第6話 アースガルズ
ここはアースガルズ。
死すべき定めを持った人間たちの住む世界、ミズガルズの一部と言われる地である。
地平線には巨大な壁があり、これだけ離れていると大空を舞う竜種の群れはまるで小鳥のようだった。
その光景を石造りの塔から眺めていた女性、アイゼナはため息をひとつ漏らす。窓際の縁に座り、頬を両ひざの上に乗せながら。
はらりと落ちてゆくのは花弁であり、わずかな香りが辺りに漂う。それは薄桃色の髪から時おり落ちるものであり、窓辺の奥、石階段にはたくさんの花弁が風に舞っていた。
「まるで幽閉されているようですわ。一級神職のはずなのに、ひとつも罪を犯していないのに、こんなにうら寂しい場所へ送られてしまうだなんて。きっとあの方はもう私のことなんて見捨ててしまったのよ」
はらりと落ちた涙が花弁に変わる。
薄桃色の花びらとなり、あの壁の向こうから届く風に流されてゆく。
この世界にいる少女は、死ぬ定めのある人間とはだいぶ異なる存在だ。身体の小ささを見ても年齢は決して推し量れない。
そのとき、ふとアイゼナは顔をあげる。
彼女にだけ聞こえた声が確かにあり、涙を拭きもせず階上へと駆けてゆく。長いヴェールを引きずっており、彼女の走る先にはいつも花弁が舞っていた。
がちゃりと自室の戸を開けるなり、少女は身をこわばらせる。そこにいたのは眼帯をつけた青年であり、黒色の鎧で身を覆っていたのだ。
「オーディン様!」
「ん、アイゼナちゃん、久しぶりだね。その恰好で息せき切って階段を駆けてくるなんて危ないよ」
制止の声などまるで届かなかったのか、ツカツカツカと踵を慣らして歩み寄る。そして振りかぶった拳をそのまま叩き込んだ。
ずんっ、とみぞおちに衝撃が走り「ブッ!」と男はうめく。眼帯を覆うようにかかっている前髪が浮き上がり、また鷹のようなその目は、再び振りかぶられる拳を見てヒクリと引きつった。
ぽかぽかぽか、と叩かれる。
厚い胸板を小さな手で叩かれて、くすぐったそうな顔で「あいたたた」と男は言った。
口は笑っているし目も嬉しそうだ。痛さとは正反対の表情であるものの、そう言うのが二人にとってのお約束なのかもしれない。
ぽかっ、と最後に叩かれて拳はそのまま止まる。指を開いて胸板に触れると、すりっと一度なでてから今度は頬を押し当てた。
「……放置し過ぎです。あなたへの愛情が少し冷めてしまいましたよ」
うつむいていて表情は見れないが、はらりはらりと薄桃色の花弁が落ちてゆく。それを見てオーディンと呼ばれた男は申し訳なさそうな顔をした。
「うん、ごめんねアイゼナちゃん。どうしても抜け出せない用事があって。だけど君への愛情は募るばかりだったよ」
そう言われた瞬間に、アイゼナはにんまりと微笑む。頬を赤くさせた満面の笑みは、男から決して見えない角度に調整している。どうやらただ可愛いだけの女性ではないらしい。
涙は引っ込み、代わりにもう一度、すりりっと頬を押し当てる。
長いこと二人はその恰好で体温を交わし合う。少なくとも相手が解放してくれるまでは、とお互いまったく同じことを考えていたからだ。
しばらくしてからそんな互いの考えを知って、ひとしきり笑った。
こぽぽ、と湯気を漂わせながらカップに茶が注がれてゆく。品のある室内にほんのりと甘い香りの漂うなかで、男性はゆったりと椅子に腰かけていた。すでに鎧を脱いでおり、脚を組みながら整った顔を向ける。
「それで、どうだった? 君への負担を減らそうと思って一人だけ預けた子は。確かイブって名前だったかな」
「イヴリンですわ」
冷え冷えとした瞳を向けて、つんと逸らす。
