第42話 朝にかけて
柚香は、暗くなっていく空を見上げる。
今日は雲が厚くて、星も月も姿を現わさない。週末まで天気は下り坂らしい。この寒さでは、雨が降れば雪に変わる可能性もある。
柚香はスマホの呼び出し音を聞いている。つながった。
「あっ、お母さん? 柚香だけど、実は夜勤の人が倒れちゃって。今日のバイトは長引きそうだから、帰るの遅くなるよ」
「あら、そうなの。気をつけてね」
「うん」
母に話しておけば、もう少し康介の様子を見ることができる。
「それじゃ」
柚香が切ろうとすると、母の声がした。
「あの、柚香。その夜勤の人って……」
後ろの方を言わないので、柚香は「何?」と聞き返した。
「ううん、何でもない。遅くなっても構わないから、ちゃんと仕事やってきなさいね」
「うん、分かった。それじゃ」
柚香は通話を切った。一息つく。
母の言葉の続きは、見当がついた。
『その夜勤の人って、男の人なの?』
そう言おうとしたに違いない。
そもそも、柚香が最初にお弁当を三人分作ると話したとき、母は「二人分じゃないの?」と尋ねてきた。アルバイトは二人だと先に話してあったからだ。
まさか異星人の分と合わせて三人分とは言えない。そこで咄嗟に「夜勤のバイトの人が一人いて、その人も一緒に食べるから」と告げた。今回連絡するときも「夜勤の人が倒れた」と口を合わせたつもりだった。
どうせなら、もっとバイトの人の数を増やして、そのうちの三人で食べていることにすればよかった。
人数が少なすぎて、妙に怪しまれる事態になっている。
親からしたら、イレギュラーなことが起こっていると勝手に考えているのかもしれない。
会社で働き始めたころは、友達と一緒に旅行に行くこともあった。けれど、今はみんな結婚して、遅くまで遊べる友人もいない。
全く男性と縁がなかったから、デートで夜遅くなったことは一切ないのに。
絶対に誤解している。
柚香は確信しつつも、すぐに給湯室に戻ることにした。
康介は一度目を覚ましたが、食欲はなく、夕食はご飯を一口二口食べただけでもういいようだった。
柚香は買ってきた風邪薬を勧めた。
「ごめんな、柚香。頭痛くて。もう少し寝てていいかな……」
「気にしなくていいから。薬飲んだら、すぐに寝たほうがいいよ」
康介はかなり辛そうで、柚香はますます心配になる。
パジャマに着替えた康介は、しばらく布団で咳を繰り返していたが、やがて眠ったようだ。
柚香はへおちゃんと一緒に夕食をとった。そのあと片づけをしてから、へおちゃんの遊びに付き添ったりした。それでも、康介が気になって仕方がない。
これまでの数日、疲れているのに無理をしていたのではないかと心に引っかかった。
へおちゃんが一人で電車ごっこを始めたところで、康介の枕元へ行く。
今は眠れているようだが、あまり調子はよくないように思う。
「体温計も、買ってくればよかったな」
絶対に熱が高そうだ。そばに座って、康介の額に手をやる。やっぱりかなり熱い。
柚香は、そこではっとする。
あっ、触っちゃった!
