたらソフィアリアの気のせいではないかと思い始める。二人は今から大きな戦闘があるのに、ソフィアリアの事で煩わせるのはダメだろうと、無理矢理笑みを作って首を横に振った。
「いえ、きっとわたくしったら寂しいのね。王様とは毎日引っ付いていたから、温もりがなくなってそう感じているだけだわ。ごめんなさい、ラズくん。なんでも……」
ないと言おうとした唇は、オーリムの指によって遮られる。きょとんとして顔を上げれば、むっとした表情のオーリムと目が合った。
「気持ちを押し殺す必要はないだろ。俺はフィアより感情の機微に疎いし、フィアは人一番察しがいい。フィアがそう言うならその通りなんだろうし、違うのなら不安にさせた王の弁明を聞くべきだ」
「でもラズくんは人の機微に疎くても、王様との繋がりがあるからわかるのでしょう?」
「……別に、王の事ならなんでもわかる訳でもない。王は秘密主義だし、すぐはぐらかすし、勝手に抱え込むし、半分以上わかってない。絶対にわかるのは好き嫌いくらいだ」
そう言ったオーリムは不貞腐れていて、少し寂しそうだった。ずっと一緒にいる自分の半身が何も語ってくれないのが水臭いと思っているのかもしれない。
でも好き嫌いがわかるなら、今一番疑問に思っている事を答えてくれるかもしれない。少し聞くのは怖かったが、尋ねてみる事にした。
「わたくし、王様に嫌われたのかしら?」
「はあっ⁉︎ そんな訳ないっ! 絶対にないっ‼︎ 王はずっとフィアが好きだし、おっ、俺だってそうだ! むしろ日増しにどんどん好きになってるくらいだから、そこは信じてくれていいっ!」
ほんのりと頰を赤くしながらキリッとした表情でそう断言されて、ソフィアリアも思わず照れが伝染する。勢いに押されてコクコクと頷いていた。
でも、なら何故だろうとしょんぼりしてしまう。知らないうちに何かしてしまっただろうかと記憶を辿るも、全く心当たりがないのだ。
「とにかく! 俺が王に聞いてなんとかする。今は何も答えてくれないけど、誤解があるなら話し合うべきだし、フィアを悲しませる事は王だからこそ許せない。だから少し待っていてほしい」
「ごめんなさい、今日は大変なのに煩わせてしまって」
もっとシュンっと落ち込んで眉尻を下げると、オーリムはふっと笑みを浮かべ、髪を梳いてくれた。髪を撫でるのが好きなのは王鳥と一緒だとまた彼の事を思い出してしまい、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。
「フィアを煩わしいと思う事は絶対ないし、八割フィアの事ばかり考えている今も、仕事くらいきちんと出来る。戦闘になろうと遅れを取る程、俺は腑抜けじゃない」
「……そっか。ラズくんってばとてもお強いもの。心配なんてかえって失礼よね。ごめんなさい」
「別にいい」
「でも、八割もわたくしの事を考えてくれているの?」
気持ちを和ませようと首を傾げて悪戯っぽく尋ねてみれば、ボンッと瞬間的に真っ赤になってしまった。視線を彷徨わせ、明後日の方向を見ながらコクリと頷くのだから、本当に素直な人だ。
「本音を言うと九割くらいは。俺、今は馬鹿みたいに浮かれてて、なんでもフィアに結びつけがちなんだ。昨日も義母さんとお茶を飲みながら、将来フィアはこんな感じになるのかと、だな」
ゴニョゴニョと伝えてくれる本音に擽ったさを感じ、思わず微笑んでしまう。
だからいつものように王鳥と気持ちを共有しようと後ろを振り向こうとして――思いとどまった。今後ろに王鳥が居ない現実を直視すると、泣いてしまう気がしたのだ。
だから前を向いて、オーリムとだけ向かい合う。
「ラズくん、お母様の事を義母さんって呼ぶ事にしたのねぇ。忙しいのにいつの間にかお茶会までしているし、少し妬けてしまうわ」
「いや、たまたま会っただけだから! その、そこでハンカチの事を聞いて、少し打ち解けた感じになったから、そう呼ぶ事にした」
「ふふっ、冗談よ。……本当はね、すっごく嬉しいの。わたくしの家族の事を、自分の家族のように接してくれて。昨日王様もお父様の事を義父上って呼んでくれたし、とても幸せな事だわ」
そう言ってふわふわ笑っていると、オーリムは目元を和らげてはにかんでいた。目を少し伏せて、嬉しそうな声音で気持ちを口にする。
「……俺、孤児で親がいないだろ? セイドに居た頃、村で親子の姿を見ると、羨ましくてしょうがなかった。結局俺の手を引いて歩いてくれたのはフィアだったけど、親って憧れだったんだ。だから、義理でも俺に親が出来て嬉しい」
