第59話 忘れ物 *
絵本とおもちゃを詰め終えて、畳の部屋を掃除する。
片づくと、部屋は急に広くなって見えた。
二人は畳に座り込んで、一息つく。
「へおちゃん、ここで楽しく過ごしてくれたみたいだったな」
康介がくつろいだ様子で呟いた。
「うん。三か月、ここでご飯食べたり眠ったりして過ごしていたんだよね……。今になったら、何だか夢だったみたい。楽しかった」
柚香はしみじみとした気分で返事をした。
「確かに今思えば、どこか夢みたいな毎日だったな。いろいろ大変なこともあったけど、柚香のおかげで楽しく過ごせたんだよな」
「こっちこそ。康介がいたから三か月楽しかったよ」
恋人同士になってそろそろひと月になる。けれど、あのへおちゃんとの日々が自分たちの礎となっていることに、変わりはない。
お互いに対する感謝の気持ちも湧いてくる。
「俺、柚香と一緒にへおちゃんを見ることができて、本当によかったよ」
「わたしも。わたしも康介と一緒でよかったよ」
いつの間にか二人の距離は近づいている。
「柚香」
康介がそっと呼びかける。
柚香の胸はときめく。二人にとっての決定的な瞬間が訪れたことを悟る。
「康介」
柚香は康介と見つめ合い、目を閉じた。
二人は更に近づいていき……。
ドンガラガッシャーンとでもいうような、すさまじい音が響き渡ったのはそのときだった。
信じられない轟音に二人は唖然とする。しかも、そのあともガラガラ、ガラガラと転がる音は続いていて、無視できない。
「バケツが」
柚香は立ち上がった。
さっき柚香が洗っていたブリキのバケツが床の上に転がっていた。随分と絶妙なタイミングで棚の上から落ちてくれたものである。
いくら何でもファーストキスが、バケツに阻まれるとは……。
「あーあ」
柚香はバケツを拾い上げるが、なかに入っていた水が床に散らばっていて無視することができない。洗った際に、バケツの底の埃を浮き上がらせようと水を少量入れたままにしておいたのが応えた。
せっかくの雰囲気までが、見事なほど粉々に砕け散って、飛んでしまっている。元に戻すきっかけもない。
康介は給湯室中に響くほど大きなため息をつく。
無言のまま柚香も康介も雑巾を持って、拭き掃除となった。
バケツの水は床だけでなく、付近の壁にまで跳ねている。
柚香はそこまで手を伸ばし、ふと棚と壁の間に何か入っていることに気がついた。
「何、これ?」
引き出してみて、柚香と康介は同時に叫んだ。
「へおちゃんのボード!」
何とへおちゃんは、いつも交信に使っていたボードを置きっぱなしにして宇宙に帰っちゃったのだ。
にわかには信じがたいことだった。
「嘘でしょ。あんなに忘れ物がないように注意していたのに」
「やっぱりお土産のことばっかり考えていたんだなあ」
確かに二人とも、食べ物を忘れたらへおちゃんが悲しがるだろうと、そっちに気を取られていた。それがいけなかったらしい。
「これって、使えるのかな?」
康介がボードを手にして、よくへおちゃんがやっていたように、右端の部分に手を触れる。
すると、ほどなくボードの上に光が広がった。
「使えそうだぞ」
この白い画面に、へおちゃんはいつも毛糸を乗せることで交信してきたのだ。
「鎖編み、どこかにあるかも」
柚香は戸棚にしまってあった箱を取りに行く。
「やっぱりあったよ。えっと、どう並べていたんだっけ?」
柚香と康介は、箱から鎖編みを取り出すと、協力してへおちゃんのやっていた様子を思い起こそうとする。
へおちゃんが作っていた「楽しい」「嬉しい」「面白い」「遊んだ」「食べた」「おいしい」というどの言葉も、ここで使うには今一つ合わない気がするし、そもそも並べ方もはっきりしない。
結局覚えていたのは、いつも同じの「会いたいよ」だ。
ボードに毛糸を置く。すると、やがて光とともにひらがなのメッセージが現れた。
へおちゃんげんきです きぐるみがみつかったので おってきたひとたちは たいほされました もうあんしんです ありがとうございました
こちらもあいたいです いまちかくにいます すぐにきぐるみもかえせるので おなじしんりんこうえんで 7じにあいましょう
どうやら、宇宙船に着ぐるみが見つかったことで、へおちゃんを追っていたことが明るみに出て、追っ手は逮捕されたらしい。どういうわけか、今へおちゃんたちは近くにいるとのことだ。
それで着ぐるみを返せるので七時に会いましょうと、書いてある。
「七時って、今日だよね?」
「ええっ、二時間後じゃないの!」
柚香も驚いた。返事を書きたいものの方法は分からず、もう一回『会いたいよ』と鎖編みを置いてみた。
