第七話 日雇い提督は大いに戸惑う ③
凡そ人間は、自分に出来ない事を容易く成し遂げてしまう他人に対し、心からの称賛と尊敬の念を懐くものだ。
勿論、妬み嫉みといった後ろ向きの感情に煽られ、相手を貶めて留飲を下げる狭量で偏屈な御人もいるのだが、達也は明らかに前者である。
(これが、俺の部屋なのか? 見違えてしまったなぁ……)
僅か二時間ほどで、世紀末ゴミ屋敷から小綺麗な生活空間へと変貌を遂げた己の住居を目の当たりにした達也は、クレアに畏敬の念を懐いくしかなかった。
台所周辺に散乱していたゴミは全て片付けられ、シンクに溜まっていた汚れ物は食器棚に整然と並べられてピカピカの光沢を放っており、脱ぎ散らされていた衣類は一枚残らず洗濯され、四月の清風に舞うようにベランダではためいていた。
埃が舞っていた部屋は掃除機で綺麗にされ、隅々まで磨き上げられた加工材の床は、差し込む陽光を反射して部屋の中を華やいだものにしている。
その見違えるほど綺麗になったリビングで、達也、クレア、そしてさくらの三人とティグルは、少し遅めの昼食を共にする所だった。
中央に設えられた応接用のテーブルには、色鮮やかなサンドイッチが盛り付けられた大皿が所狭しと並んでいる。
それとは別に、食欲を刺激する豊潤な香りを放つコンソメスープや、季節の果実を使ったフレッシュジュースも用意されており、その手抜かりのない陣容からは、クレアの本気度がありありと見て取れた。
だが、本来ならば楽しい食事になる筈が、場の空気は想像以上に重い。
テーブルを挟んで長椅子のソファーに座っているクレアとさくら、そして対面の床に正座させられて委縮している達也とのコントラストが原因なのは一目瞭然だ。
その時、まさに被告人を断罪する裁判官の声が、麗らかな春の午後のリビングに響いた。
「……まったく……休日に他所の家の大掃除をする羽目になるとは思いもしませんでした。そもそも、どんな仕事でも鮮やかに捌いてしまう貴方が、どうして私生活ではグダグダの駄目人間に変貌してしまうのですか?」
ゴミ屋敷撲滅作戦に奮戦せざるを得なかったクレアは不機嫌さを隠そうともせず、神妙な表情で正座している駄men'sを叱責する。
一方で隣のさくらはティグルを膝の上に乗せ、手ずからサンドイッチを食べさせながらも、心配そうな顔で母親と達也を交互に見ていた。
「い、いやはや……全く面目次第もない。迷惑をかけて済まなかった……」
非が己にあるのは明白であり、弁明の余地は欠片もなく、ひたすら謝罪するしかない達也。
そんな彼にクレアは、厳しい表情のまま冷淡な声音で言い放った。
「いいですかっ! 今後お部屋の掃除や洗濯を疎かになさるのであれば、さくらのこの部屋への出入りは一切禁止させます! 勿論! 一緒に遊ぶなどもってのほかですッ!」
そのペナルティが今回の懲罰に相応しいか否かは甚だ疑問だが、スペアーキーを手渡した時の嬉しそうなさくらの笑顔を思い出せば、あからさまに反論するのも躊躇われてしまう。
「そ、それと、これとは……」
しどろもどろになり言い訳をしようとする達也に、クレアは《ビシッ!》という効果音が聞こえてきそうな勢いで、その白い人差し指を突きつけた。
「それもこれもありませんッ! さくらは女の子なのですよ! あんな汚れ放題の人外魔境が、人が暮らす住居として許されると勘違いでもしたら、この娘の将来に差し障ります! 延いては、結婚にも悪影響を及ぼすかもしれないのですよ!」
あまりに大袈裟ではないかと内心で悲鳴を上げたが、娘を想う母親の言い分としては真っ当なのかもしれないと思い直した達也は、お叱りを甘受するしかない。
