初恋のやり直し 1
「おはようございます、ラズくん」
まだ薄明るい程度の早朝。玄関ポーチで王鳥に朝の挨拶をして戯れていたソフィアリアは、待ち人がやってきたのを見て、ふわりと微笑んだ。
オーリムもソフィアリアの声を聞き、こちらを向いて目元を和らげようとしたが、その前にギョッと目を剥く。
「フィ、フィアっ⁉︎ そんな格好で外に出るなっ!」
「もう一度寝るのだから、はしたないけど許してくださいな」
ソフィアリアの格好は、ネグリジェの上からストールを羽織っただけだった。たしかに人前に出るのは憚られるが、着ているものは厚手だし、このくらいは許して欲しい。
オーリムは眉間に皺を寄せソワソワしているが、時間が勿体ないので気にしない事にした。今日からしばらくこの時間くらいしかゆっくり話す事が出来なくなるのだから、時間は有効に使いたい。
「わたくし、訓練くらいしか見た事がないし武術の心得なんてないけれど、ラズくんがとてもお強いというのはなんとなく理解出来るわ。だから負けや失敗なんて心配していないの」
きっぱりとそう言い切ると、オーリムはふっと表情を崩し、柔らかく笑ってくれた。嬉しそうなこの表情が、ソフィアリアはとても大好きだ。
「武器を持つ人に一切怪我をするなというのは難しいかもしれないけれど、出来れば無事に帰ってきてくださいな。わたくしはここで、王様とラズくんが帰ってくるのをずっと待っているわ」
「ああ、勿論」
「ピピー」
その返事に安心感が広がって、ふわりと微笑む。思わず頰に手を伸ばしてグイッと顔を引き寄せると、爪先立ちをしてチョンッと左頬に口付けた。
目を見開いて固まっているオーリムを放置して王鳥にも屈んでもらうと、右頬あたりに同じようにキスを贈る。王鳥は機嫌よく鳴いて、すぐに右頬にキスを返してくれた。
「ラズくん、早くお返しをくださいな」
いつまでもこうしている訳にもいかないので袖を引っ張って催促をする。オーリムはハッとして、おずおずと左頬に唇を当てる。頰へのキスは照れが強いらしく、まだ一度しかした事がないのだ。
見つめ合ったオーリムは耳まで真っ赤で、ソフィアリアも顔が赤いだろう。王鳥はスリスリとソフィアリアで頬擦りを楽しんでいるし、朝から伴侶と婚約者らしい、いい時間を過ごせているのではないだろうかと、ニマニマしそうになる表情を必死に引き締めた。
「ふふ、いってらっしゃいませ、二人とも」
「……いってきます」
「ピィー」
手を振って見送ると、どこか夢見心地のオーリムは踵を返して別館に向かおうとする。だが、五メートル程進んだ所で、ピタリと足を止めた。
「……ラズくん?」
「俺、フィアのいってらっしゃいとおかえりの言葉が好きだなって今気がついた」
背を向けたままそんな嬉しいことを言うのだから、パッと瞬間的に笑顔になる。ふわふわした気持ちのまま、言葉を返した。
「見送るのは少し寂しいけれど、おかえりなさいって言うのはわたくしも好きよ。二人が帰ってくる場所になれているんだって実感出来るもの。だからわたくし、楽しみに待っているわ」
「ピィ」
「そ、うか。うん、俺と王の帰る場所はフィアの隣だ。……今度こそいってきます」
少し声を上擦らせて、オーリムは駆けて行ってしまった。あれは照れているのだろうかとくすくすと笑う。
王鳥は振り返ってじっとソフィアリアを見つめていたので、ソフィアリアも笑顔を返し、手を振る。王鳥も満足そうに目を細め、飛んで姿が見えなくなってしまった。
そうしてしばらく手を振って、二人を見送ったのだった。
*
両親と妹と朝食を摂った後、ソフィアリアは三人にこの大屋敷を案内した。
プロディージとメルローゼは昨夜キツい事を言ったので拗ねているらしく、食堂には来なかったのだ。
プロディージは先に食べ終えて書庫で勉強を、メルローゼは部屋に閉じこもっているらしい。書庫の案内中にうっかり鉢合わせて睨まれたプロディージはともかく、メルローゼはあとで様子を見に行こうと思う。
本館と中庭を案内した後は、父は中庭のセイドベリーの畑の様子を見に行きたいらしいので案内する。父は昔から畑仕事が好きで、自分で植えて庭師に育て方を教えたいらしい。つくづく貴族に向かない人だなと思う。
庭師の方々はソフィアリアの父とはいえ貴族相手と戦々恐々としていたが、父は貴族らしくないのですぐに打ち解けていた。
セイドベリー用の畑は結構な広さを用意してくれたらしく、苗も種もたくさん持ってきてくれたので、今から実る日が楽しみだ。この大屋敷に住むみんなにもぜひ美味しいと言ってもらいたい。
母には使用人数名と別館に住む鳥騎族の身内のご婦人を紹介して、紅茶の淹れ方と刺繍教室を開いてもらった。
なんて事はない。ようはただののんびりしたお茶会である。自由行動させると使用人の手伝いを始めそうなので、そういう役目を与えておく事にしたのだ。
母の淹れる紅茶は絶品で、刺繍も売り物にすれば即日完売するくらい大得意なのだ。それを伝えて希望者を募ったら結構人が集まったので、退屈させないと思う。侍女のパチフィーを筆頭に年齢も性格も近い人が集まってくれたから、いい交流会が出来るだろう。一応、お茶会の主催は貴族夫人の嗜みである。