自分の手がぱあっと熱を持つのが分かる。
突然恥ずかしくなって心臓がばくばくする。けれど、今はそれどころではない。
タオルを一枚濡らして、康介の額にそっと置いた。今度は康介に触れないように慎重に慎重に。
「ん……」
康介が身じろぎをした。
柚香は飛び上がる。慌てて両手を背に隠す。
触ってない。触ってない。触ってないってば。
しかし、康介はそのまま寝入ってしまったようだ。
「へおー、へおっ」
心配そうな表情で、へおちゃんがとことこ歩いてきた。
「ごめんね、地球人、弱くって。でも、康介はひと晩寝たらきっとよくなるよ。わたしがしばらく見ているから、へおちゃんは九時には寝るのよ」
「へおっ」
へおちゃんは素直に返事をした。
時刻はすでに八時半。
とりあえず、へおちゃんが安心して眠ったら帰ろうかな。また朝早くに来るようにしよう。
柚香はそう考えた。
へおちゃんは、毎日九時から七時近くまでぐっすり眠るという。康介は七時半ごろいつもへおちゃんに起こされるそうだ。
最近では、柚香は朝食用のご飯も持ってきて冷蔵庫に入れている。
他に納豆や卵、ちりめんじゃこ、漬物、ふりかけなども常備している。即席の味噌汁やスープ類も戸棚に揃えている。これで何とか、へおちゃんと康介は温かい朝食をとっていた。
へおちゃんはどれもぱくぱくと食べると、康介から聞いている。異星人でも納豆や卵かけご飯はおいしいようだ。
さすがに明日の朝、康介が朝食を用意するのは無理だろう。それを考えると、七時にはまたここへ戻ってこなくてはならない。
電気を薄暗くしたら、へおちゃんは寝る準備をした。念のため、康介とは離れた場所に布団を移動させておく。
「へおちゃん、おやすみ」
「へおへお」
へおちゃんはすんなり寝入った。
柚香は康介を見て、熱はありそうなものの眠れている様子なので、ほっとした。
だが、そのあとの記憶がなかった。
柚香ははっと目を覚ました。風邪がうつらないようにとマスクをしていたが、そのまま机に伏せて、眠っていたようだ。
ここは給湯室だ。
へおちゃんのくうくうというかわいらしい寝息が聞こえる。心地よさそうな眠りに、こちらも癒される。
一方、康介はたまに咳込み、やはりどこか具合いが悪そうな眠りだ。何となく痛々しい。もっと熟睡してもらいたいものだ。
それにしても、夜中に比べてやや明るく感じる。
ちょっと待って。今何時? わたし、ここで随分寝てしまったのかも……!
自分のリュックサックから、慌ただしくスマホを取り出す。
午前五時二十六分。
もう明け方じゃないの。
メールが一件届いている。母から十二時ごろ着信していた。
『もう寝るからね。柚香にそういう人がいるとは知らなかったけど、お父さんにはうまくいっておくから、いつでも帰ってきて大丈夫よ』
「お母さんったら」
やはりこれは、男の人のところに泊まったと解釈されているようだ。全然違うのだけど、へおちゃんの存在を明かせない以上、どう説明すればいいのか分からない。
朝帰りとか全く縁のない言葉だったのに。
柚香は、康介と二人で一晩一緒にいたことにされてしまった気がして、たまらなく恥ずかしい。顔からぼっと火が出て、そのまま燃え上がってしまいそうだ。
とにかく母にひと言、謝りのメールを送った。
七時にへおちゃんが起きて、柚香も机の上での仮眠から覚める。五時半以降、ほとんど眠れなかったけれど。
「おはよう、へおちゃん」
「へおへおっ」
「わたしも泊まっちゃったんだ。康介はもう少し寝かせておいて、朝ご飯の支度をしようか」
「へおおっ」
耳をぴんと立てて、へおちゃんは答える。
ご飯の準備をしていると、ごほごほと咳をする声が聞こえた。
「柚香……ごほん。おはよう」
布団のなかから康介の声がした。
「おはよう。康介、大丈夫? もう少し寝てていいよ」
「うん。でも、だいぶ楽になったよ。ありがとう」
康介は、だるそうなものの、布団の上に起き上がる。
「たいしたことしてないよ。わたし、今来たばかりだから。朝ご飯少し食べる? すぐ用意できるよ」
まさか泊まっちゃったとは言えない。いくら本人が病気で寝ていたとはいえ。
だから、柚香は素早く来たばかり、と喋ったのだ。
「助かるよ。ごめんな、柚香」
調子が悪くて、いつもより頼りなさげに見える。そんな康介が謝るのは、何だか気が気でならない。
心の小舟がゆらゆらと、何度も揺れているのが分かる。泊ったなんて絶対に知られたくない。
「うん……」
康介の顔をまともに見ていられず、柚香は小さく返事をしてへおちゃんの方へ向き直る。
「へおちゃん、こっちも手伝って」