しかし、このクレアの叱責に猛然と反発したのは、他ならぬさくらだった。
「いやあぁぁっ! さくらやだよぉっ! 白銀のおじちゃんと会えないのは駄目だよぅっ……遊べないのはもっと嫌だもんッッ!」
小さな両の瞳に涙を浮かべ哀願するさくらだったが、そんな反応など百も承知しているクレアは、いっそ気持ちいいぐらいに母親の顔をするや、微笑みと共に娘を唆したのである。
「さくら……何時もママは言っているでしょう? 自分のお部屋は自分でお掃除しなさいって。あなたはちゃんと言いつけを守っているから、ママは怒ったりしないでしょう? 白銀さんがさくらと同じようにちゃんと掃除ができるのなら、今まで通り遊んで貰っても構わないわよ」
この母親の言葉を聞いた途端、さくらの顔がぐるんと高速で回転するや、正座する被告人を瞬時にロックオン。
そして次の瞬間には撃ち出された対空ミサイルの如き勢いで全力でダッシュし、そのまま達也の膝を跨いで正面から抱きついたのだ。
そして、可愛い眉を八ノ字にして、『むうぅぅ~~!』という唸り声が聞こえてきそうな切羽詰まった顔で必死に懇願する。
「白銀のおじちゃんっ! ちゃんとお部屋を綺麗にしなきゃダメだよぉ~~ッ! でないとお父さんって呼べなくなっちゃうよっ! そんなのやだっ! 絶対にやだもんッッ!」
半泣きで哀願してくる少女にどう応えればいいのか、達也は戸惑うばかりだ。
然も、ホトホト困り果てて視線を彷徨わせれば、愛娘を意の儘に操る母親と目が合ってしまい、そこには、『この娘の願いを拒絶できるものなら、やってごらんなさい』と言いたげな表情のクレアが、意地の悪い笑みを浮かべており、致命の一弾を回避できずに被弾した達也は、撤退もままならずに白旗を上げるしかなかった。
「わ、分かりました……俺の負けだね。これからは心を入れ替えて家事もちゃんとやるよ」
「本当っ! さくらのお願い聞いてくれるの?」
「ああ。約束するよ……指切りしようか?」
「うんっ! 指切りげんまん! 嘘ついたら、針千本のぉ~~ますっ! 指切ったぁっ! ありがとうっ! 大好きだよぉ、達也お父さんッッ!」
素直に反省して謝罪する達也と、喜色に顔を綻ばせて心底嬉しそうなさくら。
そんなふたりを見たクレアは澄まし顔を取り繕っていたものの、内心では安堵し胸を撫で下ろしていた。
堪忍袋の緒が切れて一時は激怒したものの、片付けに追われているうちに冷静さを取り戻せば、自分が取った行動は出過ぎた行為ではなかったかと思えてしまい、大いに後悔したのだ。
(私ったら……いくら白銀さんの不精が過ぎたとはいえ、彼の奥様でもないのに、本気で叱責してしまうなんて……図々しいと呆れられたのではないかしら?)
言い過ぎてしまったという思いはあった。
偶然の出逢いからひと月も経ってはいないが、達也の人となりを知るには充分な経験をしたといえるだろう。
軍人として、また教官としての能力は、自分など及ぶものではないと強く確信しているし、教え子に対する真摯な態度には敬意を懐かずにはいられないほどだ。
しかし、自分が軍人として達也に劣るという事を思い知る度に、やる瀬ない嫉妬心を懐いたのも事実なのである。
それが、達也にも苦手なことがあると知った時、実のところ怒り以上に安堵している自分を見つけ、秘かに自己嫌悪を覚えてしまった。
独身男性の一人暮らしなど、程度の差はあれ五十歩百歩(?)であろうし、殊更に目くじらを立てて叱責した自分の方が行き過ぎていたのではないか……、
そうクレアは自戒したのである。
(余計な御世話だと不快に思ってもおかしくはないのに……さくらの為に我慢してくれたのだわ……だったら、これ以上文句を言うのは野暮ね)