まだ喧嘩は継続中だったかーと男は内心で冷汗をかきながら、差し出されたカップを手に取った。
しかし彼女の気持ちは分かっている。せっかく久方ぶりに会えたというのに、のっけから仕事のことを口にするなんて男性として失格だ。
ごめんねと内心で謝りながらも紅茶をひとくち含み、それから同じ話題を口にする。
「これぞと思う子を選んでいるが、実際はどうなのか分からない。ほら、人間はうつろいやすいから。怪我でも病気でもすぐに自信を失ってしまう。あの子も確かそうだったね」
向かいに腰かけたアイゼナは、薄桃色の瞳でじっと見つめてくる。いぶかしげな視線だが、恐らく彼の言わんとしていることは伝わっているだろう。
「……そうですわね。過去を見たところ、イヴリンも足の怪我でもう立ち直れないほど心の傷を負ったのだとか。ですが、昨夜は私も驚くほどの素質を見せてくれました。決して弱い人ではありません」
あと、その、と口ごもる様子に彼は不思議そうな表情を浮かべる。わずかに頬を赤くして、ついと瞳を横に逸らしながら少女は続きを口にした。
「素直だし、何を考えているのか丸わかりで犬みたいに可愛かったです。こんな寂しい場所でひとりぼっちだったから、彼女と話して癒されたのは事実ですわ」
「はは、そうか。アイゼナちゃんにも友達ができたのかな。気が向いたら遊びに行ってもいいんだよ?」
そう問いかけると逸らされたままの瞳はまばたきを繰り返し、そっとこちらに向けられる。
ふうん、まんざらでもなさそうだねと、その表情を見た彼は思う。
愛らしい容姿とは裏腹に、気難しい性格だと彼女は言われている。そして久方ぶりの再会にも関わらず、すでに機嫌は元に戻ろうとしている。落ち着くまで数日はかかると考えていたというのに。
犬は人の心をおだやかにさせると聞くけれど、本当だったかな? しかし永くこの地にいるせいで、可愛い犬というのは想像しづらい。
3つの頭を持ち、地獄の業火をゴーッと吐く姿を想像したオーディンは眉間に皺を寄せた。
「では、そろそろ理由を教えてくださるかしら? なぜ私が人間を相手にしているのか。それと主神である貴方が忙しそうにしている理由も」
しばしの間を置き、ふうと溜息をしてから彼は口を開く。伸ばした指先を唇に当てて「内緒だよ」という仕草を見せてから。
「涅槃システムが間もなく崩壊する」
ぎしり、とアイゼナの身体が強張った。
涅槃とは人が死に、再び生まれ変わる際に輪廻するための機関である。それを利用して、古来から英霊と呼ばれる勇猛な者をヴァルハラ宮殿に招き入れており、やがて訪れる戦いの準備をしているのだとか。
バン、とテーブルに手をついて少女は立ち上がった。
「あってはならないことです」
「そう、あってはならない。だけどもう無理だ。想定以上に下界が乱れていて、僕らにはもう止められない。それに、世界が崩壊することを君は見抜いていたじゃないか」
「それは涅槃システムがあればこそです! 再構築できず、無に帰すのであれば、それこそ完全なる……!」
「そう、君の言う通り、下界の全てが無に帰す。やがてはこの世界も」
悲しむでもなく、全てを分かっている上で浮かべた青年の表情に、アイゼナは奥歯をぐっと噛む。嘘か本当かという言葉の真偽などすでに考えておらず、この非常事態をどうすべきかについて思い悩ませている表情だった。
「厄介なのは、敵を倒せば解決するわけじゃないってこと。もともと欠陥のある仕組みだったけど、その歪みが下界にまで及んじゃってるしね。つまり、最終戦争を待たずして、この世界は人間に押しつぶされてしまう」
お手上げだよと、おどけた仕草で両手をあげた。
しばらくなにも言えない様子のアイゼナだったが、やはり気丈な娘らしく普段通りの顔に戻る。
