第25話 柚香の心
「柚香、そろそろ起きないと。お弁当、作るわよ」
母の声に、柚香ははっと目を覚ました。
朝だ。
時計を見て取り乱しそうになる。いつもより三十分遅い。
昨夜、考え過ぎて遅くまで眠れなかったのだ。
頭がぼんやりしてどこか熱っぽい。胸がきゅうきゅうと切なげに痛む。
寝不足かな。まさか恋患いなの……?
風邪みたいに、このまま熱を出して倒れたりしたら冗談にならない。へおちゃんのお世話ができなくなったら大変だ。
しっかりするのよ、柚香。
胸元に左手を置き、拳をぎゅっと握りしめる。
昨日のことを考え込まない。昨日までの積み重ねをひとつまた、重ねていくだけ。
そう心に決める。
お弁当を作って早く出かけなければ。
ばたばたと二階から降りる。
「すぐやるから待って」
柚香は気持ちを切り替える。
月曜日はへお城の休館日なので、へおちゃんと少し散歩したくらいで、あとは給湯室でゆっくり過ごした。
普段のように昼食にパンを食べる。へおちゃんは、約束の焼きそばパンに大喜びだった。
その様子に心温まりつつも、時たま胸が疼くのを感じる。
朝から食欲がなかったので、元気づけに自分の好きなメロンパンを買って食べた。
へおちゃんがお昼寝をしている間に、柚香は編み物をする。
このところ、あまり進んでいなかった。参考にしている編み物の本には、動物の編みぐるみ以外に男の子と女の子の見本も載っている。
全部で三体作るつもりなのに、へおちゃんの編みぐるみもまだ制作途中だ。
へおちゃんが宇宙に帰るまでに作って、プレゼントしてあげようと考えている。
ちょっと遅れているなあ。
家でも進めなくちゃ。しょうがないことを悩んでないで、ひと編み、ひと編み続けていこう。
今週に入ってからも、康介は午後遅くには手伝いに来てくれた。
自分の気持ちに気づいてしまうと、実はバイトでやることなすこと、爆弾だらけだったことが発覚した。給湯室は、まさしく地雷原であった。
よくよく考えると、康介と話し合う機会がとても多い。おまけに毎日夕食が一緒だ。
柚香はこれまで通りでいようと心に決めた。爆弾とかいう考えを無理やり消滅させる。
実際、毎日へおちゃんの世話や観光客とのやり取りで忙しいし、問題もいろいろ出てくる。仕事だと割り切れば、日中は思ったより康介のことを意識しないで済んだ。
夜遅く、柚香は自分の部屋で編み物の手を休めて、ため息をつく。
窓の外には黒い山々が遠くに見える。その上には、弓張り月がかかっている。
満月の夜にへおちゃんはやってきた。その月が巡って一度は満月に戻り、それからまた半分になっている。
公園を歩き回り、夕食を三人で食べる日常。へおちゃんがいて、康介がいて、自分がいる。
こんなことは全く当たり前のことじゃないのに、ひどく馴染んでしまっていたことに、柚香は改めて驚く。
桜井さんのことは気になるけど、売店の手伝いは普段は休日だけだし。こっちはそれに比べたら長く康介と一緒なんだもの。
自分に訪れた恋を否定することなく、今はその時間を大切にしよう。
自分で自分に言い聞かせる。
精一杯やろう。悩み過ぎず、楽しくやろう。
柚香は、再び編み物を手に取った。
木曜日の午後、康介がやってくるなり告げた。
「明日、午後から売店の手伝いを頼まれたんだ」
「えっ」
「忙しいのに、ごめんな」
柚香はやっとの思いで、首を横に振る。
「ううん、向こうも大変そうだもんね。康介、あまり休めなくて大丈夫?」
「うん。火曜水曜とゆっくりできたから。今日からしばらくいい天気らしいよな」
「そうだね。今日も夕方まで忙しいと思うから、よろしくね」
明るく喋るのが、こんなに辛いとは。
柚香の心は灰色にくすんでいた。
休日だけでなく金曜日までも、康介を取られてしまったように感じる。多分、桜井さんが康介にお願いしたんだろう。
もとはといえば、平日の康介のへお城での仕事は、夕方五時から翌朝九時までの間、へおちゃんのお世話をすることだったのだ。それを自分とへおちゃんのために早くから来て、手伝ってもらっている。