「さあ。話が纏まった所で、少し遅くなったけどお昼にしましょうか?」
漸くお許しを貰い正座から解放された達也は、一人用のソファーに座り直す。
するとニコニコ顔のさくらが『ここは自分の指定席だもん!』と言わんばかりに、堂々と達也の膝の上に這い上がって鎮座し、クレアを呆れさせた。
「えへへへ……」
「もう、しょうのない娘ね。お行儀良く食べるんですよ」
嬉しそうに笑いながらサンドイッチを頬張る愛娘に注意したクレアが、膝に乗せたティグルへカツサンドを手渡してやると、器用にも小さな両手でサンドイッチを受け取った幼竜は、幸せそうな顔で遠慮もせずに旺盛な食欲を発揮する。
そんな光景を目の当たりにした達也は、ひどくもどかしい感傷を覚えずにはいられなかった。
とっくの昔に失くしてしまった家族の温もり……。
それは自らが納得尽くで選択した道ではあったが、その結果残されたのは虚しさだけだった。
眼前の母娘の幸せを思えば嬉しくもあるのだが、そこには自分の居場所はないのだと思い知らされ、言い様のない寂寥感に囚われてしまう。
「さあ、白銀さんも召し上がって下さい。味の方は気に入って貰えるかどうか分かりませんが……」
「あっ、ああ、それじゃぁ、遠慮なく……んっ! これは、美味いっ、凄く美味しいよっ!」
クレアの声で我に返った達也は悔恨の情を胸の奥へと押しやり、眼前の安らぎを堪能しようと笑顔を取り繕うのだった。
「凄いなぁ……こんなに美味いサンドイッチは初めてだよ。うん! ハムサンドも美味しい! これなら何処の名店の品にも負けやしないさ!」
「そ、そんな、大袈裟ですわ……」
子供のように目を輝かせて美味しいと言ってくれる達也が、とても眩しく見えて、クレアは思わず照れてしまう。
自分の料理を褒められるのが、こんなにも嬉しいなんて……。
胸中に去来した喜びに自然と口元が綻ぶ。
すると、只でさえ気恥ずかしい思いをしている母親に、愛娘からの無邪気な追撃が浴びせられた。
「ママの料理は世界一なんだもんっ! 食べていいのはぁ~さくらとぉ、ティグルとぉ~! 達也お父さんだけぇッ!」
「ち、ちょっと! さくらったらっ!」
さくらの突拍子もない奇襲にクレアは慌てふためいてしまう。
愛娘から家族認定された達也と思わず顔を見合わせてしまった。
何と返答すれば良いのか逡巡しているのだろう、達也は如何にも照れ臭いといった風の苦笑いを浮かべている。
彼も自分と同じ事を考えたのかと思うと、自然と頬が熱を帯びてしまい、クレアは恥ずかしくて目を逸らさずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇
三人と一匹で談笑しながら楽しい時間を過ごした後、達也は改めて礼を言った。
「せっかくの休日に家事までして貰った上に、美味しい食事まで御馳走してもらって本当に感謝しているよ……ありがとう、ローズバンクさん」
「いえ……私こそ、余計なお節介だったのではないかと……」
「そんな事はないさ。本当に助かったよ。約束はちゃんと守るからね」
そう言って笑う達也に、クレアは出過ぎた真似だと承知した上で訊ねてみた。
「普段のお食事は、どうなさっておられるのですか?」
「ははは、恥ずかしながら、そちら方面のスキルは壊滅的でね。昼食は学校の食堂で済ますけど、夜は仕出し弁当か、昨日スーパーで買ったようなモノかな」
然も当然だと言わんばかりに語られる内容にクレアは眩暈を覚えざるを得ない。
(晩酌のオツマミだとばかり思っていたのに、あれが夕飯代わり? い、意味が分からないわ!)
