第22話 へおちゃん、転ぶ
へおちゃんが宇宙からやってきて、一か月が過ぎた。
ゆるキャラの着ぐるみ役も、何とか無事にここまで来た。柚香と康介は、他のスタッフとは親しくなりつつも、へおちゃんが本当の生き物だと気づかれることのないように、何かと気を回すような日々だ。
平日は、朝給湯室に柚香がバトンタッチに行く。康介が役場へ仕事を確認してから、帰宅。柚香は昼間にへおちゃんを連れて、観光客と会う。康介が途中から応援に駆けつけることも多い。
へおちゃんの着ぐるみは「すごくかわいい」「本物っぽい」「とても癒される」と大評判になっていた。
へお城のへおちゃんは、今や人気のゆるキャラになっていた。
もちろん大人気の有名ゆるキャラ『きこわん』にはとても敵わない。それでも、県外から遊びに来る人だっている。田舎町の小さなお城がこれだけ賑わうのは、思いがけない僥倖だった。
へおちゃんはいつも観光客に囲まれ、へおちゃんグッズはどんどん売れ、町役場もへお町全体も活気に満ちていく。
まあ、いろいろトラブルはあるのだけれど。
柚香は康介と一緒にへおちゃんを連れて、いつもどおり観光客の写真を撮っていた。そこへスタッフの人が知らせに訪れた。
「団体さんが来ましたよ。幼稚園の遠足で子どもたちがいっぱいいるので、西口の門へ向かってもらえますか」
「分かりました」
柚香はそう答えたものの、観光客はここでも多くて、なかなか進めない。
「遠足って、へお城に入るんだよな。その前に会っておいたほうが、すれ違いにならなくていいかもな」
康介が言い出したので、柚香も急ごうと思った。
「ちょっと近道しよう」
康介の提案はもっともだったし、柚香も園内を歩くのはもう慣れているので、すぐにそうしようと思った。
三人で草地に入り、舗装された道より早く進む。
ススキの穂が揺れるなかを潜り抜けると、砂利道に出る。少し見通しがよくなった。
「あっ、あの団体かも」
小さな子どもたちの声がたくさん聞こえてくる。
雑木林の向こう、西口にあるトイレの前で、子どもたちが集まっているのが見えた。
幼稚園児たちは、おそろいの黄色い帽子をかぶっている。小さな背中に背負った色とりどりの大きなリュックサックが目立つ。引率している先生らしい人も数人いた。
思ったより早く追いついた。砂利道を突っ切れば、余裕をもって着くことができる。
「このまま行けば」
柚香が声を出したとき、へおちゃんがずるっと砂利で滑る音がした。
「へおおーっ」
甲高い声を上げて、へおちゃんの体が地面に倒れこんだ。
「へおちゃんっ」
柚香が慌ててへおちゃんを起こそうとする。へおちゃんは何とか一人で立ち上がった。
「大丈夫?」
へおちゃんの顔を覗き込む。
柚香は、潤った大きな瞳を見つめた。
うるうるうるうる。
いつものことだが、いつもより水分量が多い。
「へおちゃん……?」
声をかけた途端、へおちゃんの瞳の水がどっとあふれ出した。ダムが決壊したみたいに。
「へおおおーん」
宇宙人、そんなふうに泣くんだ。
一瞬そう思ってしまったことに、柚香はあとから大いに反省することになる。
へおちゃんは、右足の膝を砂利で切っていた。傷口からぽたぽたと血が落ちる。ふわふわした毛に赤い血がついていた。
「へおちゃん、大丈夫か」
康介も驚いて声をかけた。
「へおおーん、へおおーっ」
へおちゃんは、声を上げて泣き続ける。
「給湯室に戻って、手当てしないと」
柚香は、持っていたハンカチをへおちゃんの膝に当てようとする。
「おい、着ぐるみだろう」
突然、後ろから男の人の声がした。スタッフの五十代くらいの男性で、鷹黒さんという名前の人だった。
声を聞いて、駆けつけてきたらしい。
それはありがたいことなのだろうけど、柚香はへお城スタッフのなかで、この人だけはどうしても苦手だった。
「早く、脱がせてやりなよ。毛に血がついているじゃないか」
「えっ、ええ」
そうはいかない。またしても、へおちゃんの『なかの人がいない』問題が発生してしまった。
