第11話 あたしの兄貴だよ
がらっと戸を開けて、兄貴の部屋に踏み入った。
どちらかというとあたしは、オタクへの偏見というのはあまりない。というよりも、みんな少なからずオタク趣味を持っていると思うしさ。世の中には漫画とかアニメとか、それ以外にもたくさんの娯楽があって、このあたしだってゲームの腕を磨いているもん。
でもポスターとか人形とかキラキラのアニメキャラで溢れかえっていると……なぜかお尻のあたりがムズっとする。
ちゃんとお金を出して買ってるんだし、普段ならあんまり気にしない。だけど大事な大事なお泊まり会の前日なら話は別だ。
「兄貴、兄貴、大変だ。週末にあたしの友達が泊まりに来るよ。面倒だからどっかの橋の下で一泊してきて」
「はは、あいかわらずナチュラルにSAN値を削ってくるな、俺の愛する妹は。ところで男か? 女か?」
「……さんち? あのね、男のわけないじゃん。ほら、早くしないと橋の下が他の人に取られちゃうよ? 急ご?」
「分かった分かった、お前は言い出したら聞かないしな。とりあえず友達の顔写真だけでも見せとくれ。でないと誰から身を隠していいかも分からないだろう?」
そっか、確かに。敵を知るにはまず敵からって言うもんね。
いーよと返事をしてから兄貴の隣にペタンと座る。お風呂上がりだしホカホカだから半ズボン姿だよ。
じっと覗き込まれるなかスマホ操作をして、当の二人を映し出す。すると、ぺかっと画面が輝いたかのように兄貴は眩しそうな顔をした。
「ぐわあ、目が、目があっ!」
「どうしたの兄貴! 病院行く!?」
ごろろーっと転がる兄貴に驚いて、あたしはそんな大声をあげる。水族館でのたうつトドみたいだねと思いつつ兄貴の肩にしがみつくと、はあはあ息を荒げながら兄貴は振り返った。
「しまってくれ、けがれた俺にはまぶしすぎる。ふう、これが現役女子高生というものか。破壊力がすさまじい。もう大丈夫だぞ、イブ。やっと落ち着いた」
うわぁ、いろんな意味で心配だなぁ。やっぱり病院に連れて行ったほうがいいのかなぁ。
「まぶしいって、美羽ちゃんと小夜ちゃんのこと?」
そう呟きながらスマホをひっくり返してみると「確かにね」と思う。
ふわふわ笑顔でちっちゃい美羽ちゃんと、知的でクールな小夜さんが仲良く手を繋いでいるのは、クラスメイトのあたしが見ても微笑ましい。
ふふっと画面を見て笑っていると、いくらか冷静さを取り戻した兄貴はローソファにデンと腰掛けた。
「そっか、安心したよ」
唐突に優しい声を出すものだから、少しだけびっくりした。隣を見ると兄貴はあたしに向けて手を伸ばしており、戸惑いつつも右足を差し出す。
タオルで包み、ぎゅ、ぎゅ、と足首を中心に揉んでくれるのはいつものことで、これはリハビリの一環なんだ。見れば可愛い女の子たちの表紙が並ぶ本棚に、数冊ほどリハビリの専門書が置かれていた。
普段動かさない方向に伸ばされるとやっぱり痛い。でも大事なことだから文句を言わず、涙目になりながらじっと耐える。
デブだなんだと悪口は言うけどさ、なんでかな、兄貴のことはけっこー好き。子供のころからずっと優しいし。
「ん? だいぶ張ってるな。もしかして隠れて運動しているのか?」
「ううん、部活はちゃんと休んでるよ。あ、毎日ゲームで遊んでるのは関係ある?」
「いや、まったく。なんだろう、初心者だから変な力でも入ってるのかな」
アキレス腱からふくらはぎにマッサージは移ってゆき、くすぐったいと気持ちいいの中間で身悶える。大人しく寝そべって、されるがままに揉みほぐされてゆく。
んーー、手が大きくて気持ちいいかも。
あたしはちょっと厚めの唇をしていて、子供のころ周りにからかわれたことがある。タコとかタラコとか、そういう言葉でね。だからつぐんだりして隠す癖があるんだけど、こういうときは無理かなぁ。ほうと息を吐いて、半開きにさせながら呼吸を繰り返す。
そんなぽやんとしていたときに兄貴の声が響く。
「大会に出れなくてやさぐれていたけど、すっかり治ったようだな。このところ充実している感じもするし、学校を楽しめているようで安心した」
「やさぐれるって……そこまでだった?」
そう問いかけると兄貴はキョトンとした。
まさか覚えてないのかという目をされたけど心外だから。あたしは大人だし、相手に嫌な思いをさせたりしないもん。
なんて思っていたらなぜか兄貴はスマホを操作し始める。そして無言で画面をあたしに向けてきた。
『部屋から出てけ、兄貴! 邪魔なんだよ、あたしに近づくなキモオタ! バカ! デブ! なんなの? こんな姿を笑いにきたわけ? 言っとくけどさ、あんただってあたしのことを笑えな……』
「ぎゃっあああーーーー! ごめんごめん、ほんとごめんね兄貴! やだもう、なんかしゃべって! 無言はやだああ! ごめんってばああ!」
ぞわあっとしたよ。
あたしとは思えないドス黒さだけど、でもやっぱり過去のあたし本人の声だ。すっかり忘れていたのは記憶を封印していたのだろうか。それを一瞬で思い出してしまい、申し訳ないやらいたたまれないやらで手足が勝手にバタバタする。
ああーーっ、許されるなら過去のあたしを何発か引っぱたきたい!
「お願い、それを消して!」
肩につかみかかってそう言うと、にやあーっと兄貴は悪者みたいな笑みをする。えもいえぬ迫力そのに、あたしの顔は引きつった。
「いやぁ、これから橋の下を探しに行かないといけないから忙しいし。さて、どうしようかなあ。お泊まり会のとき俺もここにいて構わない?」
「い、いいんじゃない? いい考えだと思うよ、うん!」
「差し入れを持って行っても?」
ぐうっ、とあたしは唸る。
いつの間に、これほど弱い立場となってしまったのだろう。ただ「お泊まり会のときだけ橋の下にいて欲しい」というささやかで常識の範囲内の願いだったにも関わらず、だ。
この部屋にいるのは構わない。だけど差し入れをしに来るとなると話は別だよ。
「そんなのダメに決まって……!」
「ナーゲンダッツのアイスを持参しても?」
その一言で、ふわぁーっと頭にお花畑が広がった。
アイスカップひとつで300円は覚悟しなければならないあの高級品を!? そんなバカな! こんなの兄貴の罠に決まってる!
「ちょ、ちょっと考えさせ……」
「いま決断したら2個ずつ買ってくるぞ」
バカだ、本物のバカだ!
しょ、しょんなの悩むまでもなく屈するに決まってるじゃないかーー! バカバカ、もうほんとにバカ兄貴! 愛してる!
ふわー、なにもしないで極上スイーツを2つもゲットだよぉ。こんなのもう人生の勝ち組じゃん!
このときは気づけなかったんだ。
背後では兄貴があたし以上のにっこり笑顔を浮かべていたことを。あんなに気持ち悪い笑みは、生まれてから一度も見たことがないというのに。