第十六話 それぞれの絆 ③
手を伸ばせば触れられそうな至近距離で向き合うクレアとクラウス。
嘗て夫婦だったふたりは互いに視線を交差させるだけで何も語らず、沈黙だけがその場を支配する。
しかし、明らかにクレアは精彩を欠いており、困惑と焦慮が綯交ぜになったかのような表情からは、彼女の苦衷がありありと見て取れた。
その様子を見た達也は、この場で真相を詳らかにするのは、彼女の精神的負担が大きいのではないかと危惧して臍を噛むしかない。
しかし、クレアを気遣うと同時に胸の中に去来した妬心を自覚した彼は、知らず知らずのうちにその表情を曇らせるのだった。
(あいつの思惑はどうであれ……クレアにとって最愛の夫だった事に変わりはない筈だ……思わぬ再会を経て彼女の気持ちが変わってしまったら……)
こんな時に、浅ましい妄執に囚われている自分が情けないとは思いながらも、胸を衝く焦燥感には抗えず、愚にもつかない想いが脳裏を過ぎる。
だが、ヒルデガルドが投げ掛けた厳しくも真摯な言葉が、懊悩する達也を正気に引き戻した。
「ふたりの間に割り込む資格はボクらにはない筈だよん……どんな結末を迎えたとしても、結局はクレア君が決めるしかないのさ。彼女を信じて待っていておやり」
そう言われて我に返った達也は、苦く仄暗い感情を呑み込み、愛する女性に曇りない視線を向ける勇気を持てたのである。
すると、それと同時に場が動いた。
「久しぶり……というのは変ですねぇ……でも、お元気そうでなによりです」
まるで何事もなかったかの様に口元を綻ばせるや、飄々とした物言いをする クラウス。
しかし、死んだ筈の夫を目の前にして動揺するクレアは、その美しい顔を悲憤に歪めて声を荒げてしまう。
「ど、どうして! 生きていたのならば、どうして連絡してくれなかったのっ?」
妻としてそう問わざるを得ない彼女に、悠也……いや、クラウスは然も可笑しそうに口元を歪めたかと思えば、“何を今更”と言わんばかりに両肩を竦めた。
「貴女は聡明な女性ですからもう理解しているのでしょう? 銀河連邦大学お抱えの研究者『久藤悠也』などという人間は、初めからこの世の何処にも存在していなかったのだと……」
そう告げた瞬間、真実を吐露した男の顔が、夫とは似ても似つかない別のものへと次々に変化を繰り返し……そして最後に悠也の顔へと戻る。
その百面相の如き特殊能力を目の当たりにしたクレアは、驚愕と絶望に打ちのめされて悲痛な呟きを零すしかなかった。
「そ、そんな……そんなぁ……」
呆然と立ち尽くす彼女には構わず、喜色を含んだ口調で語り続けるクラウス。
「私はある機関のエージェント……下世話な言い方をするならば情報員、もしくはスパイと言えば分かりやすいですかねぇ。まぁ職業柄本名を名乗れない無礼は許して下さい。さて、この顔なのですが、カターナ星系の鉱山惑星。その星のスラム街で女を食い物にしていた男のモノでしてねぇ」
まるで手品の種を明かすかのような愉快げな物言いに耳朶を揺さ振られ、傷心のクレアは更なる苦悶に苛まれてしまう。
「や、やめて……」
「ある事件を調べている時に偶然出会ったのですが、これがどうしようもないゲスな男でして……」
「やめて、お願いっ……もう……」
「腐りきった性根は気に入らなかったのですが、顔立ちは知的で女性ウケが好い。命を貰うついでに面相も拝借したのですよ。良い拾い物でした。お蔭で女性相手の任務では度々役立ってくれましてねぇ……重宝しております」
「いやぁっ! もう、やめてっ! それ以上あの人を侮辱しないでえっ!」
クレアは悲痛な叫びを上げるや、両手で頭を押さえて膝から崩れ落ちてしまう。
あの幸せだった時間の何もかもが虚構だったと知っても、自分が愛していた夫を悪しざまに言われるのだけは耐えられなかった。
だがそれでも、ここで泣き喚いて逃げ出すわけにはいかない……。
そんな惨めな真似だけは絶対にできないと、彼女は震える膝に鞭打って立ち上がったのだ。
(ここで逃げたら何も変わらない……私はもう戻らない! 俯いて嘆き悲しむだけの日々には絶対に戻りたくはないっ!)
