第55話 レストランにて
約束の日、柚香は康介と四角川駅で待ち合わせた。残念ながら、へお町にはよさそうなレストランがなかったのだ。
康介は時間通りにやってきた。
柚香は「わたしも着いたばかり」と話した。まさか、緊張のあまり三十分以上前から来ていたとは言えない。
ズボンとスニーカーじゃない外出なんて、いつ以来だろう。ピンク色のセーターと白いロングスカートの組み合わせやヒールのある靴も、お城を歩いていたときとは全く違うので、どきまぎする材料だった。
けれど、康介はいつもの職場の格好だったので、ほっと気が緩む。
レストランは階段を上がった二階で、駅周辺が見渡せた。夕闇の迫る時間帯で、駅前の明かりが眩しく感じる。仕事帰りらしい人々が改札口付近を行き交う姿が目に映った。
お店に入ると、暖かい空気がふんわりと漂う。ドアの近くには大きなクリスマスツリーがあり、たくさんの飾りが光とともに煌めいていた。
「お疲れさまでした」
柚香と康介はテーブルの前で向かい合い、まずはお互いをねぎらって、ワインで乾杯した。
前菜のサラダが運ばれてきたところで、柚香は口を開いた。
「へおちゃん、もう帰ったかな」
「うん、きっと無事に着いているよ」
給湯室で過ごした日々が終わって、へおちゃんが自分の星へ帰ったなんて、まだ信じられない。
どこからか「へおっ」って、声が聞こえてきそうな気がする。
「三か月いろいろあったよな。何だか普通の仕事に戻ると、物足りない気がするよ」
康介は心なしか寂しそうに見えた。
「本当にそんな感じだね」
「柚香は、また仕事探すの? 役場で何かあったら知らせようか」
「ありがとう。でも、もう決まったから」
柚香が康介に話したいことの一つが、このことだった。
「決まったって、早いな。どんな仕事?」
「町役場のそばのパン屋さん」
柚香はにっこり笑う。まずはこれが言いたくて仕方がなかったのだ。
「えっ、もしかして、あのパン屋さん?」
「そう、康介に教えてもらったパン屋さん。買いに行って、たまたまアルバイト募集の貼り紙を見かけたことがあってね」
窓の外には、へお電の車両が走っている。駅から出発したのは緑茶色の車両だが、パン屋に行くときに目にした、へおちゃんラッピング車両のことを思い出した。
相変わらずがたがたと音を立てながら、電車は夜道を走っていく。
「お店の人に聞いたら、ちょうど募集始めたばかりのところで、ぜひ来てって言ってくれたの。パン屋で働いたことないし、どうかなとは思ったんだけど。わたしがパンを好きで買っているからいいって言ってくれて」
パン屋の店主さんは、柚香のことを気に入ってくれたようだ。
「そうか。よかったな」
「うん。実は昨日大まかな仕事を教わりに行って、来週から始めることになったんだよ」
「来週から? 何だ、全然失業期間がないんだな」
「ちょっと待って。その失業って言うの、やめてくれない? 今日はお金持ち気分なんだし」
柚香はサラダを食べながらも、言葉を差し挟む。
町長の特別手当のおかげで、今日だけは贅沢極まるコース料理なのだ。
「そういえば三か月間、外食することもなかったな。でも、コンビニ弁当のつもりが柚香に作ってもらえて本当によかったよ。好きなものも訊いて、作ってくれたよな。ありがとう」
「そ、そんな気にしなくていいよ。この前お礼言ってくれたでしょ。へおちゃんが齧るから、決まった容器の方が楽だったし」
改めてお礼を言われただけで、柚香は心臓がどきどきとする。
本当にこんな調子で自分の気持ちまで言えるのかな。無理っぽい。
一度は告白しようと決めたけど、実際にその機会がくれば難しいものだ。
いろいろ考えつつも、テーブルの上に置かれる料理の魅力には勝てない。焼きたてのパンやコーンポタージュで体も温まり、どこか安らいでしまう。
白身魚のムニエルが運ばれてきた。柚香はバター風味をおいしく味わいながら、康介に問いかけた。
「ね、康介の話って何?」
「あ、そうだな」
返事をするものの、康介の話はなかなか始まらない。自分も肝心な話はできない。
口直しの桃のソルベが適度に冷たく、甘酸っぱい。
「これさっぱりしていて、おいしいね」
「うん。次のって何かな」
赤ワインで煮込んである牛フィレ肉が柔らかく、コクのある味わいだ。添えられた色とりどりの野菜も食欲をそそる。
おいしいけれど、これではますます目的から遠のく。
柚香が何か話さなくてはと焦り始めたところで、康介が告げた。
「あの、へおちゃんのことで話すことがあるんだけど」
「へおちゃん?」
へおちゃんがどうしたというのだろう。実は地球旅行中なんだとか、実は宇宙人じゃなかったとかいろいろ考えてみるが、どれも当たっているとは思えない。
結局、柚香は重ねて尋ねる。
「へおちゃんが何?」
「あ、やっぱりへおちゃんの話じゃなくて」
「え」
「へおちゃんの話じゃないんだ」
康介は、落ち着かなげに呟く。
何の話?
