第五話 日雇い提督といじめられっこ ②
「なるほどねぇ、三流ドラマの悪役じゃあるまいし……今どき軍の階級にどれほどの有り難味があると思っているのかな? そんな愚物が司令官? 悪いジョークを聞かされているみたいだ」
話を聞いた達也は、余りに低次元の内容に頭痛を覚えざるを得なかった。
知っている限りのことを話してくれたクレアと志保も、そんな達也の様子を見れば表情を曇らせざるを得ない。
先日堤防で出会った皇神鷹の態度が気に掛かり、誰かに事情を教えてもらおうと早朝に出勤した達也だったが、頼りになるのはこのふたりしかおらず、やむを得ず人目の多い教官室で声を掛けたのだが……。
口に出しては言えないが、他の教官達の前で彼女達に接近するのは非常に勇気がいる……迂闊に近づこうものなら、周囲の男共の嫉妬ビームが突き刺さり居心地が悪い事この上ない。
然も、クレアは兎も角も、志保に至っては自分の利になるならば、躊躇いもなく達也を陥れて恥じないという悪癖持ちだ。
執拗にデートを申し込んでくる鬱陶しい蠅共を阻む壁役として利用しただけでは飽き足らずに、『無料奉仕でもいいわよね?』という厚かましい魂胆を隠しもしない鬼畜っぷりには呆れる他はないだろう。
その所為で、男性教官の達也に対する評価は怨念に塗れたものになり、相談事を持ちかける相手さえできない村八分状態に置かれているのだから始末に悪い。
自分の寂しい対人関係の立て直しを心に誓いながらも、神鷹の思い詰めた表情を思い出した達也は考え込んでしまう。
(死神に憑りつかれていた……然も欠片ほどの余裕もなかったな。となると破綻するのは、そう遠い先の話でもないか……)
長い戦場暮らしで心を病んだ部下を大勢見て来た経験から、神鷹が精神的に限界が近い状態なのを達也は見抜いていた。
「軍という組織の中でしか役に立たない階級制度に拘泥し驕るなんて、何を勘違いしているんだ? 上級職者こそ身を慎んで部下将兵の規範となるべきなのに」
現職の将官たる父親が職権を盾にして息子の後押しをし、息子はそれを甘受して憚らない。
そんなヴラーグ親子の不道徳な行いを知った達也が、苛立ちも露に愚痴を零すと、クレアが気遣うような顔で訊ねて来た。
「銀河連邦宇宙軍でも同じ様な不正はあるのですか?」
「ははは。残念ながら連邦軍は更に性質が悪いかもしれないね。軍の階級以前に、貴族閥と平民閥に勢力が二分化され、それぞれの士官同士の対立が厳然と実在する……そんな馬鹿な確執に労力を払う余裕など欠片もないというのに」
達也の顔に浮かぶ自嘲の苦笑いを見て、クレアは悪い事を聞いてしまったと思い謝罪しようとしたが、彼の肩をポンと叩いた志保が励ます様に言葉をかけたので、その言葉を呑み込まざるを得なかった。
「何処にでもその手の話は付き物よ……私達のような下っ端が気にしてどうなるものでもないし、落ち込むだけ損だからシャンとしなさい!」
「あっ、あぁ……そ、そうだな……」
志保に励まされるとは思ってもいなかった達也は元より、クレアまでもが呆気にとられた顔で彼女を見てしまう。
二人の如何にも驚きましたといった様子に、志保はショックを受けたと言わんばかりに大袈裟に嘆いて見せた。
「何よぉっ! ふたりして変な目で……あぁっ、傷つくわぁ~~これでも白銀さんには日頃迷惑を掛けているから、何か力になれればと思っただけなのにぃ~~」
(( 迷惑を掛けているという自覚はあったんだ…… ))
奇しくもふたりして同じ感想を懐いたが、端正な顔を歪め両手で覆って背を向ける志保を見れば言葉にできる筈もない。
両肩を小刻みに震わせている彼女の様子を見た達也は狼狽し、打ちひしがれる志保の背中に手を添えて弁明した。
「ご、ごめん。悪気はなかったんだ。ただ、突然だったから……」
