第四話 日雇い提督と少女の哀願 ③
達也に縋って泣き続けていたさくらは、温もりに包まれて安心したのか、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
一緒に遊園地に遊びに行く約束をママとしていたのだが、お仕事の都合で駄目になってしまった事。
昨夜そう告げられて落胆したが仕事だから仕方がないと我慢し、心配を掛けないように笑顔を取り繕った事。
でも、布団に入ってから急に悲しみで胸がいっぱいになり、ティグルを抱いた儘泣いてしまった事……。
幼い少女の口から途切れ途切れに零れ落ちる切ない想い。
「どうして、さくらにはパパがいないの!? どうして、寂しいのをがまんしなくちゃいけないの? ねえ、白銀のおじちゃんっ!? どうしてなのぉ!?」
大好きなママを悲しませたくない。
そう考える少女は自分の渇望を押し殺して心の痛みに堪えてきた。
しかし、幼いさくらが許容できる痛みなど、ほんの僅かなものでしかない。
だから、その痛みが限度を超えた時、積りに積もった寂寥感が堰を切って溢れ出し、少女に悲泣の涙を流させたのだ。
咽び泣くさくらの震える背中を優しく撫でてやりながら、達也は静かな声で少女を慰めた。
「今までよく我慢してきたね……おじちゃんもね、三歳の時にパパとママが死んでしまったんだ……だから、さくらちゃんの寂しい気持ちは良く分るよ」
その言葉に驚いたさくらは達也を見つめるや、か細い声で問い返す。
「白銀のおじちゃんのパパとママも天国にいっちゃったの?」
「うん……あの頃は今のさくらちゃんみたいに、寂しくて泣いてばかりだったよ。でもね、僕には僕の事を大切に想ってくれる人達がいてくれたんだ……だから寂しくはなかった」
穏やかに微笑む達也は、諭すように言い聞かせる。
「君だって同じだよ。さくらちゃんを一番大切に想ってくれているママがいるじゃないか……保育園の先生達も、お友達だっている。僕もティグルも傍にいるよ……だから寂しくはないんだ」
その言葉がとても温かいものに思えたさくらは、大好きな人からの言葉が嬉しくて漸く泣き止む事ができた。
「ママはね。とても責任感が強い人だから、教え子の願いが叶うようにと一生懸命なんだよ。でもね、だからといって、さくらちゃんを忘れているわけじゃない……本当に大切に大切に想っている……僕はそう思うんだ」
自分が我儘を言って困らせているのに、達也は怒るどころか優しい言葉で慰めてくれる……然も、ママの事まで気遣ってくれるのだ。
何よりもそれが嬉しくて、達也を好きになっていく気持ちが胸の中で大きくなるのを、さくらは抑えられなくなってしまう。
「今度ママとお話しする時は、う~~んと我儘を言ってみるといい。さくらちゃんがしたい事、ママにして欲しい事……僕にでもいいぞ。もう少し我儘になっていいんだよ……さくらちゃんが遠慮して我慢していると知ったら、ママはその方が悲しいと思う筈だよ」
一方の達也は、陳腐な言葉しか思いつけない己の経験値の低さを恥じ入り、幼いさくらに都合の良い大人の理屈を押し付けているだけではないかと、忸怩たる思いを懐いていたのだが、それは杞憂にすぎなかった。
少女にとって大切なのは、ママや達也が自分を想ってくれているという事実だけだったのだから……。
今まで頑なに懐いていた価値観が崩れ去った時、さくらの胸に去来した想いは、目の前にいる人を求める激しい渇望だけだった。
(もっと一緒にいたい。もっと遊んでもらいたい。もっと抱きしめてほしいっ! もっと! もっと! もっと仲良くなりたいッ!!)