7じ しんりんこうえんで へおちゃんとさんにんで まっています
このぼーども もってきてくださいね
返事がちゃんと返ってきた。
「へおちゃんと三人で待っています、だって!」
柚香は思わず大きな声を出す。
「これから、へおちゃんに会えるんだ!」
康介も心底嬉しそうに言う。
二人は喜び合い、何度もボードを確かめては声を上げる。
「夢みたい。またへおちゃんに会えるなんて」
先程までは、給湯室でのこれまでが夢のように思っていたのに。
へおちゃんのもふもふした毛並みやうるうるした瞳を思い浮かべる。
嬉しくてたまらない。
それでも、柚香は自分に言い聞かせるように呟く。
「今度こそボードを返すの、忘れないようにしなくちゃね」
「そうだな」
康介がそこだけは重々しく返事をした。
それから、二人は速やかに台所の片づけをした。
へおちゃんにこれから会えると思うと、うきうきして何もかもが捗る。
最後に三人で使っていた黄色、水色、桃色のお皿を取り出して包む。
三人で夕食を食べるのは、いつでも素敵なひとときだった。ついでにおやつも結構食べたものだ。
食いしん坊のへおちゃんを見つめながら、とりとめもない話もした。
「柚香ってメロンパンが好きなら、メロンはどう?」と康介がたわいもない話題を出したがために、へおちゃんに『それ食べたい』と伝えられて、わざわざ高いマスクメロンを買う羽目になったこともあった。
徹太が「本物だよね」とへおちゃんを疑ったときにはいろいろ案を出し合い、へお電のイベントの前には打ち合わせをしたりした。へおちゃんが男たちや青い光の宇宙船に狙われたときには、真剣に対策を考え合った。
そういうとき、へおちゃんはいつでも分かっているよとでも言うように、「へおへお」と何度も声を出して話に加わっていた。
たくさんの出来事があったと、改めて柚香は思う。
「だいたいこれでいいかな」
柚香はほっと息をついた。
片づけをすべて終えたら、思い出もここから薄れていくような気がした。でも、きっと自分の心にはいつまでも鮮やかに残っているだろう。
二人で掃除道具をしまい、部屋を点検する。
ゴミだけは出してほしいと言われていたので、柚香はゴミ袋を持つ。康介は、へおちゃんのボードを持った。
自分の荷物はすでに玄関に置いてある。
柚香は康介とともに、いよいよ給湯室を出ることにする。
このあとに、へおちゃんと会う約束があるのだ。
ここに来る前と出るときとで、こんなに違う状況になるとは思いもしなかった。
わくわくとはやる心を抑え、玄関口で柚香は先に靴を履いた。康介は念のため、部屋全体を再度確認しているところだ。
柚香は一度尋ねる。
「もう忘れ物、ないよね?」
今度こそ忘れる物がないようにしなくては。給湯室を使うのは、これが最後なのだから。
康介が答える。
「忘れ物、思い出した」
「えっ、何?」
ゴミ袋を持ったまま、柚香は尋ねる。その柚香の姿を一目見てから、康介は告げた。
「そのまま待ってて」
何を忘れたのかは言わずに、康介はこちらへやってくる。左手にボードを持っているだけだ。
康介の忘れ物って一体何だろう。
柚香は給湯室のドアの前で考える。しかし、へおちゃんと会える喜びで心がいっぱいなのだ。何も思いつかず、ただ康介が来るのを待つ。
康介はボードを左に抱えたまま近づいてきて靴を履き、更に柚香に近づく。
柚香の右肩のすぐ上を康介の右腕が通って、ドアを押さえた。
えっ、至近距離。
胸が高鳴る。
もしかして、壁ドンってこれじゃないの。正確にはドアドンだけど。でも。
「あの、康介」
「何」
「腕が反対……だと思う」
話しているうちに恥ずかしくなってきて、柚香は俯く。
「あっ。……えっと、先に壁を確保しておこうと思って」
康介は混乱して変な言い訳をすると、ドアについている右手をどうしようか考え、次にボードを持っている左手をどうしようか考えているみたいだ。右手も左手も持てあましているようで、動作がちぐはぐになっている。
柚香の立っている後ろのドアには、正面に立つとちょうど右側にゴミ収集日ポスターがある。そこに康介は手をつく気にはなれないのだ。
康介はやっと左手のボードを床に下ろした。
バケツの前の出来事を忘れていたのね。
意図することは分かった。それなら、自分もこんなものを持っていてはいけない。
柚香は右手に抱えていたゴミ袋を床に置く。
康介はドアに左手をついた。柚香の右側に。
「……」
柚香は目を閉じる。
二人が交わす初めての口づけに。
今度こそ、何一つ隔てるものはなかった。