「どうせ私は何時も巫山戯ていて可愛げのない女ですからね!」
「い、いやいや! そんな事は思ってもいないよ。君は美人で魅力的な女性だし、ああ……なんて言えばいいのか……」
志保の涙声が達也を更なる混乱へと突き落す。
だから、彼女の懇願を何も考えずに受け入れてしまったのである。
「そ、それじゃあ……私のお願いを聞いてくれる?」
「も、勿論だよ! 俺にできるなら何でも……」
達也が確約した途端にペテン師は両手を握り締めてガッツポーズ。
「よぉっしっ、言質は取ったわよ! 教え子たちに高級フレンチを奢ったと聞いたわ。私も食べてみたいと思っていたのよぉ~~是非とも御馳走してくださいね! 白銀さんっ! あぁっ! クレアも一緒ですからね。お忘れなくぅ~~」
悪辣な詐欺に引っ掛かったと気付いた時は既に手遅れだった。
「き、汚いぞ! 美人の嘘泣きは反則じゃないかぁ──っ!」
眉間を押さえて呆れかえるクレアの隣で、満面に笑みを浮かべ勝ち誇る志保。
達也は声を大にして非難したが後の祭りだ。
しかし、よくよく考えてみれば……。
(うん? 美女ふたりと食事できなんて……寧ろ、ラッキーなのか?)
そう無理やり自分に言いきかせた達也は、己の不甲斐なさから目を逸らして現実逃避するしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
二限目の授業が終わった後、自治会の報告書を担当教官に提出するため、神鷹は教官室へと向かっていた。
しかし、全学年の教室がある本校舎から管理棟へと続いている屋根付きの通路に差し掛かった時、木立の隙間から見える人気のない裏庭に複数の顔見知りが屯しているのが目に入り、無視できずに足を止めてしまう。
辺りを窺いながら裏庭の奥へと姿を消したその集団は、間違いなくヨハンと彼の取り巻き連中だ。
関わり合えば陸な事にはならない……。
そう考えて立ち去ろうとしたが、得体の知れない不安を感じて思い直し、裏庭に足を踏み入れた。
ヨハンらを見つけるのは造作もなく、巨木で遮られ陽の光も半減する薄暗い空間に固まり、何やら密談しているのが見て取れる。
神鷹が複数の木立ちの陰に身を潜めながら足音を忍ばせて近付いていくと、耳に飛び込んで来たその密談の内容に愕然とさせられてしまう。
「いいか。これ以上、真宮寺の奴に大きな顔をさせておくわけにはいかねぇ」
「でも、どうするんだよぉ? 奴は普段は大人しいが、キレたら手が付けられない校内でも有数の喧嘩屋だ。下手をすれば、俺達の方が怪我をするだけだぜ?」
「……奴の幼馴染の如月を狙うんだよ」
「そりゃあ無理だぜ。あの女だって真宮寺に劣らない怪物だ。返り討ちに遭うのが関の山じゃないのかよ?」
これまでも度々痛い目に遭っているだけに取り巻き達は一様に及び腰だったが、ヨハンは仄暗く濁った瞳で彼らを睨みつけた。
「昼休みにニセの伝言で如月だけ呼び出して不意をつく……全員でかかれば所詮は女だ……裸に剥いて写真と動画を撮って脅せば俺らの言い成りだ。それをネタにして真宮寺も這いつくばらせてやるんだよ!」
狂気を孕んだその物言いは、取り巻きたちに一種の高揚感を植え付けたらしく、学内有数の美少女を好いように弄ぶ妄想に理性の箍が外れた彼らは、下卑た喜色を浮かべて頷く。
(た、大変だっ! だ、誰かに知らせなきゃ……)
詳細な打ち合わせを始めたらしく、ヨハンらは声を潜めて密談に熱中している。
その隙にその場を離れようとした神鷹であったが、足腰に震えが来ていたのが災いし、地面から浮き出ていた木の根に躓き倒れてしまう。
「誰だっ! あっ、神鷹っ! てめえぇっ! 盗み聞きしていやがったなぁッ!」
「ひ、ひいぃぃっ!」
その音に気付いたヨハンの怒声に打たれ、身体が恐怖で委縮したて神鷹は、あっという間に彼らに取り囲まれて、鬼のような形相のヨハンに制服の胸倉を掴まれて引き摺り起こされた。
