第38話 へお電を追う
「あれ、へおちゃん、どこにいる?」
「えっ、へおちゃん、後ろに……いない。あれっ」
康介も初めて気づいた様子だ。
辺りを見回しても、全く姿はない。へおちゃんが忽然といなくなってしまった。
柚香は急に全身が冷たくなったような気がした。
康介と二人で、他のスタッフさんに「着ぐるみに入っている子が行方不明になってしまった」と告げる。電車祭りから帰る人々で混雑しているなかを、手分けしてへおちゃんを探してもらう。
しかし、どこにも見当たらない。
「一人で会場に戻って、遊んでいるのかな」
「よし、戻ってみよう」
柚香と康介は会場の入り口まで急ぎ、スタッフさんに「着ぐるみの子、見かけませんでしたか」と尋ねる。へおちゃんの姿を見逃すわけがない。
しかし、誰も見ていないという。
どこにもいない。そんなはずはない。
「まさか、さっきの電車に乗って行ってしまったんじゃ……」
青白い顔をして康介が呟いた。そのまさかしか、考えられなかった。
へおちゃんは先に電車を降りたとばかり思っていた。けれど、もしかすると二人がまだ車内で挨拶しているのを見て、また乗ってしまったのかもしれない。
思い返せば、へお電が発車するとき、へおちゃんが後ろにいると思い込んで姿を確認していなかった。
ほぼ確信した康介が、走って他のスタッフさんに伝えに行く間も、柚香はその場から動けなかった。
事の重大さに、柚香は手足がひどく冷え切り、頭のなかが完全に真っ白になる。
すでに、出発したへお電の姿は遠い。
「どうしよう。へおちゃん、一人で乗ってる……」
呆然として柚香は呟いた。
取り返しのつかないことが起きている。
以前迷子になったとき、へおちゃんがかなり不安になってしまったことを思うと、いたたまれない。そのとき一人だったのは、せいぜい五分に満たない時間のはずだ。
しかし、へお城までは路面電車でおよそ十五分かかる。
親の姿を見失った子どもだったら、十五分という時間は、一時間や二時間にも感じられるものだろう。
ましてへおちゃんは、初めての地球の乗り物のなかで、一人きりになってしまったのだ。
「へおちゃんが一人だということに気がついたら、どうしよう……」
どこかで一人で遊んでいるのなら、まだ何とかなる。だけど、移動中ではどうにもならない。
もしも車内で、柚香と康介からはぐれていると知ってしまったら。
きっと「へお?」とかいう声を上げたあとに、うるうるしている瞳がさらにうるうるうるっとして、「へおおーん」という声とともにダムが決壊するがごとく、涙があふれて止まらなくなるに違いない。
想像するだけで、胸が締めつけられそうだ。
そのとき、話を聞きつけてきたのだろう。猪瀬さんという四十歳くらいの太った男性スタッフさんがやってきて、二人に提案してくれた。
「近くのコンビニに車を止めさせてもらっているんです。それで電車に追いつきましょう」
電停のそばにはコンビニエンスストアとドラッグストアがある。そこからすぐに車を出してもらえることになり、柚香と康介も後部座席に乗り込んだ。
ラッキーだったわ。きっと追いつく。
心配しながらも、柚香はそう思った。
「すみません、お手数をおかけして」
柚香は、運転している猪瀬さんの後ろの席で謝る。
「いや、こういう何かあったときのために、わざわざ会場の駐車場じゃないところに止めておいたんですよ」
「そうでしたか……」
猪瀬さんの話に、柚香と康介は感心する。
「ごめんね、わたしが不注意で」
柚香は左隣に座っている康介にも謝った。
「そんなことないよ。俺こそ、よく見てなくて本当にごめんな。いつも柚香に負担かけてるよな」
思ったより康介に深く謝まられて、柚香は慌てた。
「そんなことないよ。康介は役場の仕事も大変なのに、いつもいろいろ手伝ってくれて、感謝してるよ」
「いや、俺こそ柚香にはいつも感謝しているよ」
「何だか暑いな」
ハンドルを握っている猪瀬さんが呟いたので、柚香は更に混乱する。
太っている人には暑かったのか。
「ごめんなさい、人数多くて。こちらの窓も開けます」