売店も忙しくなったとはいえ、想定していなかった。
桜井さんは、明日からの三日間とも売店を手伝ってほしいと、康介に頼むに違いない。
ずっしりと柚香の心は重くなった。
桜井さんと康介がこのまま仲良くなるのかな。
闇のように暗い気持ちを引きずりつつも、何とかへおちゃんと康介の間で頑張った。
夕食のお弁当を食べ終えると「今日も疲れたから」と話して、早めに帰ることにした。
「大丈夫か、柚香。無理するなよ。お弁当、明日は作らなくてもいいからな」
「うん。また明日。夕方に」
夕方に、は余計だったかもしれない。けれど、桜井さんが売店の手伝いを午後から依頼したら、きっと閉店まで康介は向こうにいることになるだろう。
でも、無理するなという康介の言葉に、逆に柚香は奮い立つ。
間違っても、お弁当は作るよ。だって、康介とへおちゃんのおかげで作れるようになったんだから。これだけは、最後まで続けよう。
明日にでも気持ちを落ち着かせて、またゆっくり食べて、お喋りしよう。
柚香は、まだまだいろいろと譲れないのだった。
翌日は行楽日和だった。平日とはいえ、観光客も多くなった。
「へおちゃんかわいい」
「へおちゃんと握手したい」
子どもたちをはじめ、へおちゃんは相変わらず大人気だった。
「へおへお、へおへお」
葉名橋市ご当地キャラクターの『はなっしー』のように立て板に水のごとく話すわけではないが、へおちゃんの「へお」とか言う声もかわいいと喜ばれている。
うるうるっとした瞳は誰もが見入ってしまうし、垂れた耳が時々ぴんと立ったり、短い尻尾をぷるぷる震わせたり、毛並みをわさわさ揺らしながらする、すべての動作が愛らしい。
そんなへおちゃんと一緒にいて、柚香はどんなときも癒されている。
それに、ひと月以上たって慣れてきたことも多い。たまにトラブルがないでもないが、そつなくこなせるようになってきた。
柚香はここまでやってきたことが少しは自信になっていた。
観光客を相手に過ごすうちに、気づけば午後も遅くなっている。
人が途切れたところで、へおちゃんはドングリをたくさん拾っている。最近のへおちゃんのブームなのだ。
柚香はしばらくその様子を見守って、またへおちゃんと歩き始める。
たとえ今、康介が桜井さんと楽しく売店の仕事をしていても、自分は自分できちんと仕事をしよう。
柚香は自分に言い聞かせる。
康介のことなんて、今は考えない。
すると、声が降ってきた。
「柚香」
何で康介の呼ぶ声がするのやら。まだ、わたしは康介のことを考えているのかしら。
「おい、柚香」
幻聴がするとは、わたしも困ったもんだ。康介は桜井さんと売店にいるはずなのに。
「柚香。大丈夫か」
「え、康介?」
いつの間にか、康介がすぐ近くに来ていた。
売店の仕事が早めに終わって、こっちへ戻ってきたのかと喜んだのも束の間、康介の隣に女性がいる。
「こんにちは」
桜井さんだ。
「こんにちは」
普通に話ができるのがやっとだ。売店にいるはずの桜井さんがいる。
「羽鳥さんに、買い出しを手伝っていただいたんです。重いもの、全部持ってくださったんですよ」
桜井さんはにっこりと麗しげに微笑む。
康介の両手には、スーパーの袋が一つずつあった。
桜井さんも一つ手にしているが、あとはブランド物のバッグを肩にかけている。ドングリを入れた安物のリュックサックを背負っている柚香とは大違いだ。
桜井さんは、重ねて話す。
「すごく助かっています。羽鳥さん、優しいですね」
「そうですか」
何と答えたものか言葉が出てこなくて、柚香はやっと口にした。
心に巨大な重しがのしかかり、ひしゃげて、潰れてしまいそうだ。
「週末も、よろしくお願いします」
よろしくお願いしたくないのだけど。
柚香は闇よりも真っ暗な気持ちを何とか押しやり、桜井さんに返事をしようとする。
そのとき「なおーん」と鳴く声がした。