「今お前が聞いた話を誰かにチクったりしたら只じゃおかねぇぞっ! もしも俺らに不利になる事を喋ったりしてみろ……お前の親父の首なんぞ直ぐに捩じ切るなどは造作もないんだからなっ!」
「そ、そんな……父さんは関係ないじゃないか。それに、如月さんを襲ったりして騒ぎが大きくなったら、君達だって只ではっ、がぁっ!」
説教は無用とばかりに右拳が腹部に打ち込まれる。
激痛に顔が歪み、胃液が込み上げて来て口の中に溢れた。
「誰が只じゃ済まないってぇ? こんな田舎の士官学校の教官風情が、親父の意向に逆らって俺を処分できる訳がねえだろうっ! 今度こそ図に乗っている真宮寺と如月に俺の力を見せつけてやるッ……あいつらに屈辱を味あわせてやらなきゃ気が済まねえんだよっ!」
狂気にも似たヨハンの思いに気圧された神鷹は顔を顰めるしかない。
(無茶苦茶だ……でもどうして蓮と如月さんを目の敵にするんだろう? 昔はそれなりに交流があったのに……)
「どうしてあのふたりを目の敵にするのさっ!? 一年生の頃は仲が悪いわけでもなく普通に会話していたじゃないか? それなのに……」
そう問うた瞬間、ヨハンの顔が沈痛に歪んだように見えたが、直ぐに憤怒の表情を浮かべた彼に地面に叩きつけられてしまった。
「臆病者のくせに生意気言ってんじゃねえぞッッ!」
その罵倒と同時に取り巻き連中から容赦ない蹴りが加えられる。
神鷹は抵抗する術もなく、両手で頭を庇い亀のように身体を丸めて嵐が通り過ぎるのを待つしかなかったのだ。
丁度その時に三限目の授業開始を告げるチャイムが裏庭にも鳴り響き、地面に蹲って呻く神鷹へヨハンは唾を吐いた。
「いいか! 自分の身が可愛けりゃあ、大人しくしていろよ神鷹! もし変な真似をしやがったら……死んだ方がマシだと思う目にあわせるからな! いいなッ!」
そう吐き捨てたヨハンは取り巻き連中を従えて裏庭から姿を消したが、一人残された神鷹は、理不尽な暴力の残滓に己の無力さを思い知らされて嘆くしかない。
(どうして僕は……こんなにも意気地がないんだろう……友達が危ない目に遭うかも知れないのに何もできないなんて……)
今まで辛うじて心を支えていたものが音を立てて崩れていく……。
そんな無力感に神鷹は打ちひしがれるのだった。
◇◆◇◆◇
何処をどう歩いたのかすら覚えていない。
気が付けば教室には戻らず、管理棟舎の屋上に立っていた。
他の校舎と比しても地上七階建というのは決して高いわけではない。
しかしながら、安全に配慮し設置されている高さ二mのフェンスの向こうには、遥か水平線の彼方まで続く蒼海と抜けるような青空が拡がっている。
普段ならば心洗われるそんな絶景も、今の神鷹を慰めるには至らなかった。
(ヨハン達の企みを誰かに喋っても、喋らなくても僕を待っているのは地獄だ……ならば、いっそ……騒ぎになれば彼らも思い直してくれるかもしれない)
心が傷つき折れた状態では、往々にして陸な考えが浮かばないものである。
然も、そのような時に限って最悪の選択を最上だと思い込み、短慮な行動に突っ走ってしまう。
この時の神鷹が正にそれであり、金網の向こうにある蒼穹に魅かれるように、フラフラした足取りでフェンスに近付いていく。
(これを越えれば、きっと楽になれる……ご、ごめんよ、父さん、母さん……)
しかし右手が金網に掛かったその瞬間、背後から声が投げ掛けられた。
「そのフェンスの向こう側に天国などは在りはしないよ……皇 神鷹」
唐突な言葉に驚いた神鷹は反射的に振り向いてしまう。
彼の視線の先には屋上への出入り口に背を預け、腕組みをしてこちらを見ている新任教官白銀達也の姿があった。
