第十五話 想定外 ③
訓練指導を終えた達也は、隣でデーター整理を手伝ってくれているクレアに声を掛けた。
「さて、約束の時間まで二時間ほどしかない。機材の準備は真宮寺達がやってくれるそうだから、僕らは食材の調達に行こうか?」
「そうね。行きつけのスーパーマーケットなら配達もして貰えますし、車なら十分ぐらいの距離ですから、あっ、でも……」
微笑みを浮かべていたクレアだったが、急に顔を曇らせ口籠ってしまう。
外出するには候補生たちが大勢いる校内を突っ切って正門から外に出るしかなく、不特定多数の不愉快な視線に晒されるのは避けられないだろう。
達也との交際を詳らかにすれば煩わしい諸事から解放される……。
そう安易に考えた所為で、最愛の恋人が謂れもない誹謗中傷を受けているのだから、クレアが憂慮するのも当然だった。
だから、自分の浅慮を恥じ入ると同時に、申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうなのだ。
「あ、あの……買い物は私が一人で行ってきます。達也さんは考課表の作成もあるでしょうし、その……あうぅ……」
何かしら適当な口実を設けて説得しようとした彼女の努力は、想い人からの熱い視線の前に水泡へ帰してしまう。
顔を赤くして俯くクレアを達也は素直に可愛いと思ったが、そんな事を口にしようものなら手痛い反撃を受けるのは明らかなので、努めて生真面目な表情を崩さずに言葉を返した。
「ランチの時にも言ったけれど、誰が何を言おうと気にしなくて良いんだよ。俺は君を愛しているし、君に愛して貰えて最高に嬉しい。その想いは俺と君が共有していれば良い事だし、誰に遠慮する必要もないだろう?」
「えっ、ええ勿論です……私も貴方を愛しているし、愛して貰えて本当に嬉しい。その気持ちに嘘はないわ。でも、だからこそ……私が軽率な真似をしたばかりに、あなたが悪く言われるなんて我慢できないの……その上、根も葉もない言い掛かりまで……」
込み上げて来る感情を抑えられないのか、クレアは涙ぐんでしまう。
すると、悄然と俯く彼女の華奢な肩を抱き寄せた達也は、諭すかの様な物言いで本心を伝えた。
「互いに想いを確かめ合って交際を始めたのだから、堂々としていれば良いのさ。俺は君とコソコソ隠れてつき合う気は無いし、誰に聞かれても『クレアは俺の恋人です』と言うつもりだしね」
強面の御面相には似つかわしくない、甘々の殺し文句を耳元で囁かれたクレアは照れてしまったが、不意打ち同然に唇を奪われるや、その心地良さが嬉しくて達也に身を委ねてしまう。
「あんっ、うん……んん……」
甘いくちづけから解放されたクレアは、羞恥に顔を朱く染めて上目遣いで達也を睨みながら拗ねた口調でお説教……。
勿論、それは照れ隠し以外の何ものでもなかったのだが……。
「もっ、もうっ! 柄にもない口説き文句も強引なキスも、まるで子供扱いされているみたいで……とっても悔しいわ……今までに何人の女性に同じ言葉を囁いたのやら! これから先が思いやられますっ!」
「おいおい、それは濡れ衣だ。こんな想いを向ける相手は、今までもこれからも、君だけだよ……クレア」
最後まで内心の気恥ずかしさを押し隠し、真顔を装い通した達也の圧勝だった。
「うぅぅ~~……ばか、達也さんの意地悪ぅ──ッ!」
