第36話 電車祭り、始まる
会社員時代は、全く余裕がなかった。
それなのに、何一つ自分がこれをやったと言えるものがなかった。虚しい繰り返しののちに、柚香は突然別の部署に異動になった。
そこはやたらと電話が鳴る、苦情処理だらけの職場だった。保険金が支払われないとか、保険料が違うとか、配当金がおかしいとか。
なかには酔っぱらって呂律の回らない人もいれば、最初から怒鳴り散らす人もいた。
「どうしてくれるんだ、訴えるぞ」
「お前じゃ分からん、社長を出せ」
急に苦情の渦に巻き込まれ、それでもこの場所に慣れようと、柚香は毎日覚悟して出勤し続けた。
こういう仕事だと割り切れたなら、馴染むこともできたのかもしれない。
だが、柚香は心まで不器用なのだろう。重い気持ちを一人で抱え込んでしまった。先輩にも恵まれなかった。周りの多くの人の眼差しが冷ややかだった。
仕事はあまり丁寧に教えてもらえず、それどころか「竹原さん、残業多すぎ。仕事は効率よくやらなくてはね」と注意を受ける。
電話ばかりが鳴り響く。
今思えば、無理にできるようになることばかり考えていて、疲れちゃったんだなと思う。
気がついたときには胃の痛みを覚え、さらに耳が聞こえづらいと感じるようになっていた。夜になれば耳鳴りがひどくて眠れない。
病院にかかると、医者に訝しげに問われた。
「左耳の鼓膜が全然動いていない。ストレスたまっていませんか。普通はこんなふうにはならないですよ」
電話をとるのは左手。左耳に常に罵声を浴びせられる。それしか原因は考えられない。
「精神的にも参っていて、体がついてこなくなっちゃって辞めたの。何だか頑張れなかった自分が嫌だったし、みんなが結婚して辞めると勘違いするの。わたしももう若くないんだなって落ち込んだりしたなあ」
「そうか。女の人の方が大変なんだな」
康介がしんみりと聞き入ってしまったので、柚香はかえって明るく言うことができた。
「あっ、何だか深刻になっちゃって、ごめんね。もう過去のことだし、わたしもすっかり忘れていたし、大丈夫。それより電車祭りの話、いろいろ聞いておきたいんだけど」
そのあとはへおちゃんも交えて、電車祭りの話になった。
それでも、柚香はこんなに早く、人に退職したことを聞いてもらえる日が来るとは思わなかった。
思い出しても全然苦しくなかった。
過去の仕事のことは、もう自分のなかで区切りを迎えたのだろう。
康介に聞いてもらえたことで、癒されたように感じていた。
電車祭りは、日曜日の十時から三時までの間に行われる。
柚香と康介とへおちゃんは、開始前に町長の車で会場まで行くことになっている。
運転はさすがに鶴田さんで、へおちゃんは「着ぐるみを着たまま」乗り込む予定だ。町長はひそかに別の車で会場に行き、視察はするようだが、すぐに役場に戻るらしい。
へおちゃんは、十時に来場者が会場へ入るところで手を振ってお迎えをする。そのあと、会場内の数か所でへお電のグッズを持って宣伝しながら、握手したり写真に入ったり、いつものような活動をする。
二時くらいにはへお電の電停に行き、帰宅する人々を見送る。その際、そのままへお城へ向かってくれるよう誘導することになっている。
更に、柚香と康介とへおちゃんは、二時過ぎにやってくるへお城方面行きの車両に乗って、乗客をお城まで呼び込む予定だ。一度は会場へ戻り、また繰り返すことになっている。
「へおちゃん、電車に三回乗れるよ」
「へおへおへおおっ」
へおちゃんが喜びの声を上げる。
「最初に行くときは、町長の車なんだけど、帰るときは電車に乗るの。『へお電車庫前』から『へお城入口』までを往復してから、もう一回乗ってお城に帰るの。お客さんと一緒に行くんだよ。電車とへおちゃんの写真も撮ってあげるよ」
柚香はへおちゃんの様子に、楽しげに説明を補足する。
「へおへおへお」
「楽しみだって言ってるよ」
康介が笑って伝えてきた。