妹のクラーラは今日も今日とて大鳥を見に行っている。専属でつけた侍女のベーネ曰く、見た目はソフィアリアそっくりなのに、めちゃくちゃ元気ですねと笑われた。あの子はとてもお転婆なのだ。
しかも大鳥と打ち解けて遊んでいるらしい。見た目がソフィアリアそっくりだから大鳥も気になるのか、クラーラの人柄なのか。まあ、楽しいなら良しとしよう。
ふと、クラーラが鳥騎族に選ばれたりしないだろうかと少し心配になった。オーリムは今まで女性の鳥騎族は選ばれていないと言っていたし、最年少は数百年前に居た十三歳の男の子だと言っていたので大丈夫だと思うが、気になるので王鳥とオーリムに聞いておこうと頭の片隅に入れておく。
という訳で、手の空いたソフィアリアはお菓子を持参してメルローゼの部屋へとやって来た。コンコンコンと三回ノックして、扉の前で待つ。
「あら、ソフィ様?」
「おはよう、モード。メルの様子はどうかしら?」
応対に出てくれたメルローゼ付きをお願いしたモードにそう尋ねるも、困ったように笑うだけだった。それだけである程度はお察しである。
「そう。なら、わたくしがなんとかするわ。お邪魔するわね」
「あっ、ソフィ様っ!」
少し強引だが、引き下がる訳にはいかないので遠慮なく押し入る。慌てさせてしまったモードに心の中で謝りながら、寝室をノックもせずに入っていった。
「メル? メルちゃ〜ん? もうっ、お寝坊さんねぇ」
「誰のせいだと思っているのよっ! 馬鹿っ‼︎」
少し戯けた感じでベッドを覗き込んでみたのだが、怒られてしまった。けれど無視をされなかっただけ上々だろう。
怒りを抑えきれない表情をしていて、とりあえずそれだけ元気ならまだ大丈夫だなと一安心した。
この子は落ち込み過ぎると、しばらくは何もしなくなるのだ。プロディージとの喧嘩で何度か経験したが、あそこまで落ち込まれると慰めるのに一週間以上かかる。そうなるともう手の施しようがなくなるので、よかったと思った。
「わたくしのせいかしら?」
笑みを浮かべたまま小首を傾げて、じっと返事を待ってみる。眉を吊り上げて睨んでくるメルローゼは、だがだんだんと眉を八の字に下げて、ベッドの上で膝を抱えて顔を埋めてしまった。
「……私とディーのせいよね」
「ふふっ、不正解。……わたくしのせいでいいのよ。だってどうにか出来たのに何もせず、二人を引き裂いたのは間違いなくわたくしだもの。だから好きなように罵ればいいわ」
別にそれは間違いではないのだ。真意に気付くかどうかは本人次第だが、ソフィアリアは二人を引き裂いたのだから、気が済むまで怒ればいい。溜め込んだものを吐き出してすっきり出来るのなら、そのくらいお安い御用だ。
ふわふわとした巻き毛を撫でると、膝を抱えた体勢のままぼんやりした暗い瞳をこちらに向けてくる。
「……なんであんな事言ったの?」
「二人を引き裂きたかったからよ」
「だから、それが何でなのって聞いているのよっ‼︎」
たとえ怒りだろうが、威勢がいいのはいい事だ。バンっとベッドを平手で打ち付けるメルローゼのその手を取って、両手で包み込む。
「物に当たるのはやめなさい。可愛い手が腫れてしまうわ」
「話を逸さないでっ!」
「そんな事自分で考えなさい」
そう突き放すと目を見開いて、傷付いたような表情をするから言いたくなかったのだ。
その話はこれでおしまいと言わんばかりに話を打ち切ると、昨日と同じように両頬を手で包み込み、言い聞かせるように淡々と言葉を口にする。
「ねえ、メル。わたくし達は八年間、ずっと三人一緒に過ごしてきたわね? 一緒に勉強して、一緒にセイド領と商売の事を考えて、一緒に遊んで……。とても幸せだったわ」
「……お義姉様?」
「でもわたくし達はもう三人には戻れないわ」
途端、くしゃりと表情を歪ませる姿が愛しかった。
メルローゼは言っていた。ソフィアリアは変な所に嫁ぐのが目に見えていたから、いずれ出戻らせる気だったと。
あれは本心で、多分今もそうしたがっているのだろう。ソフィアリアがここで幸せに過ごしていると知っても、まだどこか諦めきれていない。メルローゼ最大の甘えはこれなのだ。
「わたくしはここで王様とリム様と幸せに暮らすのだから、もうセイドには行けないわ。そう決めたのよ」
「……お義姉様にとってセイドはもう、帰る所ではないのね……」
「ええ。わたくしの帰る場所はこの大屋敷で、王様とリム様の隣よ。だからメルももう一度、わたくしの居ない未来を考え直さなければいけないわね」
「……もう三人の道はバラバラになってしまったのね……」
ポロポロと大粒の涙を溢すメルローゼの言葉には、何も返さなかった。ソフィアリアが抜けた二人の道に、もうソフィアリアが介入する事はない。
一度離れて俯瞰して、自分達で決めて欲しいと願っている。ソフィアリアの望みはあるが、それを押し付けていい訳がないのだ。
ソフィアリアはふっと笑みを浮かべた。
「ねえ、メル。今日は天気がいいわ。気分転換の為に外で朝ごはんを食べましょう? 中庭のガゼボは大鳥様の魔法でこの季節でも中は常春なのよ。せっかくだから体験しに行きましょうか?」
立ち上がって、強引に両手を引き上げる。力をなくしたメルローゼはソフィアリアのなすがままだ。
――ソフィアリアは今から最低な事をしようとしている、そんな思惑に当然気付く事はなかった。