甘い殺し文句にクレアは耳まで真っ赤にするや、達也の胸に顔を埋め、照れ隠しに恋人を詰ったのである。
暫し甘い雰囲気を楽しんだふたりは、さくらとティグルも連れて買い物に出掛けると決めたのだが……。
「お~~い。クレアさん? 流石にこの格好は目立ち過ぎではないかい?」
笑顔で燥ぐさくらを肩車する達也の頭にはティグルが鎮座。
そして、左腕はクレアの右腕に絡め捕られてしまい……。
見事な家族団欒の図に、嬉しいやら恥ずかしいやらで一応抗議を試みる達也。
「達也さんの気持ちを尊重して私も覚悟を決めました。だから教え子に私達の仲の良さを見せ付けてあげましょう……うふふふ」
澄まし顔でそう宣うクレアの方が一枚上手だったな、と反省する達也だった。
◇◆◇◆◇
海岸沿いの埠頭から裏門を抜けて暫し歩くと、次第に候補生の姿が増えはじめ、本校舎前に辿り着いた頃には白銀一家は周囲の耳目を一身に集めていた。
《不似合い・不釣り合い》と揶揄されているお騒がせカップルに加え、可愛らしい少女と純白の幼竜という組み合わせは、多感な年頃である候補生達の視線を嫌でも引きつけずにはおれない。
普段ならば、好奇心旺盛な候補生達に囲まれ身動きがとれなくなるのだが……。
教え子達は誰も彼もが後ろめたそうな、そして、申し訳なさそうな表情で視線を逸らして足早にその場を離れていくのだった。
その様子を見たクレアは、彼らも被害者なのだと気付いてしまう。
「達也さん……あの子達も……」
「あぁ……自発的にやっている者ばかりではないのだろうね……」
その声音に苦いものが含まれているのを感じたクレアも、教え子達が置かれている状況を察せざるを得なかった。
恐らく達也を快く思わない教官や上級者から強要され、騒動を演出する手伝いを余儀なくされている者も大勢いるのだろう。
『退校処分にされた二十人のようになってもいいのか?』と脅されれば、唾棄すべき申し出であっても、十代の未熟な若者にそれを拒絶するのは難しいだろう。
そんな事情を察したクレアも、分別もなく醜いエゴを強要する者達に怒りを覚えずにはいられなかった。
「俺たちまでもが責めたのでは、あの子らが余りにも不憫だよ。だから、何も言う必要はないさ」
「達也さんの言う通りね。あなたを侮辱されて私も平静を失っていたみたい……」
左腕に絡む細い腕に力が籠った時だった。
「いい加減にして下さい! こんな恥知らずな行為は、もうまっぴら御免です!」
放課後の弛緩した空気を切り裂く様に、女子生徒の怒鳴り声が辺りを劈いた。
何事かと声がした方に目をやれば、教室棟の玄関前に人垣ができているのが目に入る。
何やら不穏な雰囲気を感じた達也は、さくらを肩から降ろしてティグルと一緒にクレアに預け、その人だかりへと歩を進めるのだった。
◇◆◇◆◇
教官たる自分の命令を拒絶した挙句に、反抗的な態度を露にする女子候補生を、ジェフリー・グラスは怒りに満ちた視線で睨みつけていた。
職業軍人になって以来、順調にエリート街道を歩んで来た彼は、将来性も上官の覚えも同期の仲間の間では抜きんでた存在だ。
そんな勝者である筈のジェフリーが味わった屈辱を言葉で言い表すのは容易ではなく、その鬱積した憤懣は並大抵のものではなかった。
(全てはあいつがッ! あの男の所為だッ! あの毒虫めがぁ──ッ!)