切ない想いが胸に弾けた瞬間、さくらは無意識のうちに自分の願望を言葉にしたのである。
「じゃあ、さくらのわがままを聞いてよっ! 白銀のおじちゃんを、パ、パパって呼ばせて……さくらのパパになってほしいのぉっ!」
少女のその突拍子もない懇願に狼狽した達也は、咄嗟に言葉を返せずに口籠ってしまう。
我儘を言っても良いとは言ったが、全ての願いを叶えてやれる訳ではないのだ。
然も、この先長くても一年ほどしか地球に居られない自分が、したり顔でローズバンク家の内情に首を突っ込んでいい筈はなく、況してや赤の他人の自分がさくらの父親を騙って親子の真似事をするなど偽善以外の何ものでもない。
そして、当然だが、そんな愚挙をクレアが許さないのは自明の理だ。
だから言葉を飾らずに、『それは出来ない』とはっきり断ろうとしたのだが……達也は喉まで出かかった言葉を呑み込まざるを得なかった。
それは、涙で濡れた瞳に切ない想いを浮かべた少女が、小さな手でジャケットを握り締め、愛らしい唇をキュっと引き結んで自分を見ていたからだ。
(ただの思い付きではないという事か……それにしても……)
その強い願いを色濃く宿した視線に気圧された達也は、即座に拒絶するのを躊躇ってしまい、もう少しだけさくらの話を聞くべきではないかと迷ってしまった。
「う~~ん。それはどうかなぁ……僕は、さくらちゃんの本当のパパじゃないし、結婚もしていないから、パパの役なんて無理だと思うよ?」
努めて穏やかな表情でそう告げたのだが、少女は見る見るうちに表情を暗くして項垂れてしまう。
それでも諦め切れないさくらは、ジャケットを握り締める小さな手に力を込め、おでこを達也の胸に押し当てるや、弱々しい声音で切ない想いを吐露する。
「……そんなの、わかっているよ……でも、さくらのパパは写真の中にしかいないんだもん……話しかけても何も答えてくれないし、手もつないでくれないもん……抱っこもしてくれないもん……だ、だから、だからぁぁ……」
喋れば喋るほど、鼻がグズグズになって涙が溢れてしまう。
(白銀のおじちゃんも……さくらがわがまま言ったら迷惑なんだ……)
そう考えただけで先程までの高揚感は跡形もなくなり、悲しみが胸の内に拡がっていく。
少女の小さな身体から伝わって来る切ない想いが、達也には手に取るように理解できた。
それは、嘗ての幼い自分が懐いたものと同じ想いに他ならないから……。
それでも毅然と拒絶するのが大人としては当然の選択であり、それが、結果的にさくらを一番悲しませないで済む最善の方法なのだと分かってはいる。
だが、曖昧な問いを返した時点で、大人としては失格だったのかもしれない。
なぜならば、目の前で落胆する少女に正論を押し付けるのが最善の方法だとは、どうしても思えなかったからだ。
(俺も甘い……自分で地雷を踏んで自爆するなんてなぁ……しかし、だったら俺が全部被ればいい。この娘の為に悪役になる必要があるのならば、躊躇う必要はないじゃないか)
そう腹を括れば、気持ち良いほど心が軽くなるのが分かった。
「いいよ、さくらちゃん……僕でいいのなら、パパの代わりになってあげる」
「ほ、本当っ! 本当にいいの? 本当にさくらのわがままをきいてくれるの?」
心からの願望が叶ったと知った少女は一転して喜びを爆発させて燥ぐ。
しかし、情に流されるだけでは陸な結果にならないと自戒する達也は、さくらを傷つけない為にも最低限のルールだけは決めておくべきだと思った。
だから、燥ぐさくらを公園のベンチに座らせた達也は、隣に腰を降ろして優しく頭を撫でてやりながら、諭すかの様に言い聞かせたのである。
「その代わり、これから僕が言う事を守ると約束して欲しい」
「うん! さくら、何でも約束するよ!」
「ありがとう。では一つ目の約束だ。僕を呼ぶ時は『パパ』ではなく『お父さん』と呼ぶ事……さくらちゃんのパパは写真の中の悠也さんだ。さくらちゃんが生まれる前にパパは天国に逝ってしまったけれど、今までも、そしてこれからも、お空の上から君を見守ってくれているんだ。だから悠也さんが本当のパパで僕は身代わりのお父さん。そう区別してくれると嬉しい」
幼いさくらには難しい話だが、パパが天国から見守ってくれているのだと言われれば、今までより断然悠也パパを身近に感じられる様になり、嬉しく思えて自然と顔が綻んでしまう。
「うんっ! わかった! 約束する」
