第13話 小夜さんこっちこっち
裸体で横たわる浴槽に、ゆらゆらと花弁が浮いている。いずれも薄桃色をしており、漂う湯気にはかすかな甘い香りを嗅ぎ取れる。
透明なガラス板から注ぎ込む陽光を浴びて、ふと瞳を開く。
こんな風にゆったりとした時間をアイゼナは好んでいる。待ち人が現れない時の過ごし方を少しずつ学んでいるのかもしれないわ、と少女は密かに思った。
透き通るような肌は色素が乏しくて、そのぶん瞳の彩色が際立つ。かの国、日本に咲く桜のようだと目にした者は言うかもしれない。
うっすらと漂う湯気のなか、色づいた唇が「あら」と言葉を漏らす。そして浴槽の縁に手をかけると、ざばりと湯を分けて立ち上がった。
髪結いの紐を唇に噛み、薄手のローブで身を包む。足の水気をタオルに吸わせると、少女はそのまま浴室を後にしてゆく。チチチと鳴く小鳥の声に耳を貸し「やっぱりそうなのね」と呟いた。
「オーディン様、イブを手引きしていたと思われる者が現れましたわ。2人ほど彼女の部屋に姿を見せました」
木製の椅子にゆったりと腰かけながらそう口にする。
周囲にはだれもいないが、しばらく待つと男性の声が部屋に響いた。
『本当か。第三者には絶対に知られるわけにいかないが……あの世界のことをイブに手引きしているなら、まず間違いなく他の候補者だろう。ただし、僕と君が認可していない相手だ』
そう聞いて、アイゼナは不敵な笑みを見せる。
仮初の世界を支配しているのは彼女自身だ。人が死滅したときだけ目にできる世界、涅槃システムを模倣できるのはアイゼナただ一人なのだから。
「挑戦的ですわね。気取られずに私のシステムを利用しておいて、領域に近づいて来るとは」
細く長い脚を組み、まぶしい太ももを露わにしながらそう言った。そして頬杖をついて「どうしてやろうかしら」と不穏な言葉を漏らす。静かながらも迫力あるその声は、遠く離れた地にいてもオーディンの笑みを引きつらせたことだろう。
『僕もそちらに行こう。それまでのあいだ絶対に逃がさないで欲しいけど、頼める?』
「あら、それくらい。私には容易いことですわ」
にんまりと笑みを浮かべながらそう答える。
彼女ら侵入者は間もなく悟るだろう。決して手を出してはならない者に近づいてしまったことを。
また同時にアイゼナも悟る。
待ち焦がれていたあの方が、もう間もなくここにやって来るということを。ピコンと頭の上に電球を灯して、その場で何度か足踏みをしたあとに小さなジャンプを少女はした。
§
さて、その侵略者はというと、はっ、はっ、はっ、と浅く早い呼吸を繰り返していた。
窓から差し込む陽光によってメガネは輝いており、切れ長の瞳を見ることはできない。気づかないうちに隣の幼馴染と手をつなぎあい、カタカタと震える様子は普段の彼女らしくなかった。
いくら呼吸をしても息苦しい。
だんだん視界が白じんでゆくのは気絶しかけているのだろうか。超常現象を目の当たりにして、精神が耐えきれなくなった?