そう言って満面の笑みなんて浮かべるから、思わず涙ぐんでしまった。幸せそうなオーリムの表情が嬉しくて、でも今この時、王鳥が居てくれないのがとても切ない。
「フ、フィアっ」
「なあに?」
コツンと、額同士が優しく触れ合う。王鳥がよくするキスの代わりだと思い出し、心臓が止まるかと思うくらい驚いてしまった。
でも覗き込んだ彼は真っ赤で、オーリムだとわかってしまう。これはこれでもちろん嬉しいが、珍しい事態にポカンと惚ける。
バッと引き離されると、クルッと背を向けられてしまう。見える耳が真っ赤だ。
「……珍しい」
「お、王が居ないから! 二人しかいないのにするのは抜け駆けみたいでなんか違うし、これが代わりだって言ってたからやってみたが、その、照れるな……」
そう言ってはぁーと悩ましげな吐息をもらして、しゃがみ込んでしまった。至近距離で見つめ合うからか、オーリムにはまだ刺激が強いようだ。
「ふふっ、でもラズくんからされるのも嬉しい。……ちょっとだけ、王様が帰って来てくれたって期待してしまったわ。わたくしったら酷い女ね。今はラズくんとの時間を楽しめばいいのに、王様の事ばかり考えているなんて」
少し申し訳なさそうにそう言うと、オーリムは肩越しにソフィアリアを見上げ、立ち上がるとギュッと指先を握ってくれる。
「他の男は絶対許せないけど、王ならいい。……勝手に距離をとってフィアの関心を独り占めするなんてズルいから、さっさと連れ戻してこないとな。俺の事も見てくれないと困る」
「ね。……そうだわ! 明日の夜会が終わったら、また三人で正装で夜デートをしましょう? お土産のセイドベリーがまだたくさん残っているから、またあの時みたいにスティックパイを作るわ」
なかなかの名案ではないだろうか。ついでにハンカチもその時に渡したいなと思いつつ、パンっと手を合わせてふわりと微笑めば、オーリムも嬉しそうに目を蕩けさせて笑ってくれた。そして大きく首肯する。
「ああ! 楽しみだ」
「ふふっ、張り切って用意しておくわ。……さて、そろそろ時間ね」
少し名残惜しいが、今日はここまでのようだ。眉尻を下げて淡く笑えば、オーリムも残念そうに短く息を吐く。
「もうか。でも本拠地を特定したから、出動する事自体今回で最後になると思う。明日は夜会だしゆっくり寝ていい……あまり眠れてないんだろ?」
そう言って心配そうに見つめられ、目を見開く。けれどこれは違うのだ。心配してもらう必要はない。そう思って首を横に振った。
「眠れていない訳ではないの。ちょっとやりたい事があったから、少し夜更かししてしまっただけで。でも、夜会に参加するのに睡眠不足はダメよね。わかったわ、今日で最後にしましょう」
その最後の日に王鳥と過ごせないのはとても残念だと思った。そう思った事を見抜かれたのか、オーリムも苦笑する。
「王こそ、俺達を煩わせているな」
「思い返せばわたくしは、この朝の時間は二人に甘えてばかりだったわ。ごめんなさいね、わたくしの方こそ出動する二人を励まさなきゃいけないのに。自分が情けないわ」
「俺はむしろ嬉しかったから気にしないでくれ。いつも頼ってばっかだから、フィアに甘えられると自分がしっかりしたような気分になって、調子に乗れた。だから、その、困った時はまた相談してほしい」
そう言って照れ臭そうに頰を掻くのだから、ソフィアリアもだんだん甘えたになるのだ。
もうすぐ結婚するのだからよりしっかりしなければいけないのに、この大屋敷に来て半年、すっかり気が緩んで堕落しているような気がする。
頰に手を当て、悩ましい溜息を吐いた。
「ラズくんがそうやってわたくしにとても甘いから、すっかりダメな子になっている気がするわ」
「一日中この大屋敷の事を考えて動いている今でか……? そう言うなら、今までが気を張り過ぎだ。それに、抜け過ぎると王が強制的に引き締めにくるから、俺は甘いくらいがちょうどいいんだ」
「そう。なら、やっぱりわたくしには二人とも必要ね」
そう言って笑顔を浮かべれば、オーリムも安心したように笑って頷いていた。
早朝過ごす最後の日。ソフィアリアの心はたしかに希望に満ち溢れていて、三人で過ごす幸せな明日を信じて疑わなかったように思う。
だから王鳥があんな事をするなんて、思いもよらなかったのだ。
三人並んだ名前は、やがて二つに割れていく。二人と一人に割れていく。
その時、ソフィアリアは――




