第40話 アルバムに思いは巡る *
「それで、町長は考え直してくれたの?」
柚香は康介の話に聞き入った。
「それがまだあまり信じてもらえてなくて、考えておくって」
何でも、もう新しい町長を選出する動きが出ているという。
「町長は本当にとんでもない思い込みをしていたんだね。誰もそれに気づかなかったところも、おかしいけど」
「へおん、へおーん。へおん、へおーん」
「一応、いろいろ言ってみたよ。小さくて何もないへお町だから町長が全体を見られるだけで、普通は無理でしょうって。例えば四角川市の市長が全部の部署を見て、意見を言ったりするわけがないですよねって」
「うんうん」
「へおん、へおーん。へおん、へおーん」
「さすがに町長もそうか、って呟いていたけど、疲れもあるようだし、なかなか気持ちの切り替えもできないんだろうな。今は待つしかないような」
「そっか。まだ亀野町長に町長でいてもらいたいよね」
「うん。役場でもみんなが心配しているんだ。うちの課長も、何か町長の面白がるような話はないのかって訊いてきたりするんだよ。町長が元気ないなんて、天変地異の前触れじゃないかって言う人もいるくらいだからね」
「……そ、そうなんだ」
柚香はちょっと引いてしまう。天変地異とか何とかって、とてもじゃないが、町のトップの話をしているとは思えない。
改めてへお町が心配になる。
「へおん、へおーん。へおん、へおーん」
すぐそばでは、へおちゃんが電車ごっこに夢中だった。
畳の上で、もふもふの小さな手が木製の電車を行ったり来たり動かしている。電車祭りで本物に乗って以来、へおちゃんの電車遊びはパワーアップしていた。
「へおん、へおーん」は、どうも「がたん、ごとん」のつもりらしい。
大きなイベントが終わり、安堵するところだが、町長問題で寂しい結果が出るかもしれなかった。
へおちゃんがへお城で着ぐるみとして活躍する日々も確実に減っていた。
柚香にとっても、このバイトが終わりに近づいている。
この二か月半、大変だったはず。それがとても寂しくてどうして切ないのか、柚香にはいくらでも理由があった。
へおちゃんとの別れが近づいている。
電車遊びで楽しそうなへおちゃんの姿を横に見ながら思う。一番寂しいのは、このことだろう。
世間的には、また無職になる日が近づいている。へお町の町長も変わってしまうかもしれない。
康介とこうして話す機会がなくなる日が近づいている。
あとほんの少しで、何もかも終わってしまう。
柚香は急にそう感じた。
柚香はベッドの上に座り込み、卒業アルバムのページをめくる。
これまで何度繰り返し、こうしてきただろう。
最後にあるのは、中学校の卒業式の写真だ。この先に康介の関わる写真は一枚もない。高校に入ってから、康介と一緒にいたことはなかった。近所で見かけていただけだ。
柚香は、最後のページを閉じた。
このまま、これまでと同じになるのかな。
胸がきゅうっと疼く。
満月の晩はもうすぐやってくる。
柚香はふと窓の外を見たくなった。今の月はどうなっているのか気になる。
立ち上がって自室のカーテンを開けてみるが、向こうは真っ暗だった。窓を開けると、冷たい風が入ってくる。
雨が静かに降っていた。
今日は星の瞬き一つさえ見ることが叶わないんだな。
柚香はため息を漏らす。
どうすればいいのか、何一つ、誰も教えてはくれない。
柚香はもう自分で認めてしまっている。
康介が自分にとって、特別な存在になってしまったことを。心に住み着いてしまってどうしようもないことを。
これから先も康介に会いたい。
この気持ちをどうすればいいの。
柚香は思い立って、押し入れのなかを探しまわった。
どこにしまったのか思い出せないものを見つけるには、時間がかかった。それでも、やがて埃っぽい冊子を手にした。
埃を払い、ぱらぱらとめくってみる。幼稚園の小さなアルバムだった。
遠足でへお城に行ったときの写真があった。そこで、柚香はやっと探し当てた。
康介の笑顔。
こっちを向いてクッキーを持ちながら、ほんの少しだけど笑っている小さな康介がいた。
だが、その右隣の女の子は一体全体何をしているのか。
そこには、大きなメロンパンをおいしそうに齧っている自分の姿があった。
何てこと。すっかり忘れていた。