少尉任官という餌をチラつかせて成績優秀な候補生を飼い慣らし、自身の手駒として幕僚部に送り込むのがジェフリーの常套手段だ。
その結果として自分の評価も上がるし、将来出世した時には己の派閥の手駒として期待できる、というのが彼の思惑だった。
しかし、その濡れ手に粟の妙手が通用しなくなりつつあるのだから、彼が苛立つのも無理はないだろう。
ジェフリーにとって士官学校の教官職は有力な上官と知己を得る為の場であり、彼の華やかな将来を彩る都合の良い側近確保の狩場に過ぎないのだ。
しかし、この二か月の間に学年首席と次席は反旗を翻し、現職の軍高官の父を持ち利用価値が高かったヨハンまでもが彼の元を離れていった。
それと同時に、自分を見る候補生達の目が冷たいものになっていく様に感じられ、不愉快な感情に苛まれ腹立たしくて仕方がない。
参謀部の重鎮に働きかけて適当な理由をでっちあげ、反抗的な者共を退校処分にしてやったのに、気落ちして嘆く所か益々躍起になって訓練に励む始末……。
それらの全てを主導した白銀達也には、もはや憎悪以外の感情を懐く事はできず、そのどす黒い怨嗟の情は日々大きくなるばかりだった。
然も、秘かに自分のモノにと狙っていたクレア・ローズバンクを達也が篭絡せしめるに至り、ジェフリーの憎悪は頂点に達したのである。
この件が発端となって、学内の仮想掲示板に達也への誹謗中傷が投稿されたのを幸いに、自分の息の掛った在校生達に、達也を貶める投稿を書き込む様にと強制的に命令したのだ。
候補生らの行為ならば表立って問題にはなるまいと高を括り、憎みても余りある男を一方的に叩きのめすのも可能だ、と暗い愉悦にほくそ笑んだのである。
少尉任官というエサをチラつかせれば逆らう者はいないと思い込み、片っ端から誹謗中傷の書き込みをするように強要したのだが、それは完全な思い違いだった。
眼前の女子候補生は、彼が用意した達也に関する嘘の経歴が書かれた資料を地面に叩きつけ、公然と反旗を翻したのだ。
それが衆人環視の中で行われたとなれば、教官としてのジェフリーの面子は丸つぶれ同然であり、それ故に胸の中に渦巻く怒りは尋常のものではなかった。
「きっ、きさまぁぁ、なんだその反抗的な態度はっ!? 並み以下の成績しか残せないお前に目を掛けてやった恩を忘れたのかッ!?」
「私は如月さんや皇君みたいに優秀じゃないけど……白銀教官を尊敬する気持ちは彼らにも負けないつもりですっ! こんな姑息な真似をして自分に嘘をつくのは、もうたくさんですッ!」
「なにを馬鹿なっ! 士官学校も出ていない下品で無教養な傭兵上がりの男の何処が尊敬に値するというのだ!? 馬鹿も休み休み言え!」
「たかが士官学校を出た事がそんなに偉いのですか? 私は先月の航宙研修の時に白銀教官に命を救けて戴きました……それなのに殊更に誇る訳でもなく、ましてや貴方の様に恩着せがましい物言いもしないっ。そんな方を理不尽な誹謗中傷に晒す手伝いなど、まっぴら御免だと言っているんですよ!」
女子候補生の瞳に浮かんだ侮蔑の感情を認めた瞬間、ジェフリーの視界が怒りで真っ赤に染まり、彼女の顔とクレアの顔が重なって見えた。
「生意気を言うなぁッ! この売女めがっ!」
日頃のクールな仮面は完全に剥げ落ち、嚇怒した形相で叫ぶや、大きく振りかぶった握り拳を全力で振り下ろすジェフリー。
気丈にも彼を睨みつけて微動だにしない女子生徒の顔に、手加減なしの拳が打ち据えられようとした瞬間、痛ましい光景を幻視した候補生達は、思わず目を瞑るか顔を逸らしていた。
しかし、寸瞬の間が過ぎたにも拘わらず、嫌な打撃音もしなければ、女子生徒の悲鳴も聞こえない。
周囲の候補生達が恐る恐る眼を開けたその先には……。
「き、きさまぁ~~っ! また、邪魔をするのかッ!」
「幾ら何でも、女子生徒の顔を殴打するのは、指導の範疇を超えているよ」
女子候補生とジェフリーの間に割って入った達也が、その拳を片手で受け止めて微動だにせず、激昂する彼と睨み合っている姿があった。
忌々しげに舌を弾き腕を振ってその拘束を逃れたジェフリーは、取り巻き連中が立つ場所まで後退して毒づく。
「またお得意の人気取りか? だが生徒達だっていつまでも騙されてはいないぞ。お前の正体は白日の下に晒され、批判の嵐が吹き荒れているじゃないか? どんな気分だ? 自分が庇って来た者達に見限られるというのは?」
