第16話 へおちゃんの食べ物
「こんにちは。どうぞへおちゃんと写真撮ってくださいね」
「こんにちは。へおちゃんと握手してくださいね」
「こんにちは。へおちゃんと……」
柚香は、午後も早い時間のうちに、息切れがしてきた。
次から次へと観光客がやってくる。へおちゃんを見つけると、みんな近寄ってくるので、柚香は笑顔を振りまいて案内する。
それが重なっていくと、だんだん顔の筋肉が引きつってくるような気が。
木曜日は、秋雨の合間の晴れの天気。貴重な一日とあって、平日なのに人が多い。
へおちゃんのグッズを扱っている売店も、結構な人が入っているらしい。へおちゃんのぬいぐるみを抱いている子や、へおちゃん饅頭を数箱買って、大きな袋にぶら下げている人の姿もあった。
週末なら最初から人出が見込まれるので、アルバイトのスタッフも確保されている。
平日だとそうはいかない。柚香は一人でへおちゃんを連れて歩いていく。
小さな女の子がお母さんに連れられてやってきた。
「こんにちは。へおちゃんと握手をどうぞ」
柚香は喉の渇きを感じながらも、女の子に笑いかけた。
その子の右手を見ると、丸い形のへおちゃん煎餅が一枚、握られていた。
「これ、へおちゃんにあげる」
アイス事件を思い出すには充分な出来事だ。やはりこういうことは、ありえるのだ。
「へおちゃんにへおちゃん煎餅なんて、おかしいでしょ」
お母さんが微笑みながら、女の子を止めようとする。
柚香は平静さを保って、女の子の前にしゃがむ。
女の子の持つ煎餅から、醤油の匂いが漂ってきた。
「へおちゃんにお煎餅持ってきてくれて、ありがとう。でもね」
柚香は精一杯優しく女の子に提案する。
「へおちゃんは今、お腹いっぱいだから、代わりに食べてくれる?」
「うん、分かった」
「それじゃ、へおちゃんと写真撮ろうね」
何とか回避できた。親子が去ったところで、柚香は安堵する。
「ご苦労様」
後ろから声がした。柚香は振り返ってそこに康介の姿を認めた。
「康介、家に帰っていたんじゃないの?」
「ああ、今日は役場の仕事があまりなかったし、家でのんびりしているより、こっちが気になってね」
「そうなんだ」
気にしてくれたのかと思うと、ありがたい。
「へおちゃん、煎餅食べなくてほっとしたよ」
康介は、へおちゃんの頭を撫でる。
柚香はくすりと笑う。
「実はね、周りの人があげるって言った物を食べなかったら、明日のお昼は焼きそばパンを買ってきてあげる、ってへおちゃんに話してあったのよ」
「焼きそばパン?」
「そう、へおちゃん、すごく好きなんだよ。わたしはメロンパンが好きだから、一緒に買ってきたりしているの」
「へおへおっ」
へおちゃんが分かっているらしく、楽しそうに声を上げた。
柚香が考えたのは『食べ物には、好きな食べ物で対抗!』だった。
「なるほど、いい作戦だな」
「でしょ?」
柚香は得意顔だ。
ひとしきり二人で笑ったあとに、康介は思案気に首を傾げた。
「改めて考えると変な気がするよな。宇宙人、焼きそばパン、食べるんだね」
確かに、地球以外の所で焼きそばパンが売り出されている場面が思いつかない。へおちゃんは何でも食べるという話だけれど、宇宙人の食べ物というイメージには程遠い。
「わたしもこの間、思ったよ。宇宙人、豆腐食べるんだって」
宇宙に豆腐屋さんはなかなかなさそうな気がする。
へおちゃんが冷やっこにかぶりついて、口の周りを真っ白にしていたっけ。
思い浮かべるだけで、柚香は自然と口元が緩んでしまう。
「へおおっ?」
宇宙人だけが不思議そうな顔をしていた。
六時近くになって、ようやく日が西へと傾く。
日陰の涼しさに誘われて、園内を散歩したり、ジョギングしたりする人もいる頃合いだ。
へおちゃんを連れた三人で、軽く運動する人たちにも挨拶する。
「こんばんは。頑張ってください」
「へおお」
ジョギングしている外国人の男の人に声をかけたら、青い目を丸くして「グレイト!」と叫んでくれた。
そんなどこか平和な夕暮れ時を経て、柚香とへおちゃんは給湯室へ戻ってきた。
康介はコンビニでお弁当を買ってくるというので、先に帰ってきたのだ。
コンビニ弁当ね。
柚香としては、やはり気になっている。
朝晩二食が、いつも同じような物では気の毒に思う。
へおちゃんと一緒に、テーブルを拭いたり、お湯を沸かしたりして、柚香は康介を待つ。
ついでに飲み物は、柚香が母親に頼んで、特売場のへお茶を買ってきてもらった。
食いしん坊で、何でも食べるせいもあるのだろう。へおちゃんは、初めて飲むお茶もごくごく飲んで、気に入ってくれた。
「これで、へおちゃんのプロフィールも一つ本物になったな」と康介が受けてくれた。それなので、もう一つの好物になっている卵かけご飯は、どうしようかなとも考える。
康介は自分のご飯にはあまり興味がないように見える。けれど、本当のところはどうなんだろうか。
その辺りも気になる。
コンコン、と扉をたたく音がした。
「柚香」
康介の声がしたので、柚香は返事をして、給湯室のドアをいつも通り開けた。
康介は、普段買いに行くコンビニの袋を下げているが、何だか浮かない顔をしている。
「参ったよ、弁当が買えなくて」
「えっ?」
「いつもののり弁とかから揚げ弁とか、そういう奴、全部売り切れていたんだ」
「そんな……」
この辺のコンビニといったら、一つしかない。お弁当屋も付近にはない。スーパーもへお電に乗って四角川駅方面に出ないと見つからない。
康介は探し回ることもできず、結局そのコンビニに売っている適当なものを買ってきたらしい。
「お店の人に聞いたら、ここ数日六時を過ぎると、だいたい売り切れちゃうみたいなんだよね。先週から近くでビルの建設工事が始まったらしくて。工事の人がたくさん買いに来るんだって」
「それって、いつまで?」
「三か月くらいはかかるらしいよ」
「三か月って……へおちゃん帰ったあとよね?」
「へおへおっ」
自分の名前が出たのか、話が分かっていたのか、へおちゃんが声を出した。
「あ、大丈夫だって。何もないわけじゃないぞ」
へおちゃんは、今夜のご飯が大丈夫かどうか心配したみたいだ。
「そういえば、お店の人も忙しそうで、電子レンジで温めてくれなかったんだよね」
康介は、何か丼物を袋から取り出して机に置くと、キッチンの奥へ入る。
「ええと、電子レンジ、どこにあるって言ってたっけ?」
「あの、康介」
棚をがさごそしている康介に、柚香は声をかける。
「電子レンジ、ここにあったの?」
「ごめん、あるの知らなかった?」
「うん、知らなかった」
電子レンジの存在を知ってしまったからには、真剣に考えなければならないことがある。
電子レンジと冷蔵庫。
父の弁当を作る母の姿。
更に少なくなったコンビニ弁当。
柚香は、唇を引き結び、唾を飲み込んだ。
体の内側から熱がじわじわと湧き上がってくるのを感じる。
それは、なぜか闘志と呼べそうなものにひどく似ていた。





