第26話 へお城の猫たち
「あっ、ポチャだ」
猫の声に、康介はすかさず両手の荷物を下ろして、その場にしゃがみ込んだ。
「おいで」
ポチャと呼ばれる白猫は、迷いもなく康介のところにやってきた。柚香もへおちゃんもすでに知っている猫だ。
康介の足元にまとわりついた猫を、へおちゃんも手を出して頭や背中を撫でる。
「へおへお、へおへお」
もふもふのへおちゃんが、もふもふしている。なんとも和む光景だ。
こんなときでさえ、柚香は癒される気分だった。
「にゃーん」とまた鳴き声がした。
すぐに三毛猫が姿を現した。こちらも迷わず康介に寄ってくる。
「マイクも来たね」
柚香がへおちゃんに話す。
「な、何で猫がこっちに……」
桜井さんの声が何だか震えている。どうしたのだろう。
「みいみい」とさらに茶トラの小さい猫がやってきた。
康介がいる上に、買い出しした食材の匂いに誘われているに違いない。
「トラック」
柚香は、康介の近くに来た茶トラの猫を抱き上げた。へお城で初めてへおちゃんに会った日に見かけた仔猫だ。その後も何度か会っていて、今では柚香にもよく懐いている。
「へおおっ」
へおちゃんが柚香の抱いた仔猫を覗き込んで喜んでいる。
「あの、猫……」
桜井さんのか細い声に、康介が白い猫を撫でながらも答える。
「へお城には結構猫が棲んでいるんですよ。こいつがポチャ。何でかっていうと、一見白猫に見えるのに、ほら、お尻の辺に茶色い毛がちょっとだけあるんですよ。ぽつんと茶色があるから、ポチャ」
「そ、そうですか」
桜井さんは、さっきまでの笑顔が全くなくなっていた。それどころか、顔が引きつって唇がゆがんでいる。美人が台無しだ。
康介はそれには気づかないのか、今度は三毛猫の頭に手を置いて、桜井さんに紹介する。
「こっちがマイク。三毛猫だからミケってところだけど、それじゃ芸がないってことで。ローマ字でMIKEって綴ると、英語ではマイクになるから、そのまま名前にしたんですよ。マイクは本当は雌なんだよな?」
最後は猫に話しかける。
「こっちは、トラック」
柚香も抱き上げた猫を桜井さんに見せる。桜井さんは、一歩後ろに退いた。
「今年生まれた子なんですよ。まだ小さくて、大きくなってほしいから、トラック」
康介が桜井さんに楽しそうに説明する。
どの名前もみんな、へお城のスタッフが勝手に名づけたものだが、センスを疑いたくなる。
桜井さんは、また一歩引いた。
「どうしたんですか」
康介がおもむろにマイクを抱き上げて、桜井さんと向かい合った。その瞬間。
「ぎゃああああああっ。近づけないでっ」
桜井さんの悲鳴が響き渡った。
「もしかして猫、苦手?」
康介がひどく驚いた表情で、マイクを抱きなおす。桜井さんは、震えながらまた後退る。
「しっ、しっ」
猫に向かって、手を振る。
そこまで苦手なのか。柚香も無言のまま、呆然とした。
「犬とか猫とか、大嫌いなんです。毛だらけで汚そうだし、かみつきそうじゃないですか」
「大丈夫ですよ。少なくとも、この公園の猫はそんなに危険じゃないと思いますけど」
「でも、嫌いです」
桜井さんの顔色は明らかによくない。本当に怖がっているようだ。
「へおちゃんの着ぐるみさんも、本物そっくりで怖いです」
「えっ」
柚香と康介は、一緒になってぽかんとする。
「へお?」
意味が分かったのか、へおちゃんもぽかんとしている。
さすがのへおちゃんも、大人に怖いと言われたことはない。
今、この瞬間。
世界中で最もへおちゃんが着ぐるみでないことを隠さなきゃいけない人物は、桜井さんだと断言できるだろう。
三人の様子に、桜井さんはばつが悪くなったのか、荷物を握りしめる。
「あの、もう売店に戻らないといけませんので」
「あっ、分かりました」
康介がマイクを下ろして、両手に荷物を持って一歩動く。
「なおーん」
「にゃおーん」
二匹の猫が、去ろうとする康介に気づいて足元にすり寄ってくる。
「ど、どうして猫がついてくるんですかっ」
桜井さんの声は半泣きだった。