達也を揶揄する下衆な言い種に反応したのは、意外にも周囲を取り巻く候補生達だった。
ジェフリーの発した罵倒に唇を噛んで俯いたり、達也から視線を逸らしたりと、一様に苦い表情を浮かべている。
今回の騒動は達也を貶めるよう強要された大勢の候補生達が、過激な反応をした一部の候補生や教官連中に追随した挙句の炎上騒ぎに過ぎない。
教官の命令に逆らえば次に落第させられるのは自分ではないのか、という恐怖に負けて騒動を煽る行為に手を貸したが、達也に対して何も悪感情を持ち合わせてはいない者達にとっては、ただ後ろめたい思いを懐いただけの辛い行為に他ならなかったのだ。
しかし、そんな鬱屈した思いを持て余す候補生達は、ジェフリーの罵倒を鼻先で嗤い飛ばした達也の言葉に呆然と立ち尽くすのだった。
「見限られると言われてもなぁ……俺を好きだと言う者がいれば、嫌いだと言う者がいるのは当然じゃないか? 俺は聖人君子でも八方美人でもない。好んで嫌われようとは思わないが、不必要に自分を飾り立ててまで好かれたいとも思わないよ」
その飄々とした物言いからは欠片ほどの虚勢も感じられず、その事実に驚いた候補生達は、今度こそ顔を上げて声の主を目で追った。
その言葉が癇に障ったのか、ジェフリーらは憎々しげな表情で睨み返したのだが、そんな彼らへ鋭い視線を投げた達也は厳しい口調で反問する。
「俺に対しては何をやっても構わないが、どうせならば君達自身が己の言葉と意志で戦ってみてはどうだ? 教え子を盾にし、その後ろで策士を気取るなんて軍人としては誇れたものでもあるまい?」
憎い相手に窘められるという屈辱に嚇怒したジェフリーは、顔を歪め何も言わずに踵を返したのである。
その軍人らしくない矮小な態度に達也は溜め息を零すしかなかったが、背後から微かに聞こえる嗚咽に気づいて振り向けば、先程まで威勢のいい啖呵をきっていた女子候補生が咽び泣いており、少々驚いてしまった。
「す、すみませんでしたっ! わ、私、教官に命を救けて貰ったのに……浅ましい欲望に負けて……私は、私はぁ~~~」
彼女は最後まで言葉を続けられず、謝罪さえ満足にできない自分が情けないと自嘲しながら立ち尽くしてしまう。
すると不意に優しく頭を撫でられて驚いた彼女が涙に濡れた顔を上げると……。
そこには口元を綻ばせた達也の穏やかな顔があった。
「なにを恥じる必要がある? 君は自分の意志で戦うと決めたのだろう? それは称賛されるべきで非難される謂れはないさ……改めて感謝するよ。庇ってくれて、本当にありがとうな」
優しい言葉をかけて貰った彼女は感情が溢れて堪らなくなったのか、達也に縋り付くや、今度こそ声を上げて泣きじゃくるのだった。
そんな彼女の背を撫でながら、達也は周囲の候補生達にも言葉を掛ける。
「お前達にも言っておくが、俺に遠慮する必要など何もない。他人に嫌われて孤立するのを恐れるな。人にチヤホヤされて驕るな……俺はそう教わった。自分自身がどうあるべきか常に自分に問い掛け研鑽を積みなさい。それが君達の成長に大きく寄与する筈だから」
その言葉を最後に、一人また一人と候補生達が去っていく。
縋り付いて泣いていた女子生徒も笑顔を取り戻し、少し離れた場所で心配そうに様子を窺っていた友人らの元へと駆けて行って騒動の幕は下りた。
(あの子達が何かを考える切っ掛けになったと思えば、無駄ではなかったかな)
だが、そう自分自身を納得させて一件落着……とはいかないようで……。
「女子候補生を優しく抱きしめて勇気づけてあげるなんて本当に立派ですこと……でも、お鼻の下が随分と伸びている様に見えるのは、私の思い過ごしかしら?」
朗らかな声とは裏腹に、底冷えするような視線が背中に突き刺さる。
「むうぅ~~お父さんのエッチ! お父さんはさくら以外の女の人を抱っこしちゃダメなのぉ──ッ!」
【ドサクサ紛れのスキンシップはセクハラに該当すると思われます……不潔です】
ティグル以外の家族からの総攻撃を受けた達也は、憤慨して公然と反論を試みようとしたのだが……。
クレアの拗ねた顔と、唇を尖らせてお冠のさくら、そしてクレアの制服の胸ポケットの辺りから漂うユリアの不穏な波動には敵う筈もなく。
敢えなく白旗を掲げて降参せざるを得なかったのである。