柚香は目をぱちくりさせて、康介を見つめる。
康介は突然、水のたっぷり入ったコップを取ると、一気に飲み干す。
柚香は唾を飲み込んだ。何か言いづらいような深刻な事態が起きているのかもしれない。
「柚香、あの」
「何?」
何を聞いても驚かないでいてあげなくては。
柚香は身構える。
「あの、俺、柚香のこと、好きだ」
「え……」
聞き違いではなかった。
柚香の心の小舟はふんわりと浮き上がり、空中を踊り出す。
お、落ち着くのよ、柚香。
はしゃいで何かとちったりしてはいけない。今こそちゃんと告げなくては。
柚香は大きく息を吸ってから、言葉を口にする。
「わたしも、康介が好きだよ」
言った。言ったよ、わたし。ちゃんと言えた。よかった。やった。
途端に、康介は極上の爽やかな顔で、にっこりと笑った。
「うん、知ってた」
「え?」
心の小舟は勢いを失って、着水する。
「知ってたって、何?」
「それなんだけど、いつどうやって言おうか、俺、すごく迷ったんだよね」
「何を?」
戸惑いつつ、柚香は尋ねる。
「へおちゃんって、近くにいれば俺とテレパシーで話ができたよね。実は、それ以外にもう一つあって。へおちゃんは、何度も接している人とはだんだん波長が合ってきて、手に触れていると時々その人の思うことが分かるようになるんだって」
「どういうこと?」
「つまり、へおちゃん、柚香と手をつないでいたときに、柚香の気持ちが分かったりすることがあって」
「まさか……」
「うん。へおちゃんが伝えてくれたんだよ。その、柚香は康介が好きなんだよって」
「えええええっ」
柚香は真っ赤になって叫んだ。
「ちょ、ちょっと何でそれ言ってくれなかったのよ」
「だって、言ったら柚香は困らない?」
「こ、困るかも」
へおちゃんに触れていたときのことをいろいろ思い返す。でも、自分がいつどういう気持ちだったかまで、よく思い出せない。
もしもへおちゃんにそういう能力があると知ったら、へおちゃんと手をつないだりできなかったと思うし、テレパシーを通じて康介に知られてしまうと考えると、何もかもぎこちなくなってしまったに違いない。
康介が今まで黙っていたのは正解なのだろう。
だけど。
だけど、今まで悩んでいて今日こそはと思ってやっと言ったのに、知っていたなんて。
古びた風船がしぼむように、力が抜けてしまう。
しかし、康介はしんみりと言葉を口にする。
「正直、とても嬉しかった」
そう言われると、柚香も心が温まる。
康介は話を続ける。
「俺、いろいろ柚香に迷惑かけていたから『嫌われたかも』って話したら、へおちゃんにいきなり『そんなことないよ。柚香は康介のこと好きだよ』って言われて本当にびっくりしたんだ。それでへおちゃんが柚香の気持ちが分かることを初めて知ったんだよ。そのとき、とてもいい気分だった。今まで告白されたときは三回とも嬉しかったけど、それとは全然違った。すごく嬉しくて」
康介はどこか夢見るように話す。
「好きってこういうことなんだなと思った」
「……」
康介、よくこんな恥ずかしい台詞言えるなと柚香は思う。もしかしたら、康介のこういうところも好きなのかもしれないけど。
あ、本人は気づいてないのか。
柚香はとりあえず、真顔で頷くだけに留めておく。
それに、自分にもそう思った瞬間はあったはず。同時にピンチに陥っていたから、ちゃんと思う機会がなかっただけかもしれない。
康介が穏やかに自分のことでそう思ってくれたのは、とても幸せなことだと思う。
チョコレートのかかったケーキとバニラアイスの盛り合わせが運ばれてきた。
「うわ、おいしそう」
何よりも優先事項のデザートを、二人とも味わう。
落ち着いたところで、康介が考えをまとめるように、話し出す。
「何というか、俺と柚香って完全に幼馴染って感じだよな。幼稚園から中学校まで何回か同じクラスになってるし。近所だから、大人になってからも何度も見かけているし」
柚香はその言葉に頷く。
「うん。クラスが一緒だったのは、幼稚園の年長と」
「小学一年と三年と四年と中学一年」
柚香と康介の声が重なる。
あまりに合ってしまって、柚香は確信を持つ。
「アルバム見た?」
「うん。幼稚園から全部。幼馴染を好きになったら、当然見返すよ」
「やっぱり。わたしも帰ってからよく見てたよ。一緒だね」
康介が自分と同じようにしていたことに、柚香は胸がわくわくとする心地だ。
「へお城の遠足で、柚香がメロンパン食べているところが最高だった。今でも好物なんだなと思って、役場のパン屋で思わず買ってきたんだよ」
「……」
柚香は一瞬口がきけなくなる。幼稚園のアルバムの衝撃が甦ってきた。





