第43話 二人きりじゃない
「朝ご飯三人で食べるのって、初めてだね」
用意できた朝食を前にすると、柚香は改めて話した。
いつもの夕食のように、柚香の隣にへおちゃんがいて、康介は机を挟んで柚香の前に座っている。
「そうだな」
康介は小さく答えた。本調子には遠いものの、昨日より顔色がいいなと柚香はほっとする。
「へおへおっ」
へおちゃんは、頷きながら明るい声を出した。へおちゃんにとっては、三人で食べられること自体が楽しいらしい。尻尾をぱたぱたと振って、黄色いお皿を手にした。
康介は、少し咳をしてから切り出す。
「今日は仕事休んで、一日ゆっくり過ごすよ。昨日まで忙しかったけど、もう大丈夫だから」
「そうだね。それでちゃんと治してよね。本当に心配したんだから。交代要員で町長を呼ばなきゃいけないかと思ったよ」
「町長、来てくれるかなあ」
康介は力なく笑ったが、そのまま咳き込んでしまう。
こういうとき、背中をさすってあげるとかできるといいんだけど、無理だよね。
柚香はそう考えて、ただ「大丈夫?」と尋ね、「うん」と康介は答える。
康介はまだ少々熱はあるようだが、食欲は随分と回復したらしい。
ご飯に漬物、味噌汁くらいは普通に食べている。柚香は安心して、へおちゃんと一緒に卵かけご飯を食べた。
「へおへお、へおへおっ」
食事を終えると、へおちゃんは張り切って、机の上のお皿や冷蔵庫に片付けるものを、一人で全部持っていこうとする。柚香が一緒の朝ご飯だったのが、嬉しかったようだ。
「偉いね、へおちゃん」
柚香はへおちゃんに笑いかけてから座り直し、忘れないうちに康介に風邪薬を手渡す。
「薬飲んで、また寝たら?」
「うん、ありがとう。だけどその前に、柚香は一旦家に帰った方がいいよ」
「えっ」
康介の言葉が聞き違いであったらいいのだけど。
「大丈夫よ。わたし、来たばっかりだし」
やや声が上ずってしまう。
「柚香、帰ってないんだろ」
「え、ばれてた……」
柚香は凍りつく。
「少し前から目は覚めていたんだ。ごめんな」
康介は続ける。
「一日休めるから、ここでよく寝ておくよ。それでよくなると思う」
康介にそう言われて、柚香はこの数日のことを思い返す。
「忙しかったもんね、昨日まで。ちょっと疲れていたんじゃない?」
「うん、そうだな」
康介は風邪薬を箱から取り出して、咳をした。
「無理してたんじゃないの? 何も気づかなくてごめんね」
気になっていたことを柚香が漏らすと、康介は首を横に振った。
「そんなことないよ。俺こそ自己管理が甘かったよ。本当に悪かった。とりあえず、ここにいてへおちゃんを見ていることはできるから、柚香は家に帰ってきなよ」
「うん、分かった」
柚香は小さく頷く。康介は俯いた。
「本当に申し訳ない。反省してるよ」
反省しているなんてしょんぼり言われると、何だかかわいそうになってくる。
「じゃあ、昼前に三人分のパン買って来るから。夕食も簡単に用意するね」
へおちゃんの世話を考えると、食べ物だけはきちんとしたほうがいいと思い、柚香は話した。
康介は薬瓶を持とうとした手を止めた。
「柚香って、本当に優しいなあ」
「えっ」
康介の言葉に、柚香は不意をつかれた。
「そ、そんな、これくらい当然じゃない」
「当然なんてことないよ。柚香はいつも文句も言わずにいろいろしてくれて、優しいよな。本当にありがたいよ」
「急にどうしたのよ」
柚香は戸惑う。好きな人にこんなこと言われて、嬉しくないはずがない。
胸がどきどきとしてしまう。
「俺さ、このバイト、柚香と一緒で本当によかったと思っている。俺、柚香のこと……」
えっ、何?
「はっ、はくしょん」
次の瞬間、康介がくしゃみをした。
「ご、ごめん。うつらないといいんだけど」
「だ、大丈夫。それより、もう少し寝た方がいいよ」
咳だけじゃなかったとは、気の毒に思う。
急速に落ち着かなくなった柚香は、いつも棚の上に置いてあるティッシュボックスを、康介の枕元に持ってきておく。
結局、柚香は康介の言葉を聞き損ねてしまった。
そのあとすぐ帰ることにしたのだが、給湯室を出てからへお電に乗るまで、なぜか息が切れるほど走った。
康介は何て言ういうつもりだったの?
