第34話 テツタと町長
日曜日に、柚香はまたあの男の子の姿を見かけた。
テツタ君だ、とすぐに気がついた。
テツタはこちらにやってくると、へおちゃんをちらっと見てから柚香に告げた。
「職員さん、前にへおちゃんはアイスクリームを食べていたよね」
「えっ」
いきなりの質問に、柚香は慌てふためいて、言葉が出てこない。
「ああ、へおちゃんの口にアイスがぶつかっちゃったんだよね」
後ろから、康介が援護してくれた。
「それが食べたように見えたのかな」
柚香も何とか気持ちを立て直して、口裏を合わせる。
「ふーん」
テツタはそんな声を出すが、全く納得している様子はない。
他に観光客がいないので、へおちゃんはその場でどんぐりを拾い始める。子どもの入った着ぐるみなら大丈夫な行動かなと柚香は思う。だけど、このままでは落ち着かない。
「ね、テツタ君は、へおちゃんが本物に見えるの?」
柚香が問いかけると、テツタはむっとした顔をした。
「テツタ君じゃ、子どもっぽいよ。テツタって呼んでよ」
まだ充分子どもだと思いつつ、柚香は言い換えることにする。
「じゃあ、テツタ。これでいい?」
「うん、いいよ」
「テツタは、へおちゃんが本物だと思う?」
「うん、本物でしょ」
あっさり言われてしまった。
柚香も康介も呆気にとられる。
テツタの言い方は断定のように思える。本当に、へおちゃんが本物だと見抜いているのだろうか。
柚香は気が動転してしまう。康介も黙ったままで対処を思いつかないようだ。
こういうときって、どうすればいいの。
柚香は何も考えつかず、息が詰まりそうになる。
ところが、テツタは急にすたすたと歩き出した。
「また今度ね」
「ま、また……」
柚香はやっと声を出したが、テツタは振り返りもせず、そのまま公園の林の奥へ消えていった。
「あの男の子、気になるな」
夕食後にパンを食べながら、康介はテツタのことを改めて話題に出した。
へおちゃんは今日も焼きそばパン、柚香と康介は秋限定のさつまいもパンを半分ずつ食べている。
「本当に。もっと小さい子だったら、本物だと言われたら本物だと返せばいいだけだよね。でも、十歳だって言ってた」
柚香が答えると、康介も考え込んだ。
「十歳か。小学四年生か五年生くらいだな」
昨日そのくらいの年齢の康介を写真で見たことを思い出して、柚香は一瞬どきりとする。
心の小舟に波がざぶりと降りかかる。
気を取り直して、柚香は話す。
「難しい年ごろだよね。何度もへお城に来ているような感じだったね。へおちゃんのことも、よく見てたんじゃないかな。ごまかしがきかないかも」
康介は腕を組んで、少し間をおいてから話した。
「逆にあのテツタのプライドを刺激するのもありかもな。へおちゃんがへお城にいるのも、あと一か月くらいなんだから、ごまかせなければないで本当のこと言っちゃうのも一つの手かも」
「ええっ」
「俺だけ真実知っているんだぜ、って隠すこともあるかもな。もしも他の子に何も言わずに、へおちゃんを調べているとしたら」
「そんなこともあるかな」
康介の言葉を聞いて、柚香はいろいろ考えを巡らせてみた。
またテツタが来たら、今度こそ何か話さなければならないだろう。
「そういえば、町長、最近来ないな」
康介はパンのかけらを手にして、口に入れた。
「町長? 忙しいのかしら」
柚香も自分の分を同じようにちぎって、口にする。
確かにこのところ、亀野町長がへお城に偵察に来ていないことに気がついた。
町長は時々週末にへお城にやってくる。
「僕には先見の明があるだろう」と自慢げに話したり、「僕の目に狂いはなかった」と不敵な笑みを浮かべたり、「どうだね。僕の言った通りだろう」と腰に手を宛てて反っくり返ったり、来るたびにうるさくて煩わしいのだが、来ないと何だかすごく気になる。
「最近役場で呼ばれることもないしなあ、へお電のこともあるから、近いうちに俺のほうから町長に話しかけに行っておこうかな」