銀河連邦宇宙軍の現役大尉であり、先日教官として本校に赴任したという程度の情報しか知らなかったが、心の奥底まで見透かされるかの様な彼の視線には不気味さを覚えずにはいられない。
「な、何ですか? 授業を欠席したのは……気分が悪くて……その……」
しどろもどろになって口籠ると、達也は両肩を竦めて物騒な言葉を口にした。
「お前の背中に死神が見えるんだ……そいつとは古い付き合いでね、何人もの仲間を連れていかれたものさ。ほら、今回はお前を御所望らしい……物欲しそうな顔で鎌を首筋に押し当てようとしているぞ」
「ひいぃッッ!!?」
オカルト愛好家のジョークのような気安い物言いだったが、妙にリアリティーのあるその台詞に、神鷹は悲鳴を漏らして思わず背後を振り向いてしまう。
しかし、そこには先程までと変わらない風景が拡がっているだけだった。
ホッと安堵する神鷹に、達也は口元を小さく歪めて不思議そうな顔で訊ねる。
「そもそも……虐げられ、尊厳を踏み躙られている者が、なぜ死ななければならないんだ? 馬鹿々々しいとは思わないのか?」
余りにも唐突で明け透けな問いだったが、自分が置かれている理不尽な状況を、この新任教官は知った上で話しているのだと神鷹は気付く。
だからこそ、嘲るような問いを口にした彼に激しい憤りを覚え、気が付けば激情に衝き動かされるままに、偽りのない心情を吐き出していた。
「馬鹿々々しいからどうだって言うんですか! 理不尽な言い掛かりであっても、立場も力もない自分に我慢する以外に何ができるというのですかっ!?」
「まぁね、おまえの事情には同情しないでもないが……我慢した挙句に命綱なしのバンジージャンプを選択というのも短絡的ではないか? そんな事をして一体誰が喜ぶというのだ? 両親か? 兄弟か? 友人知人か? それともおまえを虐げた連中か? そうでなければ、お前が選ぼうとしているのは自己満足という名の逃避に他ならない……俺はそう思うがね?」
「逃げてはいけないのですか? 傷ついてボロボロになる前に逃げ出したっていいじゃないですかっ! そんなのは僕の自由でしょう?」
表情一つ変えない新任教官の物言いが腹立たしくて、彼を睨みつけた神鷹は声を荒げてしまう。
しかし、顔を左右に振った達也は冷然とした声で言い放った。
「逃げて何が変わるというんだ? 一時的に安寧を得られたとしても、所詮束の間の事に過ぎない……ましてや、自死という選択は人として最低の行為だよ。絶対に許されない行いだ」
そう強く断定されると神鷹は返す言葉に詰まってしまう。
「人は長い人生の中で辛く厳しい現実に何度も直面する……本人が望むと望まざるとに拘わらずだ……何度でも突きつけられる苦難を避ける術がないのならば、歯を喰いしばって乗り越えるしかないだろう?」
「そ、それは、それは貴方の考えであって……誰もが貴方のように強いわけじゃないんだ! 何処かに救いがないと弱者は生きて行けませんよ!」
胸に痛い厳しい問いに神鷹は叫ぶように言い返していた。
「まあ、自分でも酷な事を言っていると自覚はあるさ……だが、お前は何を目指しているんだ? 仮にも軍人を志す者がそんな脆弱な意思でどうする? 俺は軍人だから、その辺の左翼かぶれの似非教育者が口にするように『辛ければ、逃げていいよ』等と無責任な台詞は口が裂けても言えない……」
自分を射竦めるその視線に強い意志を感じ、神鷹は慄然とさせられてしまう。
「一度でも逃げるという安易な選択をした者は、その後も何かある度に逃げ続けるものだよ。どんなに美辞麗句で誤魔化そうともそれだけは変わらない。そうならずに立ち直るのはほんの一部の者だけで、その他は逃げ続けた挙句に誰からも顧みられずに朽ち果てて逝くしかない……最初に逃げて良いと言った奴らは、そんな者達に対してどう責任を取るんだろうね?」