心の中で盛大にツッコミを入れ、きっ! と険しい視線で非常識な隣人を睨む。
しかし、達也は能天気に微笑むばかりで一向に埒があかない。
自堕落な生活の末に彼が餓死する姿が垣間見えた気がして、クレアは背筋が寒くなってしまう。
そして、その時に芽生えた強烈な使命感に衝き動かされた彼女は、突拍子もない提案を口走っていた。
「そ、その……料理が苦手なのは仕方がないと思います。でも、だからと言って、今のような食生活を続けておられては御身体を壊してしまいますわ。差し出がましいのは承知していますが……今夜からは、私が、そっ、その……作り、うぅぅ……私がお料理をしますから! うちで一緒に夕食を召し上がって戴けませんか?」
さすがに気恥ずかしさが勝って、肝心な部分はしどろもどろになってしまう。
だが、彼女以上に狼狽したのは達也の方で、慌てて手を振ると彼女からの提案を断ろうとしたのだが……。
「いやっ、幾ら何でも……そんな迷惑をかける訳にはいかないよ」
「作る量が一人分増える程度です……迷惑と言われるほどではありませんわ」
思いの丈を吐き出して気が楽になったクレアは、笑顔を見せる余裕を取り戻し、淀みなく言葉を続ける。
だが、達也にしてみれば、それは不躾にも赤の他人の自分が、母娘だけの大切な生活空間に居座る破廉恥な行為にしか思えない。
自分の軽率な判断が元で、この母娘に迷惑が掛かる様な事になったら……。
そう考えれば、とてもクレアの好意に甘える気にはなれなかった。
「気遣ってくれるのは嬉しいけれど、これ以上迷惑をかけるわけには……」
重ねて固辞しようとする達也に小さく首を左右に振って見せ、クレアはその言葉を押し留める。
「迷惑だなんて……寧ろ迷惑をかけたのは私の方ですわ。お蔭様で私は辛い苦しみから立ち直れましたし……さくらは貴方に出逢えて本当の笑顔を取り戻しました。そして、何よりも貴方は候補生達の事を親身になって考え、周囲の批判や嫌がらせにも一歩も引かずに頑張っておられるじゃありませんか」
クレアはやる瀬ない表情で一度言葉を切ると、改めて決意を滲ませた視線で達也の目を見つめ返す。
「私など口先ばかりで何もできませんが、貴方の負担を手助けする事で候補生達の役に立てるのであれば、それに勝る喜びはありません。私にも何か貴方のお手伝いをさせて下さい……お願いします。白銀さん」
「ローズバンクさん、君は……」
真摯な想いを告げて頭を下げるクレアへ、達也は返す言葉を見つけられない。
すると、大人同士の難しい話を達也の膝の上で聞いていたさくらが、恐る恐るといった風情で口を開いた。
「ママぁ……今日から、達也お父さんと一緒にゴハンを食べられるの?」
「ええ、そうよ。白銀さんが『いいよ』と言ってくれたらね……もしそうなったら、さくらは嬉しいかしら?」
母親の答えを聞くや、さくらは再び身体の向きを変えて、達也の首に小さな両腕を廻してしがみ付いてきた。
「う、うれしい……さくら、すごく、うれしいよぉ~~」
啜り泣くようなか細い声が、幼い少女の気持ちを如実に代弁している。
嬉し泣きするさくらを見れば、クレアの提案を拒絶するのは不可能だった。
これほど切望している少女の想いを無下にするなど達也には到底できず、だから返事の代わりに小刻みに震える少女の身体を優しく抱きしめたのである。
「何から何まで本当に申し訳ない……お言葉に甘えさせてもらうよ」
「はい。どうか御遠慮なさらないで下さい……それでは、昼食を終えてから買い物に出掛けましょうか?」
「うわぁぁぁ! 三人でお買い物は初めてだねっ! ねえ、ねえっ! ママ!? 今夜のおかずはハンバーグにしてぇ~~!」
「もうっ! 一昨日もハンバーグだったでしょう? 今日は違うものにしますからね!」
「えへへへ……ママが作ってくれるものなら、なんだっていいよっ!」
そう歓声をあげたさくらは、達也から離れて今度は母親に抱きついていく。
「本当にもうっ……調子がいいのだからっ。あぁ、ついでに家電量販店で最新式のマイクロAIを搭載した洗濯機や掃除機を買ってはいかがですか?」
「へっ?? そんな物があるのかい?」
クレアの言葉の中に聞き慣れない魅惑的な単語を発見した達也は問い返す。
「はい。設定次第では、ほぼ全自動で家事を代行してくれる便利な高級機も実用化されているのですよ……尤も、その分お値段も破格ですが」
「そんな便利な物があるんだ……それじゃぁ、少しは楽ができるかな?」
家事の負担が減ることを期待した達也へ、機先を制すかのようにクレアは半眼で言い放った。
「定期的に抜き打ちでチェックしますから……スペアーのカードキーもある事ですし……不合格の場合は分かっていますわよ……ね?」
「……はい。頑張ります」
《蛇に睨まれた蛙》同然の達也は、クレアの恫喝に無条件降伏するしかなかったのである。
こうして三人は温かい交流を経て、また一歩お互いの距離を縮め親交を深めるのだった。
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