愛情の歪み 1
『白い薔薇なんかよりもさ、君はこっちの赤い薔薇の方が似合ってるよ』
どういう話の流れだったかはもう覚えてないけれど、くりっとしたルビー色の目を持つ女の子の髪に、赤い薔薇を一輪刺した事だけは、今でもはっきりと覚えている。
キャンキャン喚きながら泣く声がうるさくて、泣き止ませようとしたんだったか。
そうするとその大きな目を限界まで見開くのだから、目玉が落ちてしまわないかとヒヤヒヤした。
天使の輪が浮かぶ艶やかな黒髪に赤い薔薇が映え、白一色のふんわりとしたドレスを来た女の子はさながら――
『うん、なんか花嫁っぽい』
無意識に声に出してしまい、お互い真っ赤になって視線が逸せなくなった。この家の侍女達は二人を遠巻きに見て微笑ましそうに笑っているだけだし、硬直したまま、どうしたらいいのかと途方に暮れる。
『……だったら一本じゃなくて百八本贈りなさいよ』
ボソリと言った遠回しなその言葉に、はたしてなんと返したんだったか。
ああ、そうだ。確かこう返したんだった。
『は? そんなの買うお金があったら数ヶ月分の家族の食費にするけど? それだけあれば毎日おやつだって食べられるし』
当然なのだか、色気もへったくれもないそんな暴言にむず痒い雰囲気は一瞬で霧散する。
『は、はあっ? なんで食費なのよっ⁉︎』
『うるさっ。花なんかと違って毎日必要なものだから当然だけど?』
『なんかっ⁉︎ だいたい薔薇を買ったくらいで食事も食べられないって、どんな生活してるのよっ!』
『どうでもいいじゃん。何? 客のプライベートまで根掘り葉掘り聞き出さなきゃいけない訳? あーあ、来る商会間違えたかな』
『そ、そういうのじゃないからっ! うちを馬鹿にしないでっ‼︎』
『品位を下げてるのは君だよね。商会の娘ならさ、もっと口には気をつけなよ。君の足りない頭で商会を潰したいの?』
『そんな訳ないじゃない! だいたいね――――』
そこからますます激しい言い争いになり、お互い止まらなくなってしまったのだ。
けれど言い争いをしながら、いつか領地がまともになったら、望み通り贈るのも悪くないなと思っていた。
百八本の赤い薔薇の意味なんて知らなかったし、用事が済んだのでここに来る事は一生なかったはずなのに、無性にそうしたいと思ってしまった。どこか幸せを感じるのが悔しくて、言葉で覆い隠す事にしたのだ。
何故そんな事をしたかと言うと、当時、どうしようもない悪魔が取り憑いていたせいだと思う。その悪魔のせいで自分は、性格が捻じ曲がってしまったのだ。
『あれ? プーくんがかわいいお人形さんとあそんでるー!』
――無邪気を装って人を惑わす、姉の姿をした最低最悪な悪魔のせいで。
*
「ロディはね、生まれた時から愛情に飢えた子だったの」
夜空の下、空の散策を楽しみながら、王鳥もオーリムもソフィアリアの言葉に耳を傾けてくれていた。
少し弱々しい声を出したからか、オーリムは抱えてくれている腕をいつもより強く引き寄せてくれて、ソフィアリアはそんな彼の優しさに遠慮なく甘えて寄り掛かる。
「お祖父様はわたくしにしか興味がなかったし、両親はロディにも愛情を注いでいたけれど、それ以上に領地を食い潰すお祖父様とわたくしに気を取られていたのですって。だから子供の頃に受けるはずの愛情を根こそぎ持っていくわたくしの事が、誰よりも憎かったのよ」
「何故フィアに? 恨むべきは、愛情を与えてくれない祖父と両親だろ」
「そう思う人もいるのだけれど、同じ立場の子供であるはずなのに、自分とは違って多くの愛情と関心を向けられるわたくしに嫉妬したのでしょうね。それは仕方ないと思うわ」
そう言うも解せないと言わんばかりに首を傾げるオーリムは、恋愛事以外にあまり人に嫉妬心を抱かないのかもしれないなと思った。
オーリムの周りには秀でた才能を持つ同年代の男性が多くいるが、羨ましいと思ってもそれが高じて妬ましいとまでいく姿は、見た事がない気がする。