まさに身も蓋もないと言っても過言ではない言い種だったが、神鷹はそれを否定できなかった。
「……教えて下さい……このフェンスの向こうには何があるのですか? 僕は泥田の中で足掻くのに疲れました。だから……」
憔悴し切った神鷹は、自身が選択しようとした道の是非を問うた。
「さてなぁ……俺もまだ死神の手を取った経験はないから、そこに何があるのかは分からないよ。だが、お前を慈しんでくれる人々にとっては……」
惚けた物言いに神鷹がムッと顔を強張らせたのと同時に達也は言葉を紡いだ。
「お前の御両親や家族、近しい友人や知人……彼らにとっては、まさしく無間地獄そのものだろうさ」
強い言葉ではない……寧ろ抑揚のない台詞が耳朶を打つ。
その言葉は、自暴自棄になり自分を見失っていた神鷹の心に確かに届いたのだ。
脳裏に父母や五歳年下の弟、そして蓮や詩織など親しい友人達の顔が浮かぶ……その瞬間に心臓が強く跳ねた気がした。
それと同時に今まで抑えていた想いが堰を切ったように溢れて来て、涙となって双眸から流れ落ちる。
「うっ、うぅぅ……」
「お前の苦しみや懊悩を分かってやれなかったと嘆いて後悔し……お前を救ってやれなかったと苦悩に苛まれながら残りの人生を生きて行く……これを地獄と言わずして何だと言うのだ? 皇 神鷹」
「うぅぁ……あぁっ、うわぁぁぁ……」
その言葉が止めとなり、とうとう堪えられなくなった神鷹は、両手で顔を覆い、脱力したようにフェンスに背を預けてその場に崩れ落ちた。
(大切な人々の事を思い出せたのなら……もう大丈夫だろう)
達也は安堵の吐息を漏らす。
「自分の命を粗末にする前によく考えてみるといい。お前の死を悲しむ人が一人でもいる内は……断固として生きるべきだよ。誰が何と言おうが、それは正しい事なのだから」
追い詰められた人間は自分の周囲が見えなくなるばかりか、思考までが硬直して陸な事を考えない。
しかし、自分にも気遣ってくれる人がいると気付くだけで、妄執という牢獄から抜け出す切っ掛けを得る事がある。
自分の死を切っ掛けにして家族が死に勝る苦しみを背負うのだと気付いた神鷹は、ようやく死神が差し出した手を振り払えたのだ。
「これ以上の御節介は必要ないだろう。だから、これが最後だ……お前は『泥田の中で足掻く事に疲れた』と言ったがな……軍人なんて毎日泥仕合を繰り広げているようなものさ……泥仕合はな、多く泥を投げた奴が勝つのではない。泥の中で踏ん張って立ち続けた奴が勝つのさ。今ここがお前の踏ん張りどころじゃないのか? 強い心を持て……おまえに必要なのはそれだけだよ」
達也は一方的にそう告げると踵を返し、屋上入り口から校舎内へと姿を消した。
残された神鷹の頭の中では、今しがた達也が残した最後の言葉が、繰り返し木霊している。
(そうだ。逃げても何も救われやしない……僕が僕である為にも、ここで踏ん張らなくてどうするんだ!)
『強い心を持て』
そう発破を掛けてくれた教官の言葉が胸に沁みて、誰もいない入り口に向かって深々と頭を下げ謝意を表した。
と同時に授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
慌てて時計台に目をやると、四時限目が終了した合図だと分かって愕然とした。
三時限目の終了チャイムに気付かずにいたらしい。
(い、いけない! 如月さんが危ないっ! ヨハン達が本気なら今頃……早く蓮に知らせないとっ!)
ヨハンらの奸計を知りながら、親友の危地を見過ごす事など出来る筈がない。
譬え、その為に今後悪質な仕打ちや嫌がらせを受けるとしても、友達を見捨てた自分を恥じて生きて行くよりは遥かにましだと神鷹は腹を括った。
新任教官の言葉通り『此処が踏ん張りどころ』だと胸中で繰り返し、自らを鼓舞して立ち上がるや猛然と駆け出すのだった。