前日ともなると、へお城にも電車祭りの準備スタッフがやってきて、打ち合わせをした。
「着ぐるみは脱いでいいですよ。本番のときに着てもらえばいいですから」
そうへおちゃんに気遣ってくれるスタッフさんもいたけれど。
「いえ、このままで一通り聞いておきますから、お構いなく」
康介が答えると、柚香も話を合わせる。
「へおちゃんは、なかが秘密のキャラクターなものですから」
それだけ言えば、あまり怪しまれないようだった。
たまに「本当に本物っぽいねぇ」と感心されることが多いくらいで。
へおちゃん最大のイベント、『へお電 電車祭り』の日がやってきた。
十一月二十三日、日曜日。
午前八時過ぎ、給湯室に予定通り鶴田さんが迎えに来た。
「へおへおっ」
電車のせいか、朝からへおちゃんのテンションが高い。
柚香も今朝は早くから給湯室に出勤している。康介が荷物を点検する。
柚香も忘れ物がないか確認してから、へおちゃんと手をつなぐ。
「鶴田さん、よろしくお願いします」
柚香がにこやかな表情で鶴田さんに一礼する。
「こちらこそ」
頭を下げてくれたものの、鶴田さんの表情は硬いままで、声はやや冷たく感じる。服装もまるで戦闘服のような濃紺のスーツだ。
「……」
康介から気難しそうな感じの人だと聞いていたものの、鶴田さんがへおちゃんを見ても、何も言わないのが不満になる。
「かわいいですね」とか「着ぐるみ暑くないですか」とか。
「本物みたいですね」と疑われないのは楽と言えば楽なのだが、すっかり保護者気分の柚香には、何だか物足りなかった。
鶴田さんの運転で、へお城を後にする。
周りの木々がざわざわと揺れている。赤や黄色になった葉が車の後ろへ流れていく。
少し風があるものの、よく晴れそうだ。
会場では、すでに電車祭りの看板などが設置され、お店のテントが並んで、それぞれ準備を進めている。
他の鉄道会社のブースもいくつかある。それぞれの鉄道の模型、電車のおもちゃ、電車の描かれたクリアファイルやノートなどの文具、お弁当箱や水筒などいろいろなグッズが並んでいる。
ペットボトルなどの飲料を販売するテントもある。お祭りらしく、たこ焼きやりんご飴などもある。お弁当屋も来ている。
へお町観光協会の看板のあるところには、へお町や周辺地域の特産物やお土産が並んでいる。もちろん、へお茶もあればへおちゃん煎餅やへおちゃん饅頭、それにへおちゃんのぬいぐるみ、キーホルダーやミニタオルなどのグッズは、お城の売店と同じように取り揃えてある。
キッチンカーのクレープ屋に、柚香は吸い寄せらせる。けれど、へおちゃんが焼きそばのテントに身を乗り出すのを見て、はっとする。
「すみません、予約してもいいですか」
柚香は、焼きそばのお店にお昼ご飯を予約しておく。へおちゃんの嬉しそうな表情と出会った。
子どもたちのためのスーパーボールすくいには、へおちゃんが大きな瞳で見入っていた。電車の塗り絵をするコーナーもある。
鉄道マニア向けに、鉄道部品販売コーナーも設置されていた。つり革や古い行先表示板、駅名表示板などが売られている。一体どうやって持って帰るのか、古い電車の座席までがあった。
メインはなんといっても、車庫のなかにある。
へお電のへおちゃんラッピング車両だ。
黄色に黄緑色の帯。あちこちにへおちゃんが描かれている。
前面ではへおちゃんが手を振っている。側面では走ったり、跳んだり、窓を覗き込んだり、お茶を飲んだり、眠ったりしている。
目立つ色合いにかわいいへおちゃんが描かれているとあって、人気を呼びそうだ。
他の車両も二両展示されており、工事用の工作車も一台並んでいた。
車掌の放送をする体験やドアの開閉体験、運転台に入って運転士の体験をするコーナーなど、子どもたちや鉄道ファンの喜びそうなものがいろいろとあった。
そのひとつひとつが、へおちゃんにはとても魅惑的だったようだ。
へおちゃんの瞳は、まるで潤沢な水を湛えた湖のようだが、陽光を受けたかのようにきらきらと輝いていた。





