騎士の矜持⑤
リーナを何とか救出して水面に浮かび上がったエマだったが、筋肉を無理に使ったことで全身を貫く激痛とともに足が攣り、体が硬直して身動きができなくなった。それでも1人なら何とかなっただろう。しかし、今はリーナが一緒だ。そのリーナは気を失っているようだ。足を動かせない体はこれ以上浮かんでいることが出来そうもない。
(ダメ…、沈む…)
深い淵の底に向かって沈むエマ。既に苦しさを覚える事もなく気が遠くなってきている。水面に反射する日の光がキラキラ輝いて天国のように思える。エマから離れたリーナは流されながら沈ん行くのが見えた。
(リーナさん。助けられなくてゴメン…ね…)
エマの視界が暗くなる。閉じた瞼の裏に最近気になる男性の顔が浮かんだ。こんな形でお別れし、会えなくなると思ったら心が痛くなった。閉じた瞼から涙が溢れるが直ぐに川の水に混じってしまう。彼に別れの言葉を言うと、エマの意識は闇に飲まれていった。
「やべぇ! 2人とも沈んじまったぞ!」
「レドモンド、お前はリーナを頼む! オレはエマ先生を助ける!」
「おう! 絶対に2人とも助けるぞ!」
リーナとエマは淵の真ん中付近で沈んだのが見えた。あの辺りは最も深い場所で水深4~5mはあるとキャティが言っていた。早く助けないと2人が溺れ死んでしまう。レドモンドとエドワードは瀬と淵の境界まで全力で走ると、大きく息を吸って淵に飛び込んだ。平泳ぎのように手足を動かして底に向かって進むと間もなく川底に沈む2人の姿を見つけた。さらに、肉の匂いを感じたのか川ガニが2人に群がり始めている。
(ヤベェ!)
2人は急いで彼女たちに近づくと群がる川ガニを手で払って体をだき抱えた。リーナとエマは気を失っているため全身の力が抜けており非常に重く感じるが、それでも鎧泳法で鍛えた彼らは何とか水面に向かって泳ぐ。疲労で手足が鉛のように重くなってくるが彼女らを助けるため必死に手足を動かした。そして…。
「ぶはぁ!?」
「大丈夫か、リーナ! くそ、息をしてねぇ!」
レドモンドが浮かび上がり、リーナに呼びかけるがリーナからの返答はない。真っ青な顔をしてぐったりしている。続けてエドワードが水面に浮かび上がった。
「おい、エマ先生! おい、返事をしろ!!」
「ダメだ。こっちも意識がない。岸に上げよう」
レドモンドとエドワードはリーナとエマを浅瀬まで運び、様子を見ていたキャティとアリシアに手伝ってもらって2人を川から引き上げ、河川敷の砂浜部分にシートを広げさせて2人を寝かせた。真っ青な顔のリーナとエマを見てキャティが不安そうに聞いてきた。
「ねえ、2人は大丈夫なの?」
「非常にマズイ状況だ。2人とも息をしてねぇ」
「大変!? どうすればいいの!」
「エマ、しっかりして、エマ!」
キャティとアリシアは寝かされている2人の頬をぺしぺしと叩くが全く反応しない。川から引き揚げてから既に5分は経過している。このままではまず助からない。そのとき、エドワードが何かに気づいたようにレドモンドに声をかけた。
「おいレドモンド、アレだ。アレをやってみようぜ!」
「ア、アレ? アレってなんだ?」
「忘れたのかよ! アレっていえばアレだ。ダンジョンに潜る前、ユウキ様が緊急時の救急救命方法について教えてくれただろ。ユウキ様も以前それで息が止まった女の子を助けたことがあるって言ってただろーが。思い出せ!!」
「…………。あ、ああああ! 思い出した! アレか!!」
「そう。アレだ」
『人工呼吸と心臓マッサージ!!』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今からリーナとエマ先生を助ける最後の手段を取る。みんなのタオルを貸してくれ」
「最後の手段って? それで助かるの?」
「わからねぇ。オレたちも初めてやるんだ」
「そんな…。助かる確率は低いってこと?」
「ああ。だが、何もしないよりはいい」
「お兄ちゃんたち、タオル持ってきたよ」
「サンキューな」
「リーナちゃんとエマ先生、助かるの?」
「全力を尽くす。みんなは神様にお祈りしててくれ」
レドモンドとエドワードは受け取ったタオルを折り畳み、それを何枚か重ねてリーナとエマの首の下に敷くと、頭を下げて口を開けて気道の確保をした。キャティたちは一体何が始まるのかと不安そうな顔で見守っていると…。
