第17話 柚香と姉
翌朝、柚香はいつもより早く起きた。
「仕事、早く行くの?」
リビングに入ってきた柚香に、母が訊く。
「ん、ちょっとだけ早めに出るつもり」
柚香が曖昧に答えると、母は更に尋ねた。
「昨夜は疲れたって言ってたけど、大丈夫なの?」
そういえば、昨日はほとんど一日外で、へおちゃんを連れて歩き回った。お昼過ぎから康介が手伝いに来てくれたので助かったが。
夕方、二人のご飯に付き添ってのんびりしていたら、帰りが遅くなってしまった。
「うん、ぐっすり眠れたから」
「最近、よく眠れているようね。前は疲れると耳鳴りがして眠れないとか言ってたじゃない」
「そうだったね」
柚香は、そのことをすっかり忘れていたことに驚いた。
以前の勤務先では、仕事の悩みがたくさんあった。残業が続くと、いつのころからか、寝る前に耳鳴りがして熟睡できないようになってしまった。
その上、電話をとって、耳がよく聞こえないことに気がついて……。
「柚香、ちょっとお箸並べてくれる? お父さんのお弁当作り終えたら、すぐご飯にするから」
「うん」
返事をしながらも、柚香は母の手を見つめる。
「毎日お弁当作るのって、大変だよね」
「えっ?」
母の意外そうな反応に、柚香は必要以上にどぎまぎしてしまう。
「あ、あのさ、今の職場ってへお城の近くであまり飲食店もないから、パンを買って行ってるんだけど。今後のことを考えたら、その、お弁当とかできると節約になるし、どうかなって」
「お弁当なら、慣れれば何とかなるものよ。珍しいわね、柚香がそんなことを考えるなんて」
珍しくて悪かったわね。
一瞬むっとする。だが、確かに母の言うとおりなのだ。
柚香は、料理をはじめ、家の手伝いをあまりしてこなかった。姉の桃香が何でもてきぱきとこなすタイプだったので、不器用な柚香はつい億劫になっていた。
小さい頃は、自分も大きくなれば姉のように何でも上手になれると考えていた。けれど、いつまでたっても追いつきはしなかった。
姉は結婚して、四角川市に行ってしまった。
「そうねぇ、前の日のうちに残り物を取り分けておけば一品や二品どうにかなるし、冷凍食品だって今は添加物も少ないし、おいしいものよ。ご飯も前の日の物をレンジで温めるだけ」
冷蔵庫から梅干しを取り出しながら、母は言い足した。
「入れておけば、傷み防止にいいのよ」
母が案外乗り気なのは、チャンスだ。
「実はバイトの仲間、みんなコンビニ弁当なのよ。少し作って持っていってあげたいんだけど、今度分けてもらってもいい?」
「全部は分けないわよ。この機会に少しは自分で料理してみたら?」
「うーん、ちょっとずつね。これからバイト、忙しくなるかも」
「そうなの。まあ、少しずつやってみればいいんじゃない?」
「うん」
柚香は大きく頷いた。
そこではっとする。意外と時間がたっている。母は、話している間に弁当を作り終えて、柚香の朝ご飯も支度している。
「うわ、早く食べないと」
対照的に何もできてない柚香は、結局は慌てて家を飛び出すはめになる。
康介の負担を少しでも減らしたいから、早く給湯室に着こうと思っていたのに。
その週末から翌週にかけては、晴れて暑い日もあれば、雨が降って涼しい日もあった。
十月に入ると、秋の気配が強まる。
へお城付近のセミの大合唱も、勢いを失っていった。代わりに、夕方になると細かな虫の音が響き始めていた。
柚香はへおちゃんと一緒に、天気のよい昼間は観光客を迎えた。ときには、本物と疑われないかとどきどきするようなこともあった。
雨の日は給湯室で、へおちゃんに絵本を読んだり、おもちゃで遊ぶのに付き添った。
康介がへおちゃんの遊び用にと家からスケッチブックと色鉛筆を持ってきた。しかし、へおちゃんの描くのは、ぐしゃぐしゃな丸とか線ばかりだった。
ついでに夜、康介がへおちゃんとシャワーを使い、町営プールから戻る途中で、酔っ払いに絡まれたことがあった。
「着ぐるみが本物に見えるけど、俺は酔っぱらってなんかいないぞっ」
大声で言い出すので康介は動揺してしまい、「へお?」と驚くへおちゃんを背負って、逃げたという。