「あ、すみません。僕、子どものころから動物に好かれるタイプらしくて」
「え」
信じられないという顔をする桜井さん。対して康介は、柚香の方へ顔を向ける。
「そうだよな、柚香?」
「え。あ、わたしと康介は幼馴染なんです。康介は小さいころから仔犬を拾ってきたり、猫とよく遊んだりしていましたよ」
柚香は康介の言葉に合わせる。
「そうですか」
紙のように白い顔で、桜井さんは返事をした。
康介は、猫たちに「また今度遊んでやるよ」などと話しかけてから帰す。柚香もトラックという名の猫を下ろして帰した。
桜井さんは、心底ほっとした表情だ。
「それじゃ、行きましょうか」
康介は桜井さんに声をかける。
「はい」
桜井さんは小さく声を出したが、表情は硬いままだ。
「それでは、失礼します」
柚香は先に桜井さんに挨拶をした。桜井さんは無言で小さく会釈するだけだった。
「またな」
康介が挨拶してくれたので、柚香はこくんと頷く。
「うん、またあとで」
柚香は、気分よく二人を見送る。
そのとき、遠くから猫の「なおーん」という声がした。
康介の隣で、桜井さんがびくりとする。はずみで肩からブランド物のバッグがぽろりと落ち、慌ててかけ直すのが分かった。
遠ざかる二人を見ながら、柚香はにまにましてしまった。
若くて美人で積極的な桜井さんに、自分が何も敵うわけがないと思っていたけど、そうじゃないかも。まさか桜井さんは動物が苦手だとは。康介の近くにはよく犬や猫が寄ってくるというのに。
わたし、もふもふなら、犬でも猫でも宇宙人でも友だちになれるもの。
それは自慢できることなのか分からないが、何だか突然の優越感に浸りたくなる。
「へおちゃん、そろそろ戻ろうか」
「へおっ」
もうへお城も閉館に近い。お城付近を見て回ったら、今日の仕事は終了だろう。
夕日を浴びながら、柚香は弾んだ気持ちでへおちゃんと一緒に歩き出す。
アキアカネの群れが飛んでいく。
中央広場を越えてしばらく行くと、金木犀の香りが漂ってくる。小さなオレンジ色の花々が地面に絨毯のように散らばっていた。
給湯室で夕食の用意を始めたところへ、康介が売店の手伝いから帰ってきた。
「お疲れさま」
柚香はにこにこと笑顔で声をかける。
「お疲れさま」
康介も楽しげに声をかけてきた。
自分としては、桜井さんに勝ったという気分でるんるんなのに、何だか康介も上機嫌なのだ。
「へおへお」
へおちゃんも「お疲れさま」と言っているらしい。
夕方に三人で集まるときは、こう挨拶するのが習慣になっている。
「いやあ、今日は助かったよ」
康介の言葉に、柚香は自分が言いたかった台詞だと思う。
「桜井さん、猫とか動物が苦手だったんだな。ちょうど分かってよかった」
「何が?」
柚香は自分が思っていることを康介が言い出すので、不思議に思った。
「明日から売店は手伝わなくていいって言われたよ」
「え」
嬉しいのだけど、あまりにも柚香には都合がよすぎる。
「俺、桜井さんと会わずに済んで助かるよ」
康介の言葉に、柚香は目を見開いた。
「桜井さんってさ」
康介は鞄を置きながら話をする。
「苦手だったんだよね。俺は役場の人間だから仕事柄お願いすることが多くて、売店で手伝いとか頼まれるとどうしても断れなかったんだけど」
「そうなんだ……」
てっきり康介が桜井さんと親しくしていると思い込んでいた。
柚香は、嬉しすぎて何と返事をしたものか分からない。
「今日夕飯食べに行きませんかとか何度か言われたんだよ。このバイト中は無理だって話したんだけどね。売店は忙しそうだったけど、他にも手伝いを頼めそうな人がいたみたいだし。俺、あんまり言ってくる女の人って苦手なんだよ」
「そうだったんだ。大変だったね」
柚香は同情しつつも、にやにやするのを抑えるのに懸命だ。
積極的な桜井さんのことを、康介はむしろ好きじゃないとは。
「康介って、もてそうだよねぇ」
ひとり言のつもりが、いつの間にか口に出していた。
柚香は気づいて慌てたが、康介にははっきり聞こえてしまった。