「フーッ、フーッ、フーッ」
「キャアアアーッ! 一体何するの!? 止めなさい!」
レドモンドはリーナ、エドワードはエマの鼻をつまみ、空気が漏れないようにして口に自分の口を押し付け、勢いよく空気を吹き込んだ。しかし、その行為は人工呼吸を知らない人が見ると、無抵抗の人間の唇を無理やり奪っているようにしか見えず、キャティは悲鳴を上げて止めようとし、アリシアは真っ赤になった顔を手で覆い、子どもたちはキャーキャー騒ぎ出した。しかし、当の本人たちは周囲の声や喧騒を無視して、肺に空気を送った後は手のひらを重ねて胸の真ん中に置き、強い力で心臓を圧迫すると口から空気を送る。
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご!」
「フーッ、フーッ、フーッ!」
レドモンドとエドワードは何度も何度も同じ行為を繰り返す。いつしかキャティもアリシアも子どもたちも黙り込んで事の成り行きを見守っている。彼らの行動が何を目途としているかはわからない。ただ、命の灯火が消えようとしているリーナとエマを助けるためにしている事だとは理解していた。
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご!」
「フーッ、フーッ、フーッ!」
「くそッ、戻ってこい!!」
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご!」
「フーッ、フーッ、フーッ!」
「まだか! まだ息を吹き返さねぇのか!!」
人工呼吸と心臓マッサージを始めてからどの位時間が経過しただろうか。レドモンドとエドワードの腕は疲労で棒のようになり、全然力が入らない。また、何度も息を吹き込んだため肺が苦しく酸欠状態になってきた。それでも一縷の望みをかけて蘇生作業を続ける。苦しそうな2人を見兼ねたキャティが声をかけた。
「もういいよ。もう止めよう。このままじゃ2人も倒れちゃう。リーナとエマは可哀そうだけど、君たちは十分手を尽くしたよ…」
「まだだ! オレは絶対に諦めねぇぞ! くそ、リーナッ早く戻ってこい!!」
「そうだ! ここでエマ先生を見捨てたらオレは一生後悔する。助けを求める女を助けられない…。そんな思いはもう二度としたくねぇ!!」
「ふたりとも…」
「エドワードさん頑張れっ! エマを助けて! お願い、頑張って!!」
「アリシア…」
「おじちゃん、リーナ姉ちゃんを助けて! ガンバレ、ガンバレーッ!!」
「みんな…。そうよ…。2人が頑張ってるのにあたしが諦めちゃってちゃダメじゃん。警備隊員のあたしが救わないでどうするの。傍観者じゃダメじゃんか!」
キャティはリーナの頭の前に膝まづくとぺしぺしと頬を叩いて呼びかけ始めた。それを見てアリシアもエマに対して同じように頬を叩いて大きな声で呼びかけ始めた。子どもたちも一斉にリーナとエマの名前を叫び始める。そして…。
「ぐっ…げほっ、げほげほ…がはっ…」
急にリーナが咳込み始め、口から水を吐き出した。次いでエマもゲホゲホと水を吐き出し始めた。レドモンドとエドワードは水が気管と肺に入らないよう、キャティたちに手伝ってもらってリーナとエマの顔と体を横向きにした。ゲホゲホと飲み込んだ水を吐き出したリーナとエマはヒョーッと笛のような音を出して大きく息を吸い込み、ゲホゲホと咳込みながら息を吐き出すと、その後は自立呼吸を始めた。息を吹き返したリーナとエマを見てキャティとアリシアは手を取り合って喜び、子どもたちも歓声を上げた。一方、蘇生行為で疲労困憊のレドモンドとエドワードは地面に尻を着き、体育座りをして大きく息を吐いた。
「はぁ~。よかった…」
「全くだぜ。よく戻ってきてくれたよ」
「蘇生術を教えてくれたユウキ様に感謝だな」
レドモンドとエドワードは二カッと笑うと、がっしと手を握り合った。やがて、ソルが呼んできた警備隊員や大勢の大人たちの声が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「う…うう…」
「リーナ! 気が付いたのね。ああ、よかった…」
「おかあさん…? ここは…あれ? あたしの部屋…」
「そうよ。あなたの部屋よ」
