第6話 給湯室へ
柚香と康介は、電停からへお城の周りを囲んでいる公園に入った。
入り口付近はイチョウ並木が続き、緑の葉がいい木陰になっている。
風に葉がざわざわと揺れている。小鳥の鳴き声が聞こえた。それにしても、セミの鳴き声が騒がしい。
二人は、お城への上り坂を歩き始めた。途中からは木陰が減り、残暑厳しい季節とあって、日差しが強い。
柚香はハンカチで汗を拭った。康介もたくさん汗をかいている。
「町長、大丈夫かな」
康介の呟きに、柚香が尋ねる。
「急いだ方がいい?」
「いいよ。まだまだ上り道だからね」
むっとするような草の匂いが漂う。赤い彼岸花が草むらに彩を添えている。
ギンヤンマがすうっと空を飛んでいった。
二人は大きく息をついて、一度大きな木の陰に入る。ちょうど古い木のベンチが置かれていた。
「この暑さ、やれやれだな」
康介が腰を下ろしたので、柚香もそれに倣う。すると、「みい」と鳴き声が聞こえた。
茶トラの小さな猫が草むらから出てきた。
「あ、猫」
柚香が手を伸ばそうとするが、仔猫はそのまま康介の足元に寄っていく。康介は慣れた手つきで背中を撫でた。
猫は康介の足元に顔をこすりつけて、ごろごろと喉を鳴らす。
「こいつ、お腹空いているな。残念だけど、俺、餌持ってないぞ」
通じたのか、仔猫はしばらく甘えていたが、また草のなかに消えていった。
康介は子どものころから、犬や猫などの動物に好かれる人だったな。
柚香は思い出した。
先程の話で、康介の母親が犬を拾ってきたものとすぐに信じたのも、そういうことが過去に何度かあったからだろう。
康介が学校からの帰り道で、捨て犬を拾ったことがあるのを知っている。近所の猫を撫でているところを、何度も見かけている。そういう生き物を見つけやすいし、懐かれやすい人なんだろう。
しかし、大人になって、まさか宇宙人の子どもまで拾ってしまうとは。
康介は、自動販売機で買ったスポーツドリンクを全部飲み干した。
「すっかりぬるくなってたな」
「こっちもね」
柚香も、おごってもらった緑茶のペットボトルを空にした。
へお城は、小高い丘の上に建てられている。小学生でも登れそうな低い石垣の上に、こじんまりと二階分の黒っぽい瓦屋根があり、その上に小さな物見櫓が乗っている感じだ。
下手をすると、ちょっと変わった公民館のように見える。
柚香も康介も、子どものころから何度もここへ来ている。敷地だけは広くて大きな公園になっているため、遠足などの学校行事や町のイベントでよく使われている場所だった。
今の時期は暑すぎて、人の姿もほとんどない。
城の敷地に入ると、受付の女性の松谷さんがすぐに迎えに出てくれた。
中年もだいぶ過ぎた感じだが、動作はてきぱきとしてもの慣れた様子だ。
「町長がお待ちですよ。どうぞ」
案内してもらい、二人は城内の一室の前まで通された。
このなかが給湯室らしい。康介が木のドアをノックする。
「町長、羽鳥です。バイトの人を連れてきました」
言われて、柚香ははっとした。
まだ何の返事もしていない。それなのに、すっかりバイトの人になっている。康介の話を信じて、ついてきてしまった。
どうしたものかと思ったのは、ほんの一瞬だった。
すぐさま勢いよくドアが開き、六十代後半くらいの太った男性が顔を出した。
亀野町長だ。
「羽鳥君、遅いじゃないか」
「すみません。大丈夫でしたか」
「大丈夫じゃないよ。僕は、どうしたらいいかさっぱり分からなかったよ」
町長の声は、半泣きに近かった。
「でも、町長は、僕には遊びに来る孫がいるから大丈夫って言ってたじゃないですか」
「孫はもう小学四年生なんだよ。あんなしゃべれない宇宙人なんてどうしていいか分からないよ」
「そうでしたか。すみませんでした」
康介が頭を下げている。
そのとき、奥から声がした。
「へおっ」
柚香は戸口に二人を残したまま靴を脱ぎ、室内へと進んだ。
給湯室とあって、水道やガスコンロがあり、小さな冷蔵庫も設置されていた。
