第58話 再び給湯室
年明けの仕事が始まり、康介は町役場、柚香はパン屋で忙しく働くようになった。
その最初の週の日曜日、二人はへお城に行くことにした。
給湯室の掃除をするためだ。
へお電の電停を降りて、お城へ向かう。
どこかで選挙カーが走っているらしい。拡声器から漏れる音声がだんだんと大きく響いてきた。
よく聞いたことがある声だ。
柚香と康介は、思わず足を止める。
こちらへ進んできた選挙カーは、徐々にスピードを落とした。町長が窓から手を振っている。
「やあ、ご苦労さま」
拡声器をオフにして、町長が話しかけてきた。隣には鶴田さんが座っている。
「町長、お疲れさまです。これから給湯室の掃除をしてきます」
康介が答えると、町長は大きく頷いた。
「頼んだよ。僕は何かと忙しくてね。これから街頭演説に行くんだよ」
「町長、頑張ってください」
柚香が声をかけると、町長はうんうんと頷く。鶴田さんは、にこやかに会釈をした。
今日の鶴田さんは、上品そうなグレーのスーツを着ている。
鶴田さんも変わったなあと柚香は思った。
そういえば、へおちゃんが帰って町長に挨拶に行った際、鶴田さんとも話した。
「へおちゃんに会って、いろいろ考えさせられたんですよ。普通の人が信じないようなことを信じなければならなくなりましたからね。そうしたら、わたくし、こうでなきゃ、こういうものだっていう思い込みが強すぎていたような気がして。もっとこうゆるく物事を考えようって決めたんですよ」
鶴田さんがそう言っていたのを思い出した。
町長は手を振る。こちらは会釈をする。
選挙カーはまた動き出した。
『現職の亀野、亀野でございます』
町長が拡声器を持ったらしい。町長の堂々とした声が響き渡る。
『わたくしは、このへお町から、日本を世界を宇宙を守るべく、躍進して参りたいと存じます』
何をどう躍進するのか疑問である。
町長の言葉は、このへお町を駆け抜けていく。
『続投いたします。どうぞ宇宙の平和のために、この亀野、亀野徹兵を町長に!』
「な、何だかよく分からないけど、力強い続投宣言だよな」
「うん。まあ、他の候補者を寄せつけずに受かりそうな雰囲気、あるよね」
何かちょっと間違っているような気もするのだが。二人とも呆れつつも応援するのだった。
公園に入り、柚香も康介もへお城を眺める。新しく壁を塗りなおしたところや、石垣のきれいになったところがある。少しは見栄えがよくなっていた。
これくらいでは、相変わらず公民館と間違える観光客はいそうだけれど。
聞いた話では、展示室の城主が愛用していた湯飲みが発掘当初から罅が入っていて不評だったらしい。立派に飾り立ててあるのに「あの湯飲みじゃこぼれるよね」と馬鹿にする小学生たちがいたとか。
そこで、レプリカを作って一緒に飾った。そういった細かいレベルアップも図ったらしい。
とにかくへおちゃんのおかげで、へお城はすっかり知名度が高くなったのだ。
最後にこのへお城に来たのは、もう一か月も前になる。
東口のイチョウの木々はほとんど葉を落とし、眠っているかのように連なっている。二人は茶色く朽ちた落ち葉を踏みしめて進む。
へおちゃんと康介と一緒に、ここでたくさんの人に会ったなあ。
柚香は康介と並んで歩きながら、これまでのことをいろいろ振り返った。
へおちゃんに握手をしてもらい、写真を撮ったりしつつも、へおちゃんが本物の生き物だと知られることのないようにするのが、大変だった。
へおちゃんが転んだり、泣いたり、トカゲを追い回したり、木の実を拾ったり、アリを観察して動かなかったり。お客さんのアイスを食べたり、池に落ちたり、迷子になったり、ジョギングの人と走ったり、立ち入り禁止の植生に入ったり。毎日いろんな出来事があった。