「へおおーっ」
へおちゃんが大きな声を上げた。
「はい、ごちそうさまね。口をちゃんと拭いてね」
柚香は、口の周りがソースだらけのへおちゃんにティッシュペーパーを差し出した。
「へお」
へおちゃんは素直に口をぬぐう。焼きそばパンにすっかり満足らしい。
「俺もごちそうさま」
康介もパンの袋をまとめる。
「これもおいしかったなぁ」
柚香も満足して片づけ始める。
「町役場の近くのパン屋さん、本当においしいものばっかりだね」
「毎日寄ってない?」
「毎日じゃないけど、結構行ってるかも。でも、ちゃんと康介にもおすそ分けしているでしょ」
「うん、夕食後のおやつパンが癖になりそうだよ」
康介は屈託なく笑う。その表情に、また柚香の心の小舟がふわっと揺れた。
翌々日の午後、へおちゃんと柚香が観光客をもてなしているところへ、康介が来てくれた。あれ以来、桜井さんに売店の手伝いを頼まれることがないので、ありがたいことだ。
「さっき、役場でスタンプを設置する場所を決めたんだよ」
康介が教えてくれる。
「スタンプって、電車祭りのときの? 何か所かあるの?」
「うん、電車祭りの会場が五か所、へお城と公園で三か所」
「そうなんだ。みんなが来てくれるといいね」
電車祭りの日に、その会場だけでなくへお城にも来てくれるように、両方共通のスタンプラリーをすることになったのだ。
スタンプ八か所を全部回って、押印した台紙を電車祭りの会場かへお城に持っていくと、景品がもらえることになっている。
ビニール製のへおちゃんの小さなキーホルダーと、へお電のカードケースのセットだ。
大したものではないが、子どもになら喜んでもらえるかもしれない。スタンプラリー自体が好きな子やスタンプを押すのが好きな子も多いのだから、これはこれでいいに違いない。
「役場も大変そうだけど、順調に進んでいるんじゃない?」
柚香が問いかけると、急に康介の顔が曇った。
「それなんだけどさ、亀野町長が町長を辞めようとしているんだよ」
亀野町長が、町長を辞めようとしている。
柚香にとっても、思いがけない話だった。
「詳しい話は聞けなかったんだけど、たまたま俺が町長に会いに行ったら、もうすぐ任期満了で新しい町長候補を何人か選ぶって話をしていたんだ。鶴田さんと上役の人たちとで相談しているみたいだった」
「町長は何か言ってたの?」
「話が終わってから訊こうと思ったんだけど、また次の会議が入っているらしくて。町長、辞めるんですか、って何とか尋ねたら、疲れたんでねって一言だけ」
「それって、本当に辞めるってこと?」
「らしいな。何だかせっかくいろいろやってもらったし、へおちゃんのこと唯一知っている人だから、もっと続けてほしい気がするんだけどな」
康介は小さくため息をついた。
「わたしも亀野町長には続けてほしいって思うよ」
柚香は言葉に思わず力を込めた。
亀野町長は、確か十二年ほど町長を務めている。四年で任期満了になるところを、三期こなしているわけだ。
へおちゃんのことを任されたことで、柚香としても町長に続けてもらいたい気持ちだ。
バイト料は町から出ているものの、へおちゃんのお世話にかかる費用はすべて公費から出ているわけではない。町長の給与の一部を削っているのだ。たとえば、へおちゃんが意外と大食漢で、食費がかさむとひと言告げれば、町長の懐からちょっと足してくれたりする。
「仕方がないな」で済ませてくれる町長に恩義があるのは当然だ。すぐに口出しするところを別にすれば、町長のさっぱりした人柄はよかった。
町長の急な退任の話を聞いて柚香も心配になったが、今は理由を聞く機会もない。
もやもやする出来事だ。
もしかしたら、今回の電車祭りが集客に役立ってへお電もへお城も観光客が増えれば、また考え直してくれるかもしれない。
康介と話し合って、結局は柚香もそう思っておくしかなかった。





