第30話 帽子を拾って
振り返ると、鷹黒さんがこちらへ歩いてくるところだった。
同じへお城のスタッフなので、鷹黒さんと会うことはあるのだろうけど、何とも妙なタイミングで現れたものだ。
鷹黒さんは康介の持っている網を掴もうとする。
「お前は着ぐるみ係だろう。着ぐるみのところにいればいい。俺が取る」
そう言われると、康介は引くしかない。
「それじゃ、お願いします」
網を渡されると、鷹黒さんは悠然と構えて帽子へ近づく。
周りの人たちは、その様子をじっと見つめている。
何だかいいとこどりだ。
柚香は無性に腹が立つ。以前会ったときの印象もあるし、今の様子も気分が悪くなる。
へおちゃんとへお城を歩いているとき、女性スタッフさんに「女のくせに」とか「女は男の仕事を助けるものだぞ」とか文句をつけているのを聞いたことがある。
早退する女性に「どうせデートだよな」と、からかったりしていたのも知っている。
鷹黒さんに女性蔑視なところがあるのは、前から気づいていた。
柚香はなるべく近づかないようにしてきたのだ。
鷹黒さんは木の板の上から、見せつけるように網で水中の帽子を掬った。
周りのみんなの安堵するようなどよめきがした。
鷹黒さんが柚香に向かって帽子を差し出したので、仕方なく帽子を受け取る。
柚香はタオルで帽子を拭ってからビニール袋に入れ、女の子に持っていく。
「帽子、ちょっと水に浸かっちゃったけど、大丈夫そうね。帰ったらおうちの人に洗ってもらってね」
「うん、ありがとう」
女の子が受け取って、お礼を言ってくれる。
「よかったな。今度から気をつけるんだぞ」
鷹黒さんが得意顔で話す。
「はい」
女の子の素直な返事が救いだが、鷹黒さんの自分が取ってやったぞという素振りがどうしてもいらつく。
何しろ、この間のことがある。
にやにやしながら「お嫁に行かない年じゃないだろう」なんて、思い返すだけでも心底むかむかする。
柚香はへおちゃんを連れて早くその場から離れたいが、網も一緒に返してもらわなければならないので、そのまま待機するしかない。
こみ上げてくる腹立たしさと、柚香は戦い続ける。
鷹黒さんは網を振って、水滴を落とそうとした。
「あ」
どうやら網に、泥のついた小枝が引っかかっていることに気づいたようだ。鷹黒さんはもう一度池のほうに戻って、そのまま網を水に入れて枝を流そうとする。
「何だ、取りづらいな」
鷹黒さんは一人、網を何度か水に入れたり引いたりしている。それでもうまくいかないようだ。
「面倒だな」
呟きながら網を池のそばの木に叩きつけて、泥と枝を落とそうとした。その途端、ずるりっと滑る音がして、鷹黒さんの「わっ」と叫ぶ声がした。
次の瞬間、バシャーンと見事に水に落ちる音がした。落ちたのは鷹黒さんだ。
むかつく気持ちを一瞬忘れるほど、柚香は驚いた。
「鷹黒さん!」
柚香が駆け寄ると、鷹黒さんは水面からぷはっと顔を出した。
さすがに足は着くようだが、胸のあたりまで水が来ている。
「どけよ。自分で上がるから」
池のなかの鷹黒さんは、恥ずかしさを隠そうとするためか、強く言い放った。
柚香はタオルを持ったまま、木の板を少し下がって、鷹黒さんが上がってくるのを待つことにした。
「全く何でこんなことに」
ぶつぶつと文句を放ちながら、鷹黒さんは水のなかを木の板まで進む。
頭の上から全部びしょ濡れだ。髪の毛が顔に張りついていて、手で払ったりしている。その腕も服に水が染み込んで重そうだ。
「よっと」
鷹黒さんは足を板にかける。体を持ち上げた途端、足がずるっと滑る。
バシャーンと、またしても派手な音がした。
「大丈夫ですか!」
柚香が声をかけると、鷹黒さんはすぐ水から顔を出した。
「大丈夫だって言ってるだろ」
わめくように言い捨てながら、今度はしっかり板に上がった。上から下まで完全にずぶ濡れだ。
空はすっかり曇っている。きっと冷えるだろう。
柚香はタオルを持って鷹黒さんに近寄る。
「早く貸せよ」
ぶっきらぼうに言われ、柚香はまた悪い気分が戻ってきてしまった。それで、わざと鷹黒さんの背中にちらりと目をやる。