羨ましければそうなれるように努力すればいいと自己を高める方向に思考が行くのだ。他者に嫉妬する状況は理解できるが、ソフィアリアもどちらかというとオーリムと似たようなタイプなので、気持ちはわかる。
「身内から愛情をあまり受けられないまま育ってもうすぐ六歳になるという日、お庭で遊んでいたロディは、柵の向こうから自分を呼ぶ老夫婦についていったの」
「危険ではないか?」
「今ならそう思うけれど、当時はそんな事すら教えてくれる人は居なくて、ロディも誰も構ってくれる人の居ない屋敷から逃げ出したかったのだと思うわ」
そう思ってしまうくらい、プロディージはたった一人きりで寂しい幼少期を過ごしていた。
「だから自分を気に掛けてくれた人について行った。幸い、声を掛けた老夫婦――後の先生達は善人で、夕方には屋敷に送り届けてくれたから、ロディが外に出た事に誰も気付かなかったみたいだけど」
「それでますます捻くれた?」
「ええ。いっそ気が付いて叱ってくれた方が、ロディは嬉しかったのでしょうね。多分その日から、ロディは両親を保護者として見限ってしまったの」
そう言うとオーリムは眉根を寄せる。ソフィアリアの両親は頼りないだけの善人で、見限られるような人だとは思っていないのだろう。
プロディージだって両親の事は別に嫌いではないのだ。嫌いではないが、プロディージの期待に応えられる親ではなかったと見切りをつけてしまった。だから昔から、プロディージは両親を親ではなく、自分の庇護下にある領民だと思って接している節がある。
だからここに来た時も、真っ先に挨拶に来たのだ。本来ならば父が担わなければならない挨拶と家族の紹介を、当然のようにプロディージが行った。……まあ父にああいう役割は荷が重いというのも、大いにあるのだが。
「……俺からすれば、ロディは贅沢だ」
「ラズくんにそう言われるのは仕方ないけれど、側に居るからこそ、期待してしまうのよ。居なければ期待なんて出来ないもの。……その日から先生達はロディに、時期領主となれるよう毎日勉強を教えてくれたわ。そして出来ればうんと甘やかして褒めてくれた。誰でもいいから愛されたかったロディはもっと褒めてもらいたくて、勉強にのめり込んでいったの」
それは、プロディージにとってもセイド領にとっても何よりもいい転機だったのだろう。セイドの嫡男であるプロディージには勉強が必要で、愛情も必要だった。
ソフィアリアがのうのうと祖父と遊んで暮らす頃、プロディージはそうやって一生懸命頑張っていたのだ。
「ロディがお祖父様にした事は聞いた?」
「ああ。祖父を始末したのは自分だと話していた」
「そう……。それね、本当は教育してくださっていた先生の提案で、次期領主として備えておきたい情報操作と人心掌握術の練習でもあったの。……けれど当時のロディはまだ六歳で、人を介したとはいえ自分の手で身内であるお祖父様を殺してしまった事実は、無意識のうちにロディの中の歪みをますます大きくしてしまったのでしょうね」
貴族の当主ともなれば、ある程度の非情さも必要だ。平穏な男爵なら不要だったのかもしれないが、セイドは荒廃寸前で、またその根源は早急に断たなければならなかった。
とはいえ当時は苛烈な事を覚えるにはまだ幼過ぎる六歳の子供だ。
本人は祖父が嫌いだったし何ともないと言っていたが、たまに見せる仄暗さを知るソフィアリアはそうは思わなかった。
きっとそれも、プロディージの中の歪みを強くしてしまった原因の一つなのだろう。
「ロディはお祖父様と一緒にわたくしの事も始末しておきたかったのよ。それがさっきの発言の意味」
「フィア」
「いいのよ。当時のわたくしと今までの道のりを考えたら、そう思われるのは仕方のない事だわ」
くしゃりと痛そうな顔をするオーリムの肩を慰めるように頬擦りする。オーリムは手慰みにソフィアリアの髪を梳いて、気持ちを落ち着かせようとしていた。
