第10話 突然の訪問
穏やかな午後のこと。
へおちゃんは、畳の上で電車のおもちゃを動かして遊んでいる。
柚香は編み物をしようかと道具を入れた袋を持ってきた。すると。
「へおっ」
へおちゃんが、耳を立てて声を上げた。
「もしかして、昨日の鎖編み?」
柚香は、鎖編みの毛糸を入れた小箱を取り出して、へおちゃんに渡す。
へおちゃんは、ボードを出してきて、箱の中身を熱心に並べ始めた。
その時、ドアをコンコンと叩く音が聞こえた。
柚香ははっとする。
この時間に人が来るとは考えてもみなかった。康介ではない。多分町長ということもないだろう。
誰なのか見当がつかない。
柚香は胸がどきどきしてきた。
別の部屋と間違えた人の可能性もあるが、どのみち急なことで、どうすればいいか分からない。
へおちゃんが宇宙人であることは、町長と康介と柚香の三人の秘密にしている。単なる着ぐるみとしてイベントに出てもらう予定なのだ。
そのへおちゃんを、今の時点で見られていいものかどうか。
どうしようか考えたが、この給湯室のドアは内側からしか鍵がかけられない。居留守というのも何か変だ。
急いでへおちゃんを隠すのが、もっとも手っ取り早い。
そう判断して、柚香はへおちゃんに隅のカーテンのなかに入ってもらうことに決めた。窓はすりガラスなので、外から見えることもない。
「このなかで、静かにしててもらえる?」
小声で話して、そっとカーテンを引く。それから「はい」と玄関口に向かって返事をした。
「あの、受付の松谷ですけど」
ドアの向こうから、へお城の受付の女性の声がした。
柚香は、へおちゃんの姿が見えないのを確認してからドアを開けた。
「何か?」
松谷さんは、受付の札を胸にピンで留めているので、仕事中なのだろう。
着ているものやお化粧にもひととおりの気遣いが見受けられる。へお城に長くアルバイトをしていると聞いているから、見た目より年配なようだ。
「今さっき、お城に五人くらいのグループの女の子たちが来たんですけどね、へおちゃんはいないんですか、って訊かれたんです。今週末には着ぐるみが来るんでしたっけ? ここに準備スタッフのかたがいると聞いたので、確かめておこうと思って」
松谷さんの話に、柚香はほっとした。その程度の質問なら対応できる。
「今週土曜日の十時から着ぐるみがお城に来る予定です。へおちゃんのこと、その女の子たちは知っていたんですね」
柚香は打ち合わせていたとおりに答えつつ、それとなく情報を得ようとする。
「ええ、今日はまだ来ていないんですって答えたら、がっかりしてましてね、今、受付で待っていただいているんです。週末なら来ますって答えたら、喜んでもらえると思います」
「そう、ですか」
柚香は知らず、唾を飲み込んだ。
いよいよ今週末から、へおちゃんがお城のゆるキャラとして登場することになっている。思ったよりそのことは知られているようだ。
これまでのように給湯室にこもっていないで、外へ出て、町やお城の宣伝の役割をしなければならない。
へおちゃん、大丈夫かな。
人間好きそうな宇宙人だが、大勢の人の前ではどうなのだろう。着ぐるみということになっているが、本当にそれで通るのかも疑問が残っている。
それより、わたしか。
実は、柚香は自分の方が心配だったりする。
今後は外で、たくさんの人を相手にしながらへおちゃんと過ごすことも多くなる。これまで事務の仕事しかしたことがないので、全く初めての職種だ。よくよく考えると、ひどく緊張する。
松谷さんは、そんな柚香の思いを知らず、微笑みながら話す。
「へおちゃんって、すごくかわいいですよね。皆さん、とても会いたがっていましたよ。町役場では、いろんなグッズを作っているとか。へお城も人が来るかもしれませんね」
「そうなんですか」
康介は、役場の仕事でグッズ作りなどにもかかわっているのだろう。
柚香は康介の事情も少し知ることができた。
「それじゃ、週末からよろしくお願いしますね」
松谷さんがそう言ってくれたので、柚香も答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「へおっ」
「あら、今何か変な声が」
「え、な、何もしなかったと思いますよ」
「へおへおっ」
柚香の心臓が跳ね上がる。
へおちゃんの姿は隠せても、声までは隠せなかった。
「ほら、また聞こえましたよ。何の声ですか?」
そう問いかける松谷さんにも聞こえそうなくらい、柚香の心臓は早鐘を打ち始めた。
落ち着くのよ、柚香。
柚香は懸命に考える。ここで、町長のように猫、とか言っては不審がられる。でも、猫とか言いたくなってしまう。
猫じゃなくて、何だ。何にすればいいの?
「ああ、聞こえましたね、確かに」
何とか平静を保って声を出したが、どうしたものやら。
「あれは、猫なんかじゃないんですよ」
なぜかこんなことを口走ってしまう。
「はあ? 違いますよね」
松谷さんが訝し気に柚香を見つめる。
まずい。違うに決まっているよね。
自分の言葉に、突っ込みたくなる。
柚香は一度深呼吸して、やっと思いついた。
「実はですね、あれは着ぐるみにつける予定の声なんですよ。只今テスト中でして。へおちゃんにあの声をつけようと思っているんです。葉名橋市の、はなっしーなんて、よく喋るじゃないですか。ああいう感じの何かをやってみようかと思いまして。へお町だからやっぱりへおって話すとかわいいかなって」
「ああ、そういえば、そうでしたよね」
「え……」
「確か、へおへおって鳴いてましたものね。最初に画像を見せてもらったとき」
ナイス柚香、と自分で自分を褒めていたのに、思わぬ展開だ。
そう。へおちゃんって、康介の話では最初から「へおっ」と言ってた。そういえば。
なんだ……。
一気に力が抜けそうになる。
そのとき、突然畳の一角が青く輝いた。
「うわあっ」
松谷さんが叫び声を上げた。
へおちゃんが用意したボードが光っているのだ。
さっきへおちゃんがメッセージの毛糸を乗せていたはず。その返事が到着したのに違いない。
「何ですか、これは?」
松谷さんがボードに近づく。まずい。
「……」
柚香は頭のなかが真っ白になった。何も答えられない。
「こ、これは……」
ボードを指差した松谷さんの声は震えている。
「これは……」
柚香の声が上ずる。
宇宙人のコミュニケーションボードだなんて言えない。これが何だと訊かれて、何て答えればいいの?
全く思い浮かばない。暑いのに、思考回路が凍りついてしまったかのようだ。
どうしよう。
松谷さんは、未知のものに対して恐怖を抱いている様子だ。無理もない。地球に存在しないものなのだから。
柚香は何か言わなくてはと思うが、喉がからからに乾いて、何も言葉が出てこない。
どうしたらいいの。
すると、松谷さんがか細い声で話した。
「ごめんなさい、何も知らなくて。最新式のパソコンですよね。わたし、全然こういうの疎くて。触って壊しちゃったら大変。そろそろ失礼しますね」
「え、あ、はい……」
松谷さんの言葉に、柚香は変な返しをする。
「それでは、また。よろしくお願いします」
「よろしく、お、お願いします……」
柚香は何とか返事をする。
松谷さんがドアの向こうへ消えた途端、玄関口で柚香はふいに力が抜けて、座り込んでしまった。