涙で滲んだ視界の端に、口を引き結んで此方を見ている達也の姿が映った。
自分を心配し気遣ってくれているのが一目で分かったが、それでも口を挟まずに耐えてくれている。
彼のその想いにクレアは申し訳ないと思いながらも、心から感謝せずにはいられなかった。
(達也さんはこんな私を信じてくれている……彼の為にも私がしっかりしないと)
そう想い定めて涙を拭い、再び嘗ての夫だった男と向かい合う。
「相変わらず強い人ですねぇ~~これ以上は本当に辛いだけですよ?」
クラウスの試すような物言いにも、クレアは静かに頭を左右に振った。
「それでも……目を閉じて耳を塞いだまま、何もなかった事にして生きて行ける筈がないじゃない。私にとって貴方は夫の悠也さんに他ならないわ……でも、貴方にとって私は……」
「その通りです。愛があったわけじゃありません。当時潜入捜査をしていた私は、遅々として進まない状況に歯噛みする思いでした……そんな時に貴女から告白されたのですよ……えぇ、本当に嬉しかったですねぇ。これで状況を打破できる。そう思って小躍りしたのを今でも覚えていますよ」
クレアは唇を噛んで、聞くに堪えない辛辣な言葉の刃に耐えた。
「早々に結婚式を挙げたお蔭で私は地球の市民権を得て、秘匿システムを搭載した旗艦への乗艦が許可されたのです。ギリギリでしたが何とか任務を果して、全てを闇に葬れました。貴女には本当に感謝していますが、謝罪する気はありませんよ。これが私の仕事ですからねぇ」
謝罪が欲しいわけではない……。
そんな偽りの言葉で、愚かだった自分に対する悔恨の情を打ち消せはしないのだから。
「さくらの事は……あの娘を身籠ったと告げた時、貴方はあんなにも喜んでくれたじゃありませんか?」
「ははは。それは仕方がないでしょう。想定外だったとはいえ、子の誕生を喜ばない親はいませんからねぇ。上辺だけでも喜んでいるフリをしなければ、それまでの苦労も水の泡になってしまうじゃありませんか……全く忌々しい限りでしたよ」
その言葉はクレアにとって一縷の希望が無残にも踏み躙られたのと同義であり、だからこそ、嘗て夫だった男を呆然と見つめるしかなかったのである。
「私はスパイです。生まれた子供のDNA鑑定から正体が知られた、なんて間抜けな事になったら一大事です。今更始末するという訳にもいきませんが、精々他人には口外しないように……私だって『子殺し』等という気分の悪い仕事はしたくないのでねぇ。しかし、まさか、たった二~三度情を交わしただけで子供ができるなんてね……皮肉なものですよ……まったく」
吐き捨てるかの様に零れた最後の言葉の意味は分からなかったが、そんな些事はクレアにとってはどうでもよかった。
彼女にとって重要なのは、自分達夫婦の間にあったのは一方通行の愛に他ならず、さくらは望まれて生まれた子ではないという酷い現実だけなのだから。
「……そう……それでは、私達はもう……」
「えぇ……幻の時間はとっくに終りました。久藤悠也は死んだのです……あの業火に焼かれ一片の骨も残さずにね……それ以上でも、それ以下でもありません」
抑揚のない冷淡な最後通告がクラウスの口から告げられた刹那。
パァーン! と虚しくも乾いた音が甲板上に響いた。
頬を張られたクラウスは双眸を閉じて無言。
細腕を振り抜いたクレアはグッと唇を噛み締め、瞳から零れ落ちる涙を拭おうともせずに踵を返すや、そのまま二度と振り返らずに艦内に駆け込んだのだった。
傷心のクレアの気配が完全に消えるや、クラウスは打たれた頬を軽く指先で撫でて皮肉げに口元を歪める。
「まあ、こんなものでしょう……我ながら完璧じゃありませんか?」
背後に達也とヒルデガルドの気配を感じたクラウスは、相も変らぬ飄々とした風情でそう嘯く。
すると、達也が何処か小馬鹿にした様に軽口を叩いた。
「情報局をクビになっても百面相の大道芸で喰っていけるさ……俺が太鼓判を押してやるよ。ただし役者はやめておくんだな……どんなに悪ぶって見せても底が浅いからシラケてしまう……精々ダイコン止まりだよ」
褒めているのか貶しているのか分からない台詞にクラウスは顔を顰めながらも、清々したと言わんばかりに忠告めいた台詞を返す。