「お祖父様がいなくなった後、わたくしも両親とロディと暮らすようになったけれど、わたくしを救出しても両親は領地をなんとかする事で手一杯で、あまり子供を構う余裕はなかったの。ロディに見限られている事もあるし、両親は今でもその事を悔やんでいるわ。……でもね、ここに来てロディはようやく、身内からの無償の愛情というのを得る機会がやってきた」
ふっと自虐気味に笑って遠くを見つめる。プロディージにとって待ち望んだそれは、けれど本人にとっては悪夢としかいいようがなかったようだ。そんな事、当時は考え付きもしなかった。
「……フィアか?」
「ええ、そうよ。ラズくんは昔のわたくしを知っているでしょう? 人の気持ちなんて考えもしない、悪意のないという悪意で染まりきった無邪気な子供。わたくしは初めて出来た弟というものを可愛がり、構い倒したわ」
今まで人と接したのは祖父だけだったソフィアリアにとって、同じ色の髪と瞳を持つ弟という存在は、好奇心を刺激するには充分だったのだ。
しばらくは遠くからニコニコ眺めているだけだったが、一緒にクッキーを食べたあの日に初めて話しかけて、それからは姿を探しては構い続けた。
プロディージは鬱陶しかったかもしれないが、ソフィアリアにとってはいい思い出なのだ。当時を思い出して、表情が綻ぶ。
「フィアの無邪気さに救われる奴もいた」
「ふふっ、ラズくんにそう思ってもらえただけで充分よ。……でもロディは違ったの。ロディにとってはお祖父様と同罪だった憎んでいる姉で、当然嫌っていた。向けられる目には常に侮蔑と殺意がこもっていて、態度も攻撃的だったわ。けれどわたくしはそれに気付かず、何をされても笑って、気にせずに構い続けた」
始まりはこれなのだ。何もわかっていないソフィアリアはここから間違いを犯し続け、今回二人を引き裂く原因になってしまった。
「嫌っている相手から何よりも望んだ身内からの無償の愛を与えられるという、相反するものを一度に受けたロディは、心が悲鳴をあげてしまったのでしょうね。怒ればいいのか喜べばいいのか分からずずっとピリピリしていて、そして酷い態度をとっても変わらない愛情を無理矢理与えられた結果、相手に酷い態度をとっても変わらず愛情が向けられるかどうかで、人を試す事を覚えてしまったの」
それが今回の大元で、プロディージという人間の性格を語るうえでの最重要事項だ。……そしてそうしてしまった原因は、やはりソフィアリアにあった。
そう言ってもオーリムはピンと来ていないらしい。眉根を寄せ考えるも理解が出来ず、首を傾げて困っていた。
「愛情を確かめる為に、酷い態度をとるのか?」
「ええ、そうよ。ロディはね、対等を願った相手には辛く当たっても愛情を示してくれるかで、相手から向けられる愛情を測ろうとしてしまうの。辛く当たって去っていけばそれまで。言い返されたり笑って許してくれる相手だけを側に置こうとする。辛く当たってしまうのもロディにとっては対等を望んでますよって愛情表現のつもりなのよ」
子供の試し行動のようなものね、と困ったように笑う。
捻くれていたり嫌味な性格は別にいいと見逃したが、この悪癖だけはソフィアリアが嫁ぐ前にどうしても治してあげかったのだ。でなければ相手も本人も傷付く事になるのは目に見えていた。
けれど子供の頃にしっかりと根付いたものだからなかなか変わる事はなく、結局何年かけてもどうする事も出来ずに今に至る。ソフィアリアに出来た事は、痛い目を見る前に自分を抑えなさいという忠告だけだった。
そしてその忠告は結局意味を成さず、こうしてメルローゼを最悪な形で傷付ける事になり、プロディージ本人も傷付いている。
「これがセイドの領民だったり両親だったり妹だったり、自分の庇護下にいると判断した相手だと素直に優しくするから、余計拗れてしまうのよ。好きであればある程辛く当たるのに、そうではない人には素直なのだから、誰だって不安になるし、愛想も尽きるわよね」
そう言って落ち込んでしまったソフィアリアを見ながらオーリムは何かを考えている様子だったのに、遠くを見ていたソフィアリアはそれに気付く余裕はなかった。