「状況は分かりましたわ。それで、今回の下界への干渉とどう関係しているのです? 仮初の創造神たる私が、なぜ異なる世界を彼らに見せているのでしょう」
「うん、涅槃システムを利用して、幻の世界を構築できるのは君くらいだからね。イブを見てもらっているのは、君にも関わっていて欲しかったんだ。ほら、僕たちはどこかで人間を塵芥だと思っているし」
たとえ容姿が似ていようとも、人間というのは小さな存在だ。強い力を持たず、生と死をただただ繰り返す。そういう意味では虫と大して変わらない。
しかしアイゼナは何も言わずに紅茶を口に含む。イブを愛らしく感じたことで、多少なりとも己の変化を感じたのかもしれない。
「では、イブを見ていることと、涅槃システムの崩壊はどう関係しているのです?」
「崩壊はもう止められない。だから別世界を利用しようと思う。この熱量を別世界に送り、そのあいだに涅槃システムを再構築する。幸いなことにまだ崩壊までの時間が残されているし、いわば彼女はテストケースかな」
ふむ、ふむ、と言葉をひとつずつ噛み砕くように彼女は何度も頷く。主神である彼の言葉を聞き、また可能性を吟味する様子が表情からも伝わってきた。
「なるほど、世界を一から作り直すのでしたら理想的です。しかし別世界に送った熱量が消えて、戻す術を失ってしまうことが貴方にとって最も恐ろしい」
「その通り。だから別世界のシミュレーションをさせている。生身の人間にしかできないことだし、ヴェルハラの英霊にも頼めない。若いほうがいいし、有望ならもっといい。できれば子々孫々まで血を残せるような強い者が」
と、それまで大人しく可能性を吟味していたアイゼナだったが、わずかに表情を曇らせる。
「気がかりな点がひとつあります。イブによると手引きをする者がいたのだとか。確かにその助言によってイブの動きは劇的に変わり、初見でZ級のガーゴイルを打ち倒しかけました」
「……なんだと?」
それこそあり得ない、と主神は言いかけた。
「どうやってかは分からないが、他の攻略者たちと接触したのか? それと、助言ごときでZ級とまともに戦うことは無理なはずだが……」
そもそも人間にガーゴイルを打ち倒す力などない。ひとたび目覚めれば鉄のように固くなり、動きは人の目で追うこともできないのだ。
それも手掛けてからわずか2日で成すような急成長をするなど、永く人間を観てきた彼にとっては信じがたかった。
「他の者のほとんどは初日で脱落しているのに……。気がかりだな。アイゼナ、済まないがしばらく監視を強化してくれ。僕の目の届かないところで暗躍している存在がいるのかもしれない」
分かりましたと頷いて、それからすぐさま任務を――するのは明日に回し、いそいそとアイゼナは椅子から降りて彼の元に近づいてゆく。
当然のように脇に手を入れるのはレディ相手としてどうかと思うが、少女はひとことも文句を言わずに持ち上げられて、すとんと彼の膝に座った。
えへへと笑う。彼が見ていないときに限って。
それからおすまし顔に戻り、色鮮やかな唇を見とれるだろうベストな角度で見上げる。
色づいた果実のようであり、ひとくちでも食めばきっと頭をジンとしびれさせるに違いない。やはり彼にあらがうことはできず、ひたりと首筋に指をかけると、差し出した唇へ近づいてゆく。
はらりと舞う花弁さえ甘い香りを発っするこの地は、神々の住まう世界、アースガルズ。
たとえ終焉を迎える間際であろうとも、2人の時間だけは手離せない。
なぜならば、涅槃システムを模倣して仮想世界を築くことのできる彼女がこう望んだのだから。
今夜は彼を独り占めにしよう、と。