「あら、チャックついていませんねぇ」
「なっ……」
鷹黒さんはむっとしたものの、すぐに顔をしかめて池の方へ背けた。
「ぶはっくしょい」
突然のくしゃみに、様子をうかがっていた子どもの間からくすりと笑い声が聞こえた。
「笑うなっ」
大声を出すものの、冷たい風がびゅっと吹くと、鷹黒さんは震え上がる。
「ぶへっくしょい」
途端に子どもも大人も声を立てて笑った。
柚香も康介も笑いをこらえるのに必死だった。
へおちゃんと一緒にようやく給湯室に戻ることになって、二人ともはじけたように笑いあう。
殊に康介はなかなか笑いが止まらない。
「柚香が鷹黒さんにチャックって言ったのもおかしかった。俺、鷹黒さんの口にチャックがほしいと思っていたけど、言えないから」
鷹黒さんは、西口に自分の車を止めてあるとのことで、結局そのまま帰ってしまった。
翌日になっても、スタッフのなかに鷹黒さんの姿はなかった。もしかすると、風邪を引いて休んでしまったのかもしれない。
その後も現れず、町長が配置替えをしてくれたのかもしれなかった。
あるいは自分から配置替えを訴えて、それが通ったのかもしれない。
翌々日、連休最終日で天気にも恵まれ、人出の多い日のことだった。
柚香は康介と一緒に、へおちゃんと観光客の写真を撮ったりしていた。
ちょうどそういう波が去って、柚香がほっと一息ついたときだった。
男の子が一人、こちらへやってきた。
「ねぇ、職員さん」
「はい」
写真でも頼まれるかなと思って柚香が返事をする。
「へおちゃんって……」
へおちゃんのことで何か訊きたいらしいが、なかなか言わないので促してみた。
「うん、へおちゃんって?」
男の子ははっきりと声に出した。
「へおちゃんって、本物なの?」
ついに来た、この質問。
最初は警戒していたものの、実のところ、これまで誰も尋ねてこなかったのだ。
先入観というか、思い込みというのは不思議なものだ。
小さな子ども以外は、みんなへおちゃんを着ぐるみだと認識しているせいか、今まで全くこういうことはなかったのだ。
隣で康介も明らかに緊張している。
「僕はどう思う?」
柚香は逆に訊き返してみた。もっと小さい子なら「本物だよ」で済ませるのだが、そう単純にはいかない年齢じゃないだろうか。
「俺は、テツタっていうんだよ」
「テツタ君ね。テツタ君はいくつ?」
「十歳。へおちゃんは、本物の生き物じゃないの?」
「テツタ君はそう思うんだ」
ちょっと難しくなってきたぞ。
「テツタでいいよ。俺、ここにはよく来ているんだ」
「あっ、へおちゃんがいる。へおちゃん」
小さい子の甲高い声が、この空気を突き破る。ちょうど小さな女の子がこちらへ向かって来ていた。
「よかったな、へおちゃんに会えて」
その子のお父さんらしい人も一緒だ。二人が近づくと、へおちゃんが喜んで迎えた。
「へおおっ」
女の子とへおちゃんが握手をして、お父さんがデジカメを取り出す。
「写真撮ってもらっても、いいですか」
「はい」
近くにいた康介は、カメラを受け取る。
テツタという男の子は、黙ってその様子を見ている。
柚香は声をかけようかと思いながらも、さて何と言うべきなのか、考え込んでしまう。
「職員さん、次いいですか」
後ろから声をかけられて、柚香は振り向く。
見ると女の人が二人、スマホを持って立っていた。こういう若い女性にもへおちゃんは大人気なのだ。
「はい、撮りますよ。へおちゃんと握手もしてくださいね」
柚香はそう話した。すると、ふと男の子の気配が消えた。
男の子はへおちゃんのことを尋ねるのをやめて、いなくなってしまった。
何だ。いろいろ考えていたのに。
柚香は肩透かしを食らった気分だった。
それにしても。
柚香は思い出した。
あのテツタっていう男の子、一昨日帽子を落とした子を知らせてくれた男の子だよね。それだけじゃない、前にも何度か姿を見かけている。
へお城の近くに住んでいる子なのかしら。へおちゃんが本物って、何となく思って尋ねてみたかっただけなのかな。
柚香は、そのときは軽く考えていたのだった。