柚香はそばにある右側の窓を開けて、風を入れる。
窓の外を覗くと、ちょうど道路の曲がる部分に来ていた。右折した途端に、へお電の後ろ姿が視界に入る。
「あっ、電車見えました。よかった」
まだ遠いものの、ほんの数分のうちにきっと追いつくだろう。
へお電のそばで話しかければ、へおちゃんも安心してくれるはずだ。できれば、それまでへおちゃんが何も気づかないでいてくれるといいのだけれど。
一番困るのは、へおちゃんが泣きながら電車を降りて、それでも柚香と康介が駅に着いていないケースだろう。早めに車を出してもらい、そうならずに済みそうで、本当に助かった。
ほっと一息ついて、柚香は前方に視線を向ける。
そこで、道路に黄色い看板を見つけたのだ。
『道路工事中。片側通行実施中』
「工事中みたいですね」
猪瀬さんも気づいていて、車は減速する。
アンラッキーじゃないの。
柚香の気分はがくんと落ちた。
黄色いランプがちかちかと回っている。その付近まで来て、とうとう車は止まってしまった。
ヘルメットを被った工事の人が、反対車線の車を通しているのを見て、柚香も康介もやきもきするしかない。
道路と線路が併用していない場所なので、へお電は速やかに走ることができる。
やっとこちら側の車線が通れる番となり、前方に並んでいた車と一緒にゆっくり進み始めた。
いつの間にか路面電車の姿は消えていた。
次の電停でもその次の電停でも、さらにその先でも追いつかなかった。どの停車場でも、乗る人も降りる人もいなかったのだ。
あと二つ電停を過ぎると、もう終点になってしまう。そこで、やっと電車の走る姿を捕らえた。
しかし、結局次の電停でもへお電は止まらなかった。
車内のへおちゃんは、もう一人であることに気づいただろうか。それとも。
いや、これだけ時間が経ってしまうと、気づいていない可能性は低そうだ。
へおちゃん、泣いているかなあ。お客さんもびっくりするだろうな。
へおちゃんが本物だということも、気づかれてしまうかもしれない。どうしよう。
柚香ははらはらするしかない。
もしも気づかれたら、電車から降りたへおちゃんを、この車に乗せて逃げるしかないのかも。猪瀬さんなら人がよさそうだから、へおちゃんを匿ってくれるかな。
そんな考えが一瞬浮かぶが、すぐに取り消す。とにかく、へおちゃんの無事を確認するまでは他のことは何も考えられない。考えたくもない。
へおちゃんのダム崩壊寸前のうるるるるっとした瞳が目に浮かぶ。何とも痛ましい気分だ。
ごめんね、へおちゃん。こんなドジな地球人にお世話をしてもらって。
道路は徐々に混雑してきた。そういえば、普段からこの辺りは混みあう地点だった。
へお電は見えたものの、なかなか追いつかない。信号機が赤に変わり、車は止まる。また引き離されてしまいそうだ。
柚香も康介も、遠くの電車の姿を目で追うばかりだ。
信号機が青になり、車は速度を上げる。
「あっ、止まりそう」
猪瀬さんの声に、車がまた止まりそうなのかと柚香は思った。が、何と次の電停でへお電の車両が止まったようだ。
幸いなことに、降りるお客さんがいたらしい。
「やった。これで追いつくぞ」
康介の声に、柚香は大きく頷いた。
「大丈夫みたいですね」
猪瀬さんも安堵した様子だ。
果たして、そのあとするするとへお電に近づき出した。やがて路面電車はゆっくりと発車したが、その車内の後ろの部分がはっきり見えるところまで追いついた。
「へおちゃん、へおちゃん、どこにいるかな」
柚香は祈るように呟く。
「後ろの方じゃないな。もう少し前に行かないと見えないかも」
康介の言葉に、猪瀬さんが確認するように話す。
「横に並びますよ」
へおちゃん、どんなふうにしているんだろう。大声で泣いてないかな。
「あっ、へおちゃんいた!」
へおちゃんのもふもふした毛並みが目に映る。へお電の前の方に確かに姿がある。
車はへお電の横に並んだ。もうすぐへおちゃんの真ん前に来る。
柚香は窓を全開にする。すぐに声をかけなくては。
口を開きかけたとき、康介の声がした。
「柚香、待って!」