「うん、ありがとう……もう一つの約束は、ママの前では僕を『お父さん』と呼んではいけないよ。今まで通り『おじちゃん』と呼ばなきゃ駄目だ。いいかい?」
「う~~ん……ママなら、さくらがお願いしたら、だいじょうぶじゃないかな?」
少し落胆したさくらの言葉を聞いた達也は頭を左右に振って駄目だと教えた。
「ママはね、君を愛しているのと同じ位、死んだ悠也さんを愛しているんだ。他の男の人では代わりが務まらないのさ。それは僕でも同じだ。だから、さくらちゃんが僕を『お父さん』と呼んでいると知ったら、ママは悲しんでしまうよ」
達也の言葉を理解すると同時に、さくらの胸の内に歓喜が拡がる。
(白銀のおじちゃんは、パパやママも大切にしてくれるんだぁ)
それが何よりも嬉しくて、幸せな気分が胸を満たすのが分かる。
だから約束を守ると固く誓い、想いの丈を込めてその言葉を口にしたさくらは、満面に笑みを浮かべて達也に抱き付くのだった。
「ありがとうっ! お、お父さん……さくらの、お父さんっ!」
(いつまでも隠し通せる筈はないが、この娘が笑顔でいられるのなら……甘んじて非難も罵倒も受け入れればいい)
そう心に決めた達也だったが、朝からずっと冴えない顔をしていたクレアの心中を慮らずにはいられなかった。
仕事の所為とはいえ、愛娘との約束を反故にせざるを得なかった事が、精神的な重圧になっていたのだと今なら分かる。
何とかしてやれないかと考えたが、補習の教官を代わるなど許される筈もないし、彼女の代役としてさくらを遊園地に連れて行ったとしても、何の解決にもならないだろう。
(ふむ……まてよ? そういえば、便利なモノが手に入ったじゃないか!)
不意に脳内に浮かんだブルーの船体。
あれこれと考え、何とかなりそうだと目途をつけた達也は、思わず口元に笑みを浮かべるのだった。
◇◆◇◆◇
『毎日最低三回はテキストを熟読しなさい』
今日も詩織に課せられたノルマを何とか達成した蓮は、大きく背伸びして強張った身体を解きほぐす。
新学期が始まったばかりとはいえ、今は気力、意欲ともに充実しており、勉強が楽しくて仕方がない。
初日から担当教官の達也に盛大な駄目だしを喰らい、その上で成績不振の原因を丁寧に説明された蓮は、正に目から鱗が落ちる思いだった。
そして、どう対応すれば良いのか指導されたことが大きな転機となり、それまで苦手だった学科も徐々にではあるが克服しつつある。
『基本的な知識に対する理解が充分じゃないから、課題に対して正しい判断ができない……それがお前の問題点だ。空いた時間で良いから基礎用語の勉強をやり直すといい』
そう指摘されてショックではあったが、その悔しさをバネにして奮起し、何度も何度も過去のテキストを読み返したのである。
然も、新任教官は欠点を指摘するだけではなく、蓮に必要だと思われる学習内容をテキスト化して与えてくれるものだから、その効果は如実に表れ始めていた。
教え子の為ならば手間暇を惜しまない達也に対し、日を追うごとに信頼と尊敬の念が大きくなり、それと並行して気力が益々充実していく。
良き教官に巡り合えた幸運に蓮は心から感謝するのだった。
(取り敢えずは、来月半ばの実地研修で成績順位を上げなきゃな)
当面の目標は明確でやる気は充分なのだが、如何せんガス欠では頭も身体も思うようには動かない。
時計を見れば一九:三〇を示しており、夕食時の混雑もピークを過ぎている筈だと思った蓮は、自習を中断して大食堂へと向かった。
候補生達にとって消灯就寝までの数時間は、最もリラックスして過ごせる貴重な時間であり、今も寮内の廊下や校舎外の彼方此方で仲の良い者同士が集って会話に花を咲かせている。
候補生の日常生活が自治会の緩い規約の中で統治されている現状では、士官養成学校とはいえ、普通教育課の学校となんら変わる所はなく、それなりに青春を謳歌する雰囲気があった。
(それにしても、今日の昼食は美味かったなぁ)
達也に御馳走になった人気のフレンチ料理は蓮と詩織の期待を裏切らず、充分な満足感と幸福感を齎してくれた。
尤も、お値段もそれ相応のものであり、メニューを見た蓮は目玉が飛び出るかと思うほど驚かされたのだが……。
それ故にコースのランチメニューを全て平らげた挙句に、デザートに特大パフェまで注文するや、見事に完食してしまった詩織には驚きを禁じ得なかった。
(あいつ……あんな細い身体の何処に、あれだけのモノが入るんだ?)