(いや、この場で倒れるのは無しだ。私だけでなく、ここには美羽もいる)
そう思い、小夜はごくりと唾を飲みこんだ。まずは呼吸を整えることに集中して、ゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。なかなか収まらぬ動悸に苛立ちながら、すううと再び息を吸う。
そんな気絶しかけている状態で脳裏に浮かぶのは、ずっとずっと昔の己の姿だった。
――小夜は表面上だけの優等生だと自覚している。
なぜか小さなころの教育は大事だと両親は考えており、その教えによって複数の習いごとに通っていた。
覚えることがたくさんあって、気を抜いたら落っこちてしまいそうな日々。学ぶのは大事なことだと分かっていても、息苦しさは増すばかりだった。いつまでも終わりが見えなくて。
「小夜ちゃん」
そんなときに、おずおずとした声をかけられた。
見れば近所に住む美羽であり、小学校の上級生になるころにはほとんど遊ばなくなっていた。
あの子には近づかないようにと親から何度となく言われていたのを思い出しながらも「どうしたの?」と尋ねる。するとランドセルをぎゅうっと掴みながら「遊ぼう」と言われた。
さて、どうして遊んではいけないのだろうか。
そんな疑問を浮かべつつも、だんだん泣きそうな顔をしてゆく美羽を見て「まあ、いいか」と誘いに応じた。
ご近所なのに、どうして遊んだらいけないのか。
すぐその理由に気づけた。
彼女の部屋に入るなり「うっ」と呻いたのは、ゲームや漫画、おもちゃや人形などがひしめいており、整理整頓された自室とはまったくの正反対だったのだ。恐らく教育に良くないと親は考えたのだろう。あの人ならありうるか、と子供らしくないことを思う。
この数年のあいだに様変わりをした様子に驚きつつ、勧められるままに最新のゲーム機らしきもので遊ぶ。
(頭の悪そうな音楽)
そんな冷めたことを思いながら、持ちなれないコントローラーからまず覚える必要があった。
覚えるのは小さなときから慣れている。ここでアイテムを取らないとダメだとか、小さなジャンプで潜り抜けるとか、いつものようにひとつずつ覚えてゆくだけ、のはずだったのだが……。
「上手だね! 小夜ちゃん覚えるの早いね!」
「ちょ、ちょっとここ難しいぞ! 画面中に敵がワラワラいて……どうやってみんなクリアしてるんだ!」
配信動画を見て「へー」「ほおー」と感心しつつ、実際にできるかをテストする。思い通りに行かなかったりもしたけど、そのぶん予想以上に作戦がドハマリしたときなんて頬が赤くなるほど気持ち良かった。
――ずどどどどん!
巨大な敵が爆砕してゆく様子には、思わずぶるっと背筋が震える。きゃああと大きな声をあげて抱きついてくる美羽も同じ表情で、なぜかそれがすごく嬉しい。すぐ近くにある顔へ、にこっと子供らしく笑いかけた。
「楽しかったな……」
自分の部屋に戻るなり、そう小夜はつぶやく。
整理整頓されており、美羽の部屋とはぜんぜん違う光景だ。
昨日までまったく気にしなかったけど、ぐるりと見回したあとに「がらんとした部屋だな」と思った。
整理されているわけじゃない。
私が薄っぺらいんだ。
ゲームやおもちゃで溢れていたら裕福だ、などとは思わない。だが老人になるまで一人きりでずっとこんな部屋にいるとしたらゾッとする。牢獄にいるのとなにひとつ変わらない。
子供のころというのは、己の未来についてよく考える。
作文などで書かされる「将来の夢」などという綺麗ごとではなく、もっと暗くて漠然とした不安を感じやすい。だから小夜がゾッとしたのは年相応のことであり、しかし目の前の課題をどうクリアすべきかという考えは年相応らしからぬ。
だから、すとんと大人しく勉強机に彼女は座る。
学ぶことには慣れている。
小さなころから習いごとを重ねてきたし、課題に対してどのようにすべきか考えるのも嫌いじゃない。
だからこの日もまた、小夜はひとつの作戦を決めた。
それは勉学には決して手を抜かないということだ。
優等生の姿を崩さない代わりに、美羽と遊ぶ時間を確保する。そのほうがきっと自分の将来にとって良いだろう。そう小夜は己の生き方を決めて、いまだにその道から踏み外していない。
学ぶことには慣れている。
だけどこれはどうなのだろうか。
不自然に現れたドアをくぐり、試しに触れてみた石壁はひんやりと冷たい。警戒心を最大まで高めていたから、カビ臭さや辺りを漂う埃に「本物だ」と感じ取れる。
こちらにお尻を向けて先導するイブは、薄暗い下り階段を慣れた様子で進んでゆく。その足音が響き、外からの喧騒がだんだん遠ざかるのを肌で感じて、ゴクッと小夜は喉を鳴らした。
果たして、学んで良いものなのだろうか。ここは。この場所は。
後ろからしがみつく小さな手を覚えながら、一歩ずつその道を降りてゆく。さて、鬼が出るか蛇が出るか。
呼吸はいつの間にか落ち着いていた。