「異星人を背負って走った人って、康介だけじゃないかな……」
柚香はそう感想を漏らした。
へおちゃんの昼寝を見守っているとき、柚香はゆっくりと編み物をした。
柚香にとって編み物は、姉よりできる唯一の趣味だった。
姉の桃香は、編み物に興味がなかっただけだけど。
子どものころから運動も勉強も何もかも、姉には敵わなかった。
就職は、桃香が受けた銀行を目指してみたが、筆記試験だけで落ちてしまい、他の会社に入った。
姉は出産を機に仕事を辞めたが、柚香は結婚とかそういうこともなく辞めている。
体調を崩して退職を決めたのに、仕事を辞めると知った周りの人から、こう尋ねられた。
「何かおめでたいことでも?」
「もしかして、いいお話があるとか?」
それどころか、はっきり言う人もあった。「結婚するんですか」と。
みんなが結婚する年齢なのに、そうでない理由で離職する。
両親でさえ、婚期のようなものを言い出す始末だ。辞めた直後は、仕事から解放された割に暗い気分になった。
でも、どうやっても姉のようにはならないんだと柚香は自分で分かっている。
姉は、柚香よりずっと美人で華やかで、高校時代からは常に付き合っている男性がいた。
柚香自身は、いまだに恋人というものは、想像さえできなかった。姉のような優れた人に存在するものだという意識が強いままだ。
両親は姉と同じくらい自分にも愛情を注いでくれたとは思う。だけど、よくても姉の二番煎じ、姉よりずっと手がかかって、うまくできないことがたくさんあった。
おまけに、忘れ物だらけの面倒な子だったはずだ。
不器用な柚香は、常にゆとりがない。
高校や短大に通っていたときも、勉強や友だち付き合いだけで精一杯だった。何をやっても要領が悪すぎるので、他のことまで手が回らない。
就職してしまうと、仕事であまりに忙しなく、恋愛の余地など潰えた。
そういえば、誰かをすごく好きになったことはなかった。好きな人ができても、姉と比べると自分がその人に好かれる自信もないから、本気になれなかった。
自分が誰かの特別な存在になれるなんて、全く思えなかった。
編み物をひと編み、ひと編みしていると心が落ち着く。
静かに考えてみれば、姉と自分を比べていたこと自体が間違いだったと思う。
姉とは違う道を歩いていけばいい。
両親や周りが結婚だのなんだのとうるさく言うことも、もう気にしない。
恋愛さえまともにしていない自分に、無理することも焦ったりもしない。自分に合ったゆっくりな生き方を見つけよう。
今は、身体を整えて、新たな仕事をしていけばいい。
もっと自分のすることに自由でいよう。
すっきりとした気持ちになれた今、柚香にはやりたいと思えることができた。
そうだ、へおちゃんの編みぐるみを作ろう。
柚香は思いついた。
更に、お弁当だ。
毎日、かわいいへおちゃんにとても癒されている。それに、康介が何かと気遣ってくれるのがありがたい。二人のために自分ができることは、ちょっとでもやってみようと思う。
不器用だから、やったことがないからって、できないとは決めつけないことにした。
まずは慎重に、母にご飯とおかずをいくつか分けてもらい、弁当箱に詰めて持っていった。昼食にへおちゃんと一緒に食べてみる。
確かに、へおちゃんはお弁当の容器まで齧ろうとするのでぎょっとした。でも、三日もすれば、お弁当箱が食べ物でないことくらい分かる。
うん、こういう具合いにすれば、三人でゆっくり食べられるかも。
コンビニ弁当は、毎回容器や入っている飾りを確認しないといけないが、弁当箱に自分で詰めるなら、安心できる。冷凍食品や簡単なおかずのレパートリーを徐々に増やしていけばいい。
朝作ったお弁当を、冷蔵庫で保管しておいて、夕方電子レンジで温める。
そうすれば、三人で夕食が食べられるところまで、密かに進めた。
ここ数日、康介は早めにコンビニに行ってお弁当を買っていたが、それでもいいものは売り切れていたり、似たようなおかずが続いたりして、気の毒だった。
自分のお弁当がそれを解消する日は、着々と近づいている。
柚香は、へおちゃんと康介と三人で夕食を食べられる日が、楽しみになっていた。