三人でへお城の周りを歩き回り、夕方給湯室へ戻る道をたどった日常のことも、よく覚えている。
へおちゃんと過ごしたことで、この公園とお城は驚いたり笑ったりした思い出でいっぱいだ。
そのとき「みゃーん」と声がした。
「トラック」
柚香が声をかけたのに、茶トラの猫は康介の足元に駆け寄ってきた。
「あっ、トラックまで、わたしより康介に懐いちゃってる。全くもう」
犬や猫はみんな、いくら自分に懐いても、結局のところ康介が贔屓になってしまう。柚香としては、ちょっと不満だ。
それでも、トラックと名づけられた猫の成長を思わずにはいられない。
「だいぶ大きくなったね」
最初にへおちゃんに会ったときは、小さな仔猫だったことを思えば、随分立派になった気がする。
「重くなったな」
康介はトラックを抱き上げて、頭を撫でる。
「でも、へおちゃんは、俺より柚香に懐いていたよな。時々嫉妬したくなったよ」
「えっ、そうなの?」
「夜布団に入ると、明日も柚香と遊ぶ、とか楽しみにして寝ていたよ。こういうもふもふした感じ、懐かしいなあ」
康介がふと空に視線を向けた。
「そうだったんだ」
柚香は嬉しく思う。
「本当にもふもふしててあったかかったよね、へおちゃん」
柚香も記憶を呼び覚まして、空を見上げる。
真昼に星は見えないけれど、あの空の果てにはへおちゃんの住んでいる星がある。
二人はへお城に入り、給湯室の前へやってきた。
もうへおちゃんプロジェクトの推進室ではない。
今は着ぐるみは別の部屋に移して、ここは使っていないそうだ。柚香と康介とへおちゃんがいたときそのままになっていた。
給湯室のドアは変わりなく開く。その奥は冬の夕日に照らし出され、懐かしい光景が広がっていた。
水道にガスコンロ。冷蔵庫に電子レンジ。畳の部屋。机と座布団。
何度も三人で机を囲んでご飯を食べた。いろんな話をした。
思い起こせば、感傷に浸ってしまいそうだ。
「えっと、掃除道具はどこだって言ってたっけ」
柚香は気持ちを切り替えて、康介に尋ねた。
「もう一つ奥の部屋にあるって話だったな」
二人は一旦給湯室を出て、別の部屋から箒と塵取り、バケツと雑巾を持ってくる。
「何かこのバケツ、洗わないと」
金属製の古いバケツが埃まみれだ。柚香は腕まくりをして、水道で洗い始める。
「あれ、柚香。ちょっとこれ、どうする?」
畳の向こうから康介の声が聞こえたので、柚香はバケツを適当に棚の上に置いて、そちらへ行ってみる。
そういえば、おもちゃなど遊び道具はそのままだった。
「あ、甥っこに借りたままだったんだ」
柚香は、絵本や電車のおもちゃを一つ一つ点検する。康介に手伝ってもらい、ひとまとめにして段ボール箱に入れることにした。
少しずつ借りて持ってきたものが、三か月の間に多くなっていた。
「何だか、へおちゃんが遊んでいたときのことを思い出すよ」
康介はその場で、へおちゃんが使っていた電車のおもちゃを押して、走らせてみる。
木製の電車は、畳の上をコトコトと音を立てて進んだ。
「宇宙人のくせに、結構絵本も好きだったよな」
段ボール箱に数冊ずつ詰めながら、康介が呟いた。
「何回も読んでって、持ってきたのよ」
柚香も絵本をまとめながら話す。
「俺も時々、読まされたよ」
「えっ、康介も読み聞かせやってたの?」
「言い間違えてばっかりだったけど、それでも喜んでたから」
「知らなかった」
柚香は、康介がつっかえつっかえ絵本を読んであげている様子を思い浮かべて、微笑んだ。
「かわいかったよね、へおちゃん」
柚香はうっとりと遠くを見つめる。
うるうるした瞳、ふわふわの毛並み。動くとさわさわと揺れて。時折短い尻尾をぱたぱたと振って。垂れた耳がぴくんと跳ねたり。それから「へおっ」というかわいらしい声。
どれを思い返しても、懐かしい。