疑問は尽きないが、最近大きくなってきた胸のことなどを指摘しようものなら、半殺しの目に合うのは必至なので、それ以上は考えまいと思ったその時だ。
建物の角を曲がれば食堂は目の前という所で、視界の隅に不愉快な光景を捉えた蓮は眉を顰めて足を止める。
その光景とは、同学年の自治会副会長ヨハン・ヴラーグと取り巻き連中によって囲まれて蹲る親友の姿だった。
ヨハンの父親はロシア方面基地の司令官であり、本校に於いては所謂エリートと認識されている。
だが、彼は選民思想の持ち主でもあり、その粗暴な性格も相俟って、学年を問わず大半の候補生達からは嫌われている問題児でもあった。
放課後の自治権が候補生達に委ねられている本校では、学校側も積極的に彼らを指導しなかったが故に、父親である軍高級将官を恐れて忖度しているのだと候補生達の失笑を買ってもいる。
クレアや志保らほんの一握りの教官たちは例外ではあったが、表沙汰になるのは氷山の一角であり、問題の根本的な解決に至ってはいない。
そんなヨハンは蓮にとって正に水と油と言うべき存在であり、その上ある人物を巡って険悪な関係にあった。
その人物というのが、ヨハンと取り巻き達に囲まれて蹲っている自治会会長 皇 神鷹なのだ。
「なにやってるんだっ! お前らぁッ!!」
友人の苦境を見咎めた蓮は、放声一喝して彼らの輪に詰め寄った。
「なんだ真宮寺か……こりゃぁ自治会のミーテイングだぜ。部外者が余計な口出しするなよっ」
整った顔立ちに嘲笑を浮かべ、とって付けた様な言い逃れをするヨハンを睨みつけた蓮は、語気を荒げて理不尽な言い訳への追及をする。
「ミーテイングで暴力を振るうのかよ? 神鷹の頬が腫れてるじゃないか!」
「議論が白熱しちまってさぁ~つい……」
悪びれもせずに惚けた物言いをするヨハン。
険悪な雰囲気が周囲を包み込み、それが野次馬を呼び寄せてしまう。
温厚な性格だと言われている蓮だが、喧嘩の強さは学内でも屈指であり、そんな彼が唯一敵意を隠そうとしない相手がヨハンだった。
そもそも、蓮の成績が下位に低迷しているのも、この同級生との確執を良しとはしない教官達が素行考課を低く査定しているからだという噂が、実しやかに流れるほどに、ふたりの関係は抜き差しならないものになっている。
だが、睨み合う二人の顔が険しさを増した瞬間、蹲っていた神鷹がふらつきながらも立ち上がり間に割って入った。
「も、もう止めてくれよ……こんな場所で騒動は不味いから……」
切れた唇から薄っすらと血を滲ませる神鷹の仲裁に、ヨハンは鼻でせせら笑うような仕種をしたが、急にシラケたと言わんばかり両肩を竦めて見せた。
「おい。いくぜ……それじゃぁな、真宮寺。学年最下位のお前と顔を合わせるのも残り僅かだろうが、これ以上調子に乗って俺を不機嫌にさせるんじゃねえぞ!」
陳腐な捨て台詞を吐き捨てて去っていくヨハンを睨みつけていた蓮は、ハンカチで口元を拭う親友を気遣い言葉を掛ける。
「おい、大丈夫だったか?」
「う、うん……ありがとう、蓮……でも、これ以上は僕に関わらない方がいいよ。今は君自身の成績を上げるのが最優先なんだから」
「水臭い事を言うなよ。俺達友達だろう? 第一、自治会の会長はお前じゃないか、あんな屑どもをのさばらせておいていいのかよ?」
蓮の憤懣やる方ないといった物言いに神鷹は顔を歪め、彼にしては珍しく投げやりに言い捨てた。
「分かっているよ……でも僕のような臆病な人間に会長なんて務まる筈がないじゃないか。立候補したわけでもないのに……と、兎に角、もう僕に構わないでよ!」