「あたし、どうしてベッドで寝てるの…?」
「リーナ、あなた川で溺れたのは覚えてる?」
「う、うん…」
「あなた、川から助け上げられた時、息と心臓が止まっていたそうよ」
「えっ!?」
「レドモンドさんが、人工呼吸と心臓マッサージとかいう方法で助けてくれたのよ」
「レドモンドさんが?」
ルシアは優しく頷くと、キャティから聞いたリーナが助け上げられてからの経過を話して聞かせた。助けに入ったエマともども溺れてしまったこと、特に人工呼吸と心臓マッサージの部分は念入りに説明した。聞いているうちにリーナは真っ赤になって毛布を頭からかぶってしまった。その様子にルシアは「うふふ」と笑う。しかし、その蘇生法を知る者が、レドモンドとエドワードがいなければリーナは死んでいた。こうして笑うこともできなかったろう。ルシアは2人がこの村にいたことを心から神に感謝するのだった。
リーナがおずおずと恥ずかしそうに毛布から顔の半分を出した。ルシアは優しく頭を撫でた。
「…ねえ、お母さん」
「なぁに?」
「あたし、変なんだ?」
「なにが?」
「あのね、レドモンドさんのことばっかり気になっちゃって、いつも目で追っちゃうの」
「……………」
「あとね、レドモンドさんが女の人と話していると、何故かイライラしちゃって、悲しくなっちゃうの。どうしてなのかな…。こんな気持ちになったの初めてなの」
「そうなのね。ふふっ」
「お母さん?」
「それはね、リーナ。あなたが恋をしてるからよ」
「恋? 恋…。そう…なのかな…」
「うふふっ。リーナも恋するお年頃になったのね。お母さん嬉しいわ」
「うん。あたし、レドモンドさんの事が…好き。ねえ、お母さん。あたしの恋って叶う?」
「リーナの恋、成就するのはちょっと難しいかな」
「どうして?」
「レドモンドさんは、たまたまこの宿に来ただけのお客様。数日後にはお帰りになられるわ。それに、彼はリーナとは歳も離れている、分別ある大人の男性よ。リーナはまだ中学生。妹位にしか見てないと思うわ」
「……。うん…そう、だよね…」
「リーナ、惨いようだけどあなたの恋は実らないと思うわ。だからね、レドモンドさんがお帰りになるまでの間、思いっきりわがまま言って、たくさん甘えちゃいなさいな。そしてね、いい思い出を作ってさよならするの」
「…うう。グスッ…。ふええ…うえええん」
「思いきり泣いていいのよ。でも、泣き終わったら笑顔になるのよ。笑顔でレドモンドさんにお礼を言いなさいね。「助けてくれてありがとう」って」
「ふぇえええん。おかあさぁ~ん。うぇええん」
「よしよし、いい子ね」
泣きながら頷いたリーナの頭をルシアは慈愛を込めて、なでなでしてあげる。母の優しさが有難くてリーナは声を上げて泣くのであった。
リーナのお見舞いに来たレドモンドは、部屋の入口手前でふたりの話し声が聞こえてきたのに気付き、入るのを躊躇っていたが、リーナが自分に恋をしているという話の内容に困惑していた。そしてお見舞いの品(花束)を入口に置くとそっとその場を去った。
(リーナがオレの事を…。リーナが…。どうすりゃいいんだ? オレはあの子をどう思っているんだ? わからん)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「う…うう…ん」
真っ暗な闇から目覚めたエマは、温かい毛布と布団の感触にベッドに寝かされているのだと気付いた。自分はリーナを助けようとして一緒に溺れたはず。最後に見た光景は川底に沈む自分に手を伸ばす人影だったような…。起きようとしたが体は鉛のように重く持ち上げられない。エマは大きく息をついて天井を見上げる。
「ここは、私の部屋?」
「あ、気が付いたわね」
「…アリシアさん」
アリシアが水が入った桶とタオルを持って部屋に入ってきた。タオルを濡らして硬く絞り、エマの額に載せた。
「後遺症は…、ないみたいね。先程まで村長さんと校長先生と教頭先生がお見舞いにいらしてたのよ」
「…私、一体…」
「記憶が混乱しているのかしら。リーナちゃんを助けようとして溺れたのは覚えてる?」
「う、うん…」