「随分な言い種ですねぇ~~まあ、あれだけ冷たく突き放しておけば、二度と淡い希望に縋る気にはなれないでしょう。貴方も仏心を出して下手に慰めない方が良いですよ……彼女はああ見えて……」
「強いとでも? おまえこそ彼女の何を見て来たんだ? あれは強いのではない。愛娘の為に自分が強くなければならないと、精一杯虚勢を張っているだけだよ……クレアはそんな女性だ」
妙に確信的な達也の物言いに反論する気が失せたのか、黙り込んだクラウスは、小さく頭を振るのみだ。
「殿下。申し訳ありませんが、明日にでもお時間を戴けないでしょうか? 色々と厄介事があって、御相談したいのですが」
「構わないよ。ユリア姫の件だろう? お勧めのプランがあるから楽しみにしていたまえ。必要な機材が揃っているこの艦の方が都合がいいから、明日の午後七時頃でいいかな?」
「お待ちしております。しかし、微妙な時間設定ではありませんか?」
「ボクはクレア君の料理の虜になってしまってねぇ~~明日の夜も楽しみにさせて貰うよん……だから、必ず彼女の御機嫌を直しておきたまえ。タダ働きでもさせられた日には、ボクはショックで寝込んでしまうからね」
ニヤニヤと意味あり気に笑うヒルデガルドに苦笑いを返して一礼するや、クレアの後を追おうとした達也をクラウスが呼び止めた。
「白銀閣下。老婆心ながら御忠告しておきますが、シグナス教団は今回の西部方面域の配備艦隊縮小を千載一遇の好機と見ています。既に息の掛った大統領が政権を掌握して準備は万端。グランローデン帝国軍が矢面に立って侵攻するなど有り得ませんが、友好国という名の属国が地球に宣戦布告すれば、戦火を避け国民を護るという大義の下、大統領は無条件降伏を宣言し、地球圏を銀河連邦から脱退させて帝国側に寝返らせるでしょう……此の儘では半月後には確実に起こりうるシナリオですよ?」
クラウスの値踏みするかの様な視線に応え、達也は不敵な笑みを返す。
「然も航宙艦隊幕僚本部総長のクルデーレ大将が裏で檄を飛ばし、近隣の海賊連中を焚き付けているしな……何が何でも俺を失脚させたいらしい。戦闘中に統合政府が連邦離脱を言い出すタイミングに合わせて、反銀河連邦派の連中は決起するだろう……こういう仕打ちを《いじめ》と言うんじゃないか?」
まるで他人事のようにそう語る達也に、クラウスは不謹慎だとは思いながらも、感じた儘の思いを口にしてしまう。
「閣下は根っからのガキ大将ですねぇ。四面楚歌の状況を楽しんでいらっしゃる。これでは相手に同情するしかありませんねぇ」
「馬鹿言えっ! 二十倍の敵に同情する奴が何処にいるか! まあ負けてやる気はないがね……抵抗するなら全て排除するさ。だが忠告には感謝する……ほら、受け取れ!」
達也が右腕を振ると、その手元を離れた物体が放物線を描いて飛ぶ。
それを難なくキャッチしたクラウスは、掌に収まる程度の小さな筒状の物体を見て小首を傾げた。
「なんですか、これは? 何かの情報端末ですかねぇ?」
「マイクロチップ搭載の小型ホログラム投影機だよっ。市販の携帯端末で撮影した写真や映像を大気中に立体投影できる優れモノだ。さっきの下手な芝居のお駄賃にくれてやる」
そう言われて何気なく投影機の始動スイッチに触れた途端、クラウスの目の前に、可愛らしい黒髪の少女の写真や映像が次々に映し出される。
満面に微笑みを浮かべたさくらが躍動する映像を目の当たりにした彼は、不意を突かれた所為もあってか、驚きを露にして呻くしかない。
「こ、これは……」
珍しくも狼狽するクラウスは、今まさに艦内に消えようとする達也の背に困惑した視線を向けたのだが……。
「たとえ長命種であっても、最初の子供は可愛いものだろう?」
一度だけ足を止めた達也はそう嘯くや、二度と振り返らず姿を消すのだった。
投影されている映像を呆然とした面持ちで見ていたクラウスだが、ヒルデガルドの視線に気付いてスイッチを切るや、わざとらしく咳き込んで見せながら投影機をポケットに仕舞い込んだ。
「ま、まったく……どういうつもりなのですかねぇ……私には百二十年も連れ添っている愛妻がいるのですよ。こんなものが見つかりでもしたら、妻から離婚裁判を起こされてしまいます。何の嫌がらせなのですかね」