ゴムボールがいきなり頭に当たったような衝撃を感じる。決して痛くないのだけど、生ぬるい感触がいつまでたっても残りそうだ。
確かそのころメロンパンにこだわり、遠足のおやつに食べたいと母に無理にねだって持って行ったのだ。
今更ながら、恥ずかしくなる。
そっちは無視するしかない。自分の姿を、えいっとばかりに手で隠す。
康介だけを見よう。
うん、かわいいけど、やっぱり今と変わりない笑顔だな。
柚香はうっとりと眺める。
できるなら、この小さな男の子が大きくなって、人生を歩んでいくさまをずっとずっと見ていたいな。
わっ、何考えているんだろう。
柚香は自分の気持ちにうろたえてしまい、アルバムのページを慌ただしくめくる。
後ろの方に、将来の夢という欄があった。
『ぱんやさんになりたい』
自分の夢に、やっぱりこれかい、と突っ込みを入れたくなる。
『ひこうきのうんてんしゅになりたい』
康介の夢のほうが素敵だな。飛行機は操縦士だけど。
そうは言えども、実質今は二人とも宇宙人の世話係である。
柚香は、いつもより早く目を覚ました。
昨夜はアルバムを眺めながら、いろいろ思いを巡らせた。
今の生活はそう遠くないうちに終わり、へおちゃんとも康介とも会えなくなる。
へおちゃんのことは最初から決まっていたことで、寂しくても選択肢はない。
でも、康介は近くにいる。自分の手のなかに、いくつかの選択肢があるような気がする。
康介ともっと一緒にいたいな。
柚香は、自分の気持ちを康介に伝えることを真剣に考えた。
しかしながら。
「ごめん。柚香のことは幼馴染としか思えなくて」とかいう康介の台詞が、圧倒的な現実感を持って浮かんでしまう。
これこそ、小舟からドボーンと落ちるコースじゃないかな。
柚香はうなだれそうになる。
別に、これまでだって全然男の人と縁がなかったんだから、また元に戻るだけだと思えばいいんだ。
一生懸命、自分に言い聞かせる。それでも、気持ちがずずっと沈むのは避けられない。
柚香は、地面にめり込むほどへこんでしまいそうになる。
そうだ。せっかくだから、役場近くのパン屋さんでまたメロンパンを買おう。
柚香は思いついた。
このところ、電車祭りで忙しくなって行ってなかった。少し早めに起きたから、ちょうどいい。
自分はやっぱりおいしいものが好きなんだなと、柚香はちらりと思う。でも、へおちゃんだって、あのお店の焼きそばパンがお気に入りなのだ。
とにかく景気づけに、と自分を納得させるのだった。
へお電に乗ると『へおちゃんラッピング車両、運行開始! 運行時刻表はホームページでも見られます』と大きなポスターが貼ってあった。
電車祭り以来、へお電も乗客がやや増加したらしい。
特にへおちゃんの描かれた車両は大人気で、時刻に合わせてどこからともなく鉄道ファンやカメラマンが現れるそうだ。活気が出てきて、何よりだ。
柚香は『へお町役場前』で降りた。すると、ちょうど反対側のへお電がやってきた。それがへおちゃんラッピング車両だった。
この黄色く目立つ車両を目にすると、ラッキーという噂がある。幸せの黄色いハンカチとかそういうアイテムがあるせいか、黄色い車両は幸運と結びつきやすいらしい。
ラッキーか。寂しいことばっかり考えてちゃいけないな。
柚香は気持ちを切り替えて、パン屋に向かっていった。
「あら、いらっしゃい」
「おはようございます」
柚香はすっかりパン屋の店主さんと顔なじみだ。
「焼きたての試食パン、少しおまけしてあげるわ。よかったらみんなで食べてみて」
「ええっ、嬉しいです。ありがとうございます」
三人で一緒に食べていると話したら、時々店主さんがおまけを入れてくれるのだ。もちろん、そのうちの一人が異星人だとは言えないけれど。
ちょっとのラッキーは、あるんだ。
柚香はそう思った。メロンパンと焼きそばパンと他にもおいしそうなパンを買った。
店主さんに挨拶して帰りかけ、ふと入り口を振り返る。
この間までなかった貼り紙がある。よく読んでみて、柚香は昨夜のアルバムのことを思い出す。ためらわず、まっすぐ店に戻った。
「あの、あの貼り紙はまだ募集中ですか」
「ええ、昨日貼ったばかりで。まだ誰も応募に来ていないんですよ」
店主さんの言葉に、柚香ははっきりと声を出した。
「わたしでも、応募できますか」
へおちゃんラッピング車両に出会うと、本当にラッキーなことがあるのかもしれない。