アリシアはリーナと一緒に溺れたエマをエドワードが助けてくれたこと、呼吸と心臓が止まったエマを蘇生させてくれたことを話した。口と口を合わせる人工呼吸とおっぱいの下を押す心臓マッサージをされた事で茹でプルプ(たこ)のように真っ赤になるが、急にハッとしてリーナはどうなったのかアリシアに聞いてみた。
「リーナは、リーナさんはどうなったの!?」
「大丈夫、無事よ。彼女も危ないところだったけど、レドモンドさんの手で救命されて、今はお家で休んでいるはずよ」
「よ、よかった…。グスッ…」
リーナが無事と聞いて安堵したエマは思わず涙ぐんだ。アリシアは「ふふっ」っと微笑みながら「よかったね」と言ってタオルで涙を拭いてあげた。
「でも、あれだね。レドモンドさんもエドワードさんもさすが騎士よね。頼りになるっていうか、カッコいい。エマを助けようと必死だった彼、とっても素敵だった」
「……………」
「わたしが無理にお願いしたのに、イヤな顔せずに子供たちと遊んでくれた。子供たちにも優しいし、きっといいお父さんになるだろうな~。川で足を取られそうになったわたしを助けてくれて、優しくエスコートしてくれたし。話も合うし顔も好みだもん、思い切ってアプローチしてみようかな♡」
「ダメ!」
「……。どうして?」
「それは…その…。どうしてもダメなの!」
「はは~ん。やっぱりね。エマ、エドワードさんのこと好きでしょ」
「うっ…」
「譲らないわよ」
「えっ!?」
アリシアは普段のおっとりした雰囲気を消して真剣な顔でエマを見下ろす。
「こればかりは譲らないといったの。いくら友人のエマでも譲らない。エマはトゥルーズ出身で、トゥルーズ国立大学ではお付き合いしていた男性もいたって言ってたわよね。大都会で青春を謳歌していた。その話を聞いた時、心底羨ましいと思ったわ」
「だ、だから何だというの?」
「わたしはこの村生まれでこの村育ち。外に出たのは高校進学のためポーティアに出た3年だけ。それも女子高の女子寮住まいで男の子と遊ぶなんて無かった。親の希望で村に戻って役場勤めをして…。そのうち親の勧めで村の男性と結婚して、この村で一生終わるんだと、それが私の人生だと思ってた」
「だけど、生まれて初めて素敵な男性と出会った。この人なら、わたしの人生を変えてくれるかもしれないと思ったの。彼にわたしをもっと見てもらいたい。好きになってもらいたいと思うようになった。まともにお話したのは今日が初めてなのに、世間知らずのチョロい女だと思うでしょうけど、人を好きになるきっかけってそんなものだと思うのよ」
「うう…。やっぱりダメよ。わたしが先に彼を好きになったんだから…」
「……冗談」
「えっ?」
「冗談て言ったの。エマを見てたら、ちょっと意地悪したくなっちゃった。ゴメンね」
「…………」
エマはジト目でアリシアを睨む。アリシアはペロッと舌を出してウィンクすると、額のタオルを桶に入れて立ち上がった。
「もう帰るわ。ゆっくり体を休めて。あと、校長先生が明日は学校休んでいいって言ってたわよ」
「…うん。迷惑かけててゴメンね」
「いいのよ。じゃあね」
アリシアは教職員宿舎(といっても平屋で数部屋の小さなもの)のエマの部屋から出て戸を閉めた。廊下の先をふと見ると男性の人影が玄関に向かう角を曲がるのが見えた。そして、部屋の入口の脇に花束が置いてあるのに気付いた。
(エドワードさん、お見舞いに来たんだ…。話、聞かれたかな?)
アリシアは再び部屋に戻るとエマは眠ってしまっていた。花瓶に水を入れて花を飾ってから宿舎を後にした。沈みかかった夕日が村の集落の道を赤く照らしている。長い影を踏みながら家路につく。途中、立ち止まって宿舎の方を振り返り、ぽつりと小さな声で…。
「冗談…なんかじゃないのよ…」
と言って、暗くなるまで宿舎の方を見つめ続けるのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「少佐。どうです、いい村でしょう」
「ああ…気に入った」
少佐と呼ばれた、フルプレートを装備した青毛の狼獣人が尾根の頂上から、夜の帳に沈むサヴォアコロネ村を見下ろして満足そうに頷いた。その背後に控える数十人程の獣人、亜人兵も小さく笑みを浮かべる。よく見ると、彼らの鎧には「剣に狼」の紋章が刻まれていた。それは、獣人国家ウルの紋章と同じものだった。少佐に率いられた兵たちは小さく笑いながら、周囲に広がる森の闇に消えていった。