「ほぉう? ぶつぶつ言っている割には大事そうにポケットに仕舞ったじゃないかい? 嬉しいなら嬉しいとそう言いたまえよ。情報員だって人間じゃないか。何を恥ずかしがる必要があるんだい? んっ? んんっ?」
意地の悪い笑みを浮かべて弄る気満々のヒルデガルドに、クラウスは嫌悪感を露にし早々に一礼を返す。
「今回の御恩は後日必ずお返しいたします。それでは……」
そう早口で捲し立てるや否や、身を翻して周囲の闇に溶け込むように姿を消すのだった。
◇◆◇◆◇
(さてさて、お姫様は何処に隠れたかな)
あの様子では子供達の寝ている部屋に戻らないだろうと考えた達也は、他の場所へと足を向けた。
軍用艦としては中型以下にクラス分けされるリブラでは、乗員の為の空間を十全に確保するのは難しく、落ち着ける場所は限られてしまう。
同じフロアーの後部区画にある喫茶ルームではないかと当たりを付け、その入り口から暗い室内を覗いてみると……。
予想通りクレアは其処にいた。
非常灯が一つ灯っただけの薄暗い部屋に、然も、部屋の隅の長ソファーに両膝を抱えて座り込み、顔をその狭間に埋めて声を押し殺して泣いている。
(艦長室にでも立て籠もられたらどうしようかと思ったが、ここなら話もできる)
思わず漏らしてしまった安堵の吐息ですら、深夜の室内では充分な音を響かせてしまい、驚いたクレアは顔を上げて達也を視認するや否や、鼻にかかった泣き声で懇願した。
「こっ、来ないで達也さん! 今は話したくないの。お願いだから私なんか放っておいて頂戴っ! そうでないと私……またあなたを困らせてしまうものっ! もうこれ以上迷惑を掛けたくないのっ!」
だが、そんな悲痛な声など気にもせず室内に足を踏み入れた達也は、ソファーに座り込む彼女の隣に腰を降ろすのだった。
泣き顔を見られたくない……。
そんな想いに胸を衝かれるクレアは、再び顔を伏せて掠れた声で哀願した。
「来ないでって言っているのにぃ……もう惨めな姿を見られたくないの。あなたにだけはっ! だから、だからぁぁ……」
言葉を重ねる毎に感情は昂り、言わなくてもいい事まで口走ってしまう。
「一人で勝手にのぼせ上がって、愛されているのだと勘違いしてっ! その挙句に望まれもしない子供まで……あの娘にっ、さくらに何と言って詫びればいいの? 私が世間知らずで愚かだったばかりに!」
美しい碧眼の瞳からぽろぽろと涙を零し、自らを責め苛む愛しい恋人に、達也は静かな声で労わるように告げた。
「八つ当たりだろうが愚痴だろうが、君が苦しんでいるのなら喜んで俺が受け止めてあげるよ……その程度の事を迷惑だとは思わないし、何よりもクレアの泣き顔は見たくないからね」
「あっ、あなたは優しいもの。優しくて強いから、いつだって私は甘えてしまう。でも甘えているだけじゃ駄目なのっ! 私だって、達也さんを支えられるぐらいに強くなりたいのよ!」
涙に濡れて赤くなった双眸で訴える恋人に何処か寂しげな視線を投げた達也は、クレアの華奢な肩をそっと抱き寄せた。
「だ、駄目っ! そんな風に誤魔化していい問題じゃないの!」
慌てて顔を上げて抗議する彼女に、静かな声で諭すように語りかける。
「誤魔化す気などないよ。いいかいクレア。自分が苦しい時に家族に救いを求めるのは弱さではないし恥でもない……俺にだって悩みはあるし、辛い事だってある。以前は仏頂面して周囲を誤魔化していたが、今は、君とさくらがいて、ティグルもいる……ユリアも家族になってくれるだろう……その事実が、どれほど俺を救ってくれたことか」
肩に触れている大きな掌から温かい優しさが伝わって来るのが嬉しく、クレアは溢れる涙を我慢できなかった。
自分の存在が彼の救いになっていたのだと告げられただけで、寒々としていた 心に暖かい風が吹き抜け、身体を縛っていた闇を振り払ってくれる。
「た、達也さんはずるい。そんな風に言われたら、文句を言えなくなるって知っているくせに……」
「君の笑顔が見れるなら何だってするよ。だから全てを話そうと思う……あの事件の時に起きた、あの男と君にとって、本当の意味での『想定外』についてね」
何処か寂しげな達也の表情に不安を覚えたが、それでもクレアは真実を知りたいと切に願った。
「聞かせてください。お願い、達也さん……」
抱えていた両脚を床に降ろして姿勢を正すや、クレアは真剣な瞳を達也に向けてそう懇願したのである。