「俺、柚香のこと……」
「俺、柚香のこと……」
繰り返し、脳内で再生されてしまう。康介の言葉とそのときの表情とが思い浮かんでしまう。
熱っぽいせいで、潤んでいる康介の瞳を思い出す。それだけで心臓が落ち着かなげに高鳴る。
うるうるしているのは、へおちゃんだけで勘弁してほしい。
康介にあの場で、ちゃんと訊けばよかったのに。
いや、だめだ。もう絶対に訊けない。余計なことを考えてしまう。
何だか、自分の都合のいいこと想像しちゃうじゃないの。どうしてくれるのよ。
柚香は、朝の出来事を気にしながら家に戻るが、こっちはこっちで気がかりがある。
何といっても、人生初の朝帰りだ。
どう話せばいいの。
ためらったが、お昼までそんなに時間がない。普通に家に入るしかない。
おそるおそるドアを開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関へ出てきた母は、いつも通りに答えた。
「あの、心配かけてごめんね」
柚香は素直に謝った。母は変に物分かりがよさそうに、にこりとする。
「ううん。それよりお父さんにはお友だちの家に泊まったって話しておいたから、平気よ」
「あ、ありがとう」
完全に誤解していると思う。でも、お礼は言っておかなくては。
「正直びっくりしたけどね、考えてみれば柚香だって、いつまでもうちの子どもで家にいる年じゃないわよね」
「バイトで……」
バイトで宇宙人も一緒にいた。二人きりじゃない。
そう本当のことを言ったところで、信じてもらえるわけがない。そんなにくだらない嘘をつくなんて、やはり昨夜は男の人と二人きりだったのかと、間違った確信を持たれるのが関の山だ。
もう、考えるだけで顔が熱くなってくる。
続きの出てこない柚香に、母は言い足す。
「桃香だったら結婚して子どももいる年齢だものね。もしうまくいってるなら、うちにもぜひ連れてきてよ」
母は不気味なほどテンションが高い。
「そんなんじゃないってば」
対して柚香は、そう否定するくらいしかできない。へおちゃんの存在を隠したままで何をどう言えばいいのか、うまく思いつかなかった。
母が協力的なのを利用して、柚香は夕食の材料を揃え、パン屋に寄って再びへお城へ行く。
給湯室に着くと、へおちゃんが迎えに出てくれた。
康介はほとんど布団のなかにいたらしいが、柚香を見ると「ごめん」「悪かった」などと謝るばかりだ。柚香は朝のことはやはり言い出せず、代わりに「よく眠れた?」と尋ねる。
「それがさ、へおちゃん、何だか知らないけど、すごく静かに遊んでくれたんだ。おかげでよく眠れたよ」
「そうなんだ。よかったね」
柚香は不自然にならないように答えるのがやっとだった。へおちゃんが大人しかった原因は分かっている。康介には黙っておきたいけど。
柚香は見つからないうちに、床の上にあちこち飛び散っているふわふわの白いものを片づける。
以前康介に聞いていたのに、すっかり忘れていたのだ。へおちゃんがティッシュボックスの中身を全部出してしまうことを。
へおちゃんは午前中、隠れてこっそり遊んでいたのだった。
天気は曇りで、時折冷たい雨が降った。へおちゃんと柚香が公園へ出る必要もあまりなかった。
三人で昼食をとり、康介はまた眠った。へおちゃんもお昼寝をすると、柚香は一人で静かに編み物を進めた。
そろそろ完成させなくては。
編みぐるみをへおちゃんにプレゼントする日も、もうそんなに先ではない。
翌日の土曜日、柚香はいつも通り給湯室に着いた。
へおちゃんが迎えに出てくれる。
「おはよう。寒かったよ」
玄関で手袋をとって、靴を脱ぐ。
「へおへおっ」
「へおちゃん、元気だね」
柚香はへおちゃんのふわふわした頭を撫でる。
「おはよう、柚香」
康介が、お湯を沸かしながら挨拶する。
昨日や一昨日のパジャマで寝ている姿には、正直いたたまれなかった。
普段通りの康介の姿に、柚香はほんのりと胸が温まる。心からよかったなと思える。
「もう、風邪は大丈夫?」
「うん、おかげですっかりよくなった。何というか、すごく迷惑かけたよな」
安堵する気持ちもあるが、確かに言うとおりである。
康介は更に訊いてきた。
「おうち、本当に大丈夫だった?」
おうちと言われると、途端にぴきっと神経に障る。
恥ずかしいから、訊かないで。
そう叫びたいところだが、言わなくても意識してしまう。
「別に、大丈夫だよ」
柚香がそっぽを向いてそれだけ口にすると、康介はかなり気まずいようだった。