「お、おいっ! 待てよ、神鷹っ!」
眼尻に涙を滲ませて走り去る親友の背中を見送るしかない蓮は、暫し、その場に立ち尽くすのだった。
◇◆◇◆◇
「やあ、朝早くから無理を言って悪かったね」
そう言って笑顔で出迎えてくれた達也にクレアは曖昧な微笑みを返し、居心地の悪さを押し隠す。
『明日の早朝、さくらちゃんとふたり一緒に時間を貰えないかな?』
昨夜、娘が就寝しようかという頃になって訪ねてきた達也にそう懇願されたのだが、クレアは一瞬だけ返答を躊躇ってしまった。
それはこの年上の同僚に漠然とした負い目を感じていたからに他ならず、素直に承諾するのが少々悔しかったからでもある。
帰宅してみれば、落胆していた筈の愛娘が見違えるような明るい表情で出迎えてくれたのだが、聡明なクレアは直ぐにその理由に思い至り、複雑な気持ちを懐かずにはいられなかった。
あれほど落胆していたさくらを元気づけてくれたのが、隣の【優しいおじさん】であるのは疑いようもなく、その気遣いに対して感謝しなければならないのは重々分かってはいるのだ。
しかし、傷心の愛娘を救ってくれた達也に感謝しながらも、クレアは母親として微かな嫉妬を覚えざるを得なかった。
(私がどうにかする前に、さくらを元気にさせてしまうなんて……これでは母親の立場がないじゃない……本当にお節介なんだから)
珍しく胸の中の自分が唇を尖らせて愚痴を零すのを自覚し、己の身勝手さに自己嫌悪して落ち込んだのが昨夜の事だ。
だから、達也からの提案に戸惑いながらも断ろうとしたのだが……。
「わあ~~っ! 白銀のおじちゃん。どうしたのっ!? こんな時間に」
パジャマ姿の愛娘が、びっくりする程の燥ぎっぷりで飛び出して来るや、躊躇いもせずに達也に抱きついてしまい、渋々ながらも申し出をOKせざるを得なかったのである。
その結果、休日の朝七:○○前という早い時間に、愛娘とふたり揃ってお出かけと相成ったのだが……。
「さて、時間が勿体ないから此方に来てくれないかな」
言われる儘に付いて行くと、彼はフロアーの奥の非常口を開けて螺旋階段の踊り場へと出て行く。
「一つお願いがあるんだが……これから体験する事は口外しないで欲しいんだ」
「そ、それは構いませんが……いったい何を?」
「まあ、それは口で説明するより試した方が分かり易いよ。それじゃあ、全員手を繋いで」
そう言われたクレアが恐る恐る二人と手を繋ぐや、達也の左手首の銀の腕輪から発せられた淡い光に包まれた。
視界が歪み周囲の風景が失われる中、何が起こっているのか理解できないクレアは狼狽して悲鳴を上げようとしたのだが、その前に身体は通常の感覚を取り戻し、何事もなかったかのように立っている自分に気付く。
だが、周囲を見廻したクレアは自分の頭が変になったのではないかと思い、危うく卒倒する所だった。
先程まで居たマンションの非常階段は何処にもなく、何時の間にか様々な機械に囲まれた殺風景な室内にいるのだから、驚くなという方が無理だろう。
「ふわぁぁ~~! すごぉい! 別の場所にきちゃったぁっ!」
無邪気に燥ぐさくらの様子から、これが夢の類ではないと悟ったクレアは、血相を変えて達也に詰め寄った。
「こ、これは、いったい何の冗談ですかッ?」
「ははは……ごめんな。実はこの腕輪は人間を転移させる装置でね、時間節約の為に使わせて貰ったんだ……あぁ、今まで散々人体実験をやらされてきたから安全は保障するよ。さあ、目的地はこっちだよ」