もともと大人数で集まって、お茶でも飲んで休憩できるように考えられた部屋だったのだろう。さらに進んだところは十八畳ほどの畳敷きになっていた。小さなローテーブルと数枚の座布団が置かれている。
その奥に、こちらを覗いているふわふわした毛の生き物がいた。
柚香とその生き物の目が合う。
うるうるしていて大きな瞳だ。
顔立ちは猫っぽいような熊っぽいような。大きな目に小さな鼻、猫や兎を思わせる口もと。
頭の上には、三角の耳がある。猫よりやや長めで、両方ともちょこっと垂れていた。
全身のほとんどを茶色の毛が覆っている。肩のあたりから背中にかけては黄色の斑点がぽつぽつある。光に当たると毛の色は透けて、全体的に金色っぽくなる。
ちょっと身じろぎしただけで、毛並みがさらさらと動く。丸くて小さな尻尾もついていた。
頭がやや大きめで、体つきはぽっちゃりとしていて、確かに着ぐるみっぽい体型をしている。
とにかく、即座に抱きしめてしまいたいくらいかわいい。
柚香は思わず声をかける。
「こんにちは」
「へおっ」
幼くかわいらしい声だ。
「あ、本当にへおって言うだけなのね」
「へおへお、ふぇおっ」
最後はちょっと力を入れて違う言葉を言ってくれたようだが、似たようなものだった。
「バイトの人かね?」
町長が柚香のところにやってきて、尋ねた。
「はい。竹原柚香と申します。よろしくお願いします」
そう挨拶した瞬間、柚香はこのアルバイトを引き受けようとしていることに気づいた。
自分から望んで。
「よかったよかった。もちろん、ちゃんと町からバイト代を出すよ。頑張ってくれたまえ」
町長は、すっかりお役御免の気分らしい。
しかし、康介がそのまま立ち去ろうとする町長を引き止めた。
「ちょっと待ってください。この子が柚香でいいか訊いておかないと」
康介は、宇宙人の子と柚香の間に立った。
「この人は柚香だよ。俺と交替でここに来るんだけどいいかな?」
宇宙人の子はじっと柚香を見つめる。
柚香はどきどきした。こげ茶色の潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。
「へおっ」
この返事ではどうなのか分からない。
「柚香でいいって」
「えっ」
康介の言葉に、柚香は思わず声を出す。
「何て言ったか分からないじゃない」
「よろしくって」
「本当に?」
「テレパシーだよ。俺限定だけど」
「本当にそうなの?」
柚香はまだ信じられない。
「いやあ、よかったよかった」
町長は喜んで、荷物をまとめ始める。
「町長、お疲れさまでした」
今度は康介も止めようとしない。
町長は「ああ疲れた。やっと役場に帰れる」と呟きながら、スマホを取り出した。
「あ、亀野だけど、ああああ」
秘書らしき女性の怒鳴る声が漏れてきた。
「まずいまずい。帰るよ」
町長は、そそくさと支度を整えてドアから出て行った。
その様子に、柚香は康介と顔を見合わせてくすりと笑った。
「今朝、町長が給湯室に来るなり、宇宙人の世話をするバイトが一人必要だろうから、すぐに見つけてくれって言い出したんだよ。町役場の掲示板を見ている人なら、バイトを探しているかもしれないから呼んでこいって」
康介は柚香に向かって、柔らかい表情を見せた。
「急でどうなるかと思ったよ。もしも求人広告を見ている人が強面のおっさんだったら、宇宙人もびっくりしちゃうよな。ちょうどよかったよ」
「そうだったんだ。よかったね」
柚香が言葉をかけると、康介は謝った。
「役場にいたところだったのに、何だか引っ張り回しちゃってごめんな」
そういえば、町役場で求人票を眺めていたはずが、康介の宇宙人の話を聞いて、今はお城の給湯室にいる。
柚香にとっては、かなり予想外の一日になっていた。
それでも。
「ううん。バイトできることになって、よかったよ」
柚香はすっかり前向きになっていた。
「へおっ」
そんな柚香に、宇宙人の子が答えるような声を出した。