「あれ、どうなってんだよ」
鷹黒さんは、なぜかへおちゃんの背中に手を回す。
「あ、あの、こっちでやりますから」
康介がその手を止めようとすると。
「チャック、どこにあるんだよ?」
「チャック?」
「着ぐるみって、チャックあるだろう? 怪獣とかの映画でも、ヒーロー物の特撮とかもさ」
鷹黒さんが言い出した。
「あ、はい。でも、こちらで対応しますから、どうぞお構いなく」
柚香も慌てて間に入る。
「手伝ってやるよ。血が出てるじゃないか」
「脱ぐの大変なので、給湯室に戻ってから……」
柚香が言いかけるが、鷹黒さんは逆に手伝おうと躍起になる。
「入っているのは子どもだろう? 早く出してやれよ」
「ええ、だから給湯室に」
「あ、もしかして、入っている子ってあんたの子どもかね?」
「え……」
柚香はその言葉に、突然頭のなかが真っ白になる。
「自分の子にこんな役させてるの?」
「違いますっ」
なぜだか、柚香は本気になって大きな声を出してしまう。
「相手がいませんからっ」
「へぇ」
鷹黒さんは、柚香の剣幕にどこかゆがんだ笑いを見せる。柚香は汚泥のなかに足を突っ込んだような嫌な気分になる。
「失礼します」
柚香は、へおちゃんを促して、歩き出す。後ろで軽く会釈をした康介がついてくる。
へおちゃんは、何が起こったのかよく分からなくて、とりあえず泣き止んでいた。
問題をうまく回避できたものの、柚香はあまりいい気分ではなかった。頭のなかが何かひどくかき乱されたように感じる。
子どもの文句を言いながらも幸せな結婚をしている姉や、赤ちゃんの写真を送信してくる友人たちのことが思い浮かんでしまった。いつもは気にしなくても、突然こういうことで気持ちを乱されてしまう。
やはりコンプレックスから鳥のように自由になるのは難しい。自分はまだまだ修行が足りない。
お城の入り口が見えてきたところで、康介が息を一つ吐いた。
「ふぅ。助かったあ」
それを聞いたら、柚香は急に気持ちが回復した気がして、給湯室に着くころには心を取り戻した。
シンクで水を流し、へおちゃんの傷口を洗う。
「それほど深い傷じゃなさそうね。へおちゃん、痛い?」
傷の付近をタオルで拭いて、柚香は尋ねる。
「へおへお」
「大丈夫だって。血も止まってきたみたいだな。しばらくゆっくり座っていよう」
「へお」
康介の言葉が分かっているのか、へおちゃんが軽く返事をした。
「血って、へおちゃんも赤いんだね。地球人と一緒だね」
「そうだな。イカとかエビとか青い血の生き物もいるもんな」
「うん」
「それにしても、へおちゃんにチャックか。笑えるよなあ」
康介はのんびりと話した。
確かに、チャックはおかしかったと思う。
それと同時に柚香は思い出す。あのとき、自分も動揺して変なことを言ってしまったのだ。
けれども、康介は柚香の思いには気づかないようだった。
「へおへお」
へおちゃんは落ち着いたのか、いつもと変わりのない声を出している。
「もう大丈夫なの? 元気だね、へおちゃん。もう少し休んでからでいいよ」
どうやら、へおちゃんはあんなに泣いていたのに、もう平気そうだった。
その日は、夕方に少し外へ出て、観光客の間を巡ったが、へおちゃんは普通に歩いていたので、柚香も康介も安心した。
翌日には、へおちゃんは怪我したことがほとんど分からないくらいだった。
恐らく、傷口が塞がったり治ったりするのは、地球人より早いのだろう。その辺りも、もとから備わっているのか、あるいは何かの技術の進歩なのか。
へおちゃんからは何も聞くことができなかったが、へおちゃんを預かっている二人には、ほっとする出来事だった。
この間は池に落ちるわ、今度は転ぶわで、へおちゃんもいろいろと災難だ。
数日後、康介は夕方まで役場の仕事があり、柚香たちが給湯室に帰るころになって合流した。
「今日、役場で町長に、この頃へおちゃんはどうなのって訊かれたんだ」
康介はそう話し始めた。





