第1話 町役場のアルバイト
肩くらいに切りそろえた髪を振り払い、柚香はハンカチで汗を拭った。
自転車を駐輪場に止めて、歩き出したところだ。
眩しい日差しのなか、柚香は古びた建物を見上げる。
『へお町役場』
藍色に白文字でそう書かれた看板が上に掲げてある。その向こうには大きな山々が連なって見える。
すがすがしい青空と緑に、年季の入ったぼろぼろの看板は、どうも似合わない。
二〇××年も九月半ばを過ぎたものの、暑さはまだ厳しい。
建物のなかは、冷房もたいして効いていなかった。セミの鳴き声が屋内でさえざわめいて聞こえる。
柚香は役場の掲示板を探した。
康介に声をかけられたのは、掲示物の前をうろうろしていたときだった。
「あれ、柚香。柚香だろ?」
振り返って、柚香は幼馴染の姿を認める。
「あ、康介。何でこんなところにいるの?」
「何でって、こっちが訊きたいよ。俺、町役場に務めているんだよ」
「へお町で仕事してたんだ」
ここは、丸山県の小さな田舎町『へお町』である。
柚香も康介も、ここで生まれ育った。しかし、就職となると寂れたこの町より、お隣の四角川市の方がずっと求人が多い。康介もそちらで働いているとばかり思っていた。
「柚香は、四角川市で就職したんじゃなかったのか」
「う……」
答えようにも答えが出てこない。
柚香の目の前にあるのは、小さな貼り紙だ。
『臨時募集 へお町近辺』と書かれた求人票。
「もしかして、失業したの?」
「もう少し気を遣った訊き方してくれない? 確かに失業しましたけどね」
柚香は唇を尖らせた。
へお町周辺での仕事なら、役場の掲示板にも求人情報が貼ってある、と聞いたからここへ来たのだ。
柚香は、背の高い康介を見上げる。その康介の表情は、なぜかぱあっと明るくなっていく。
な、何?
急に笑いかけられて、どきりとする。康介は、実は爽やか系イケメンなのだ。
容姿の平凡な柚香は、ちょっと羨ましいとも思う。
康介は弾んだ声で話した。
「そうか。それじゃバイトしない? ちょうどいいのがあるよ」
「え。何で康介がバイトを紹介してくれるのよ?」
思わず柚香は尋ねる。
「ちょうど、町役場で募集しているのがあってさ、俺、町長に頼まれちゃったんだよ。三か月間なんだけど、結構日給がいいんだ」
「へぇ、そうなんだ」
少し興味を持ってみせる。すると。
「やった、決まり、決まりだな。助かるよ!」
康介は、その場で万歳しそうなくらい喜んでいる。
「ちょっとぉ、何だか怪しそうなんだけど」
柚香が口を挟む。康介は慌てて顔の前で手を振り回した。
「そんなことないよ。詳しい話を上の食堂でしない? 自動販売機があるから、お茶くらいおごってやるよ」
「ますます怪しい……」
「えー、こんな割のいいバイト、なかなかないぜ。しかも四角川市じゃなくて、へお町が勤務地だから、柚香も近くてちょうどいいと思うけど」
そう言われると、気持ちが動いてしまう。
「うーん、それじゃ、話を聞くだけ聞いてあげるよ。バイトをするかどうかはそのあと考えるから」
柚香が都心での仕事を退職して、すでに三か月になる。
ストレスから解放されて休んでいるのも、そろそろ後ろめたくなってきた。
体調はだいぶよくなっている。三十近い自分の年齢を考えると、なるべく早く次の仕事に就きたい。まだまだ気持ち的には億劫だけれど。
とりあえず、近所で楽な仕事を。そう思ってここへ来たのだが、すでに康介のペースに乗せられている気がしないでもない。
「何飲む?」
階段で二階に上がると、自動販売機はすぐ目の前だった。赤と青の二つの販売機が仲良く並んでいる。
「緑茶にしようかな」
柚香はペットボトルの並びを見まわして、財布からお金を取り出そうとした。
「いいよ、本当におごるから」
止めようとする康介に、柚香は譲らない。
「でも、まだバイトするって決めてないでしょ。今の時点でおごってもらうわけには」
「でも、失業中だろ」
「失業って言わないでよ」
「あ、ごめん。とりあえずおごるよ」
康介の言葉に、結局、柚香は財布を鞄に戻した。
康介は隣の販売機でスポーツドリンクを買い、二人は向かい合って食堂の椅子に座る。まだお昼には間がある。
がらんとした食堂の外は、緑の木々が風に揺れていた。
柚香は幼稚園から中学校まで康介と一緒だった。
近所に住んでいるので、高校や大学に通っているころは、見かけることがよくあった。お互い大きくなってからは、挨拶もすることはなかったけれど。
就職してからは忙しくて、ほとんど姿を見ていない。今日久しぶりに会った。
柚香は何を話してよいか迷い、無難な話題を振る。
「それにしても、暑いね」
「経費節減だってさ。冷房の温度設定が年々高くなってるんだ。参るよ」
クールビズだけは取り入れているようで、康介は半袖の白いワイシャツを着ていた。
柚香といえば、いつも近所に出かけるような安物のTシャツに色あせたズボン。社会人からすっかりかけ離れた格好で、やや恥ずかしくなる。
「康介は、ずっと町役場に勤務しているの?」
「うん、去年からは観光課に転属になったんだ」
康介がペットボトルの蓋を取り、飲み始めたので、柚香も緑色の蓋を取る。
おごってもらったことを思い出し「いただきます」とごく小さな声でお礼を言った。康介は飲みながら「うん」と小さく答えた。
のどを潤す緑茶の、さわやかな苦みと冷たさに、柚香は生き返った心地になる。
「それで、バイトは?」
渇きが癒されると、柚香は尋ねた。
「バイトは、さっきも言ったように、ここの町長から頼まれたんだ。三か月間だけなんだけど、できるだけ毎日。原則九時から五時まで。日給は都心に負けないくらい出るし、休日手当も特別に出るって」
休日がないかもしれない、というのはちょっときつい。ただ、三か月間だけならできないこともない。
問題は内容だ。
「どんな仕事なの?」
柚香が訊くと、康介は淡々と答えた。
「宇宙人の世話なんだけど」
「はぁ?」
一体何の聞き違いなの。
呆然とする柚香の耳に、セミの鳴き声が響き渡る。
康介は続けた。
「宇宙人……もっと正確に言うと、他の星に住んでいる生き物だから異星人の方が当たっているかな。とにかく、その宇宙人の世話をする仕事なんだけど」
宇宙人の世話? 宇宙人!
柚香は立ち上がった。
「馬鹿にしないでよ、宇宙人だなんて!」
「しっ、そんな大きな声出さないで、座ってよ」
康介が声を潜める。
「他の人に宇宙人なんて聞かれたら、馬鹿にされるぞ」
康介の言い方があまりにも落ち着いていたので、柚香は再び座ってしまった。
幸いにして、すぐ近くに人はいない。
遠くで座っている四人グループがちらりとこちらを見た。だが、よく聞こえなかったらしく、気にしていない様子でほっとする。
柚香はゆっくりとした口調で訊いた。
「康介、自分で馬鹿なこと言ったって思ってる?」
「思ってるよ」
「……」
「でも、本当なんだよ。信じてよ、柚香ぁ」
康介が柄にもなく懇願するようだったので、柚香も冷静になった。
「宇宙人の世話をするってバイトについて、詳しく話してくれる? 冗談でなければ、ね」