まるで他人事のように平然と語る達也に、まさしく開いた口が塞がらない心境のクレアは、手を繋いでブリッジを出て行く二人の後を追うしかなかったのである。
(おそらく此処は、昨日強引に配備された銀河連邦軍の戦闘艦だと思うけれど……人間が転移? いったい何の冗談なの? きっと悪い夢を見ているに違いないわ)
混乱したまま案内された部屋には、人が一人余裕を持って入れるカプセルが十機ばかり整然と並んでおり、片側の壁一面に設置されたコントロールパネルが不気味な存在感を漂わせている。
「さて、目の前にあるカプセルは、乗員の無聊を慰める為の娯楽型ヴァーチャルシステムだ。今日は束の間の夢を楽しんで貰おうと思って君達を招待したんだ」
その説明は理解できたが、納得できるか否かは別の話だ。
クレアは美しい顔を強張らせ、不快感を露にして達也に苦言を呈した。
「さくらはまだ五歳にもなっていないのですよ!? フルダイブ型のヴァーチャルシステムなど危険すぎます」
「君が心配するのは分かるけれど、こいつは士官学校で使われている機械の三世代は先を行く最新鋭機だ。如何なる年齢にも対応可能な優れものだし、安全性は銀河連邦科学アカデミーのお墨付きだよ」
「し、しかし、だからと言って……」
逡巡する彼女の視線の先には、さくらが興味本位でカプセルをペタペタ触っては嬉しそうにしていたのだが、直ぐに駆け寄って来た愛娘は、その円らな瞳を期待の光で輝かせて達也へ訊ねるのだった。
「白銀のおじちゃん? この機械でさくらに魔法をかけてくれるんだよね?」
「そうだよ。ママと一緒に夢の世界へ連れて行ってあげるよ」
達也とさくらの間では、既に話ができているらしく、クレアは何となく疎外感を覚えたが、この提案を拒めば、さくらが落胆するのは想像するに容易い。
クレアは恨めしげな視線で眼前の御節介男を責めたが、愛娘の為ならばと渋々ながらも承諾するしかなかったのである。
そんな彼女を見て安堵した達也はさくらをカプセルに寝かせ、簡単な注意を与えてからカバーを閉じた。
すると低い起動音がしたのと同時に、各パネルが息を吹き返したかのように動き出す。
「今、さくらちゃんのデーターを調べている……うん。特に問題はないようだ」
「……随分と簡略化された機械ですね。本校の物はヘッドギアとライフジャケットタイプの着衣……それに四肢にバンド式の端末を巻き付けていたと思いますが?」
「言ったろう? こいつは最新型だと。カプセル内のセンサーが使用者の精神コアと機械をリンクさせて、仮想空間へのフルダイブを可能にしている。使用者の体調も完璧に管理してサポートするから快適なものさ。さあ、横になって。君の意識が覚醒しない限りこのカプセルは開かない様になっている。だから、不埒なセクハラを心配する必要はないよ」
冗談っぽくそう言われて、初めてその可能性に気付いたクレアは顔を赤くしたが、ぷいっとそっぽを向いて言われる儘に仰向けに身体を横たえた。
同時にカプセルのカバーがゆっくりと降りて来て、密封された空間に閉じられてしまったが、窮屈さや不快感は感じない。
「こちら側では僅か二時間だが、カプセル内の時間は現実世界の五倍だ……十時間の魔法を堪能し、さくらちゃんとの約束を楽しんで来てくれ……」
カプセル内のスピーカーから伝わる達也の音声を耳にしながら、クレアの意識は急速に光の奔流に呑み込まれていく。
そして一瞬の後、華やかな喧騒に包まれて驚き目を開けたクレアは、様変わりした周囲の光景に呆然と立ち尽くすしかなかった。
大勢の家族連れやカップル等で辺りはごった返しており、どの顔にも明るい笑みが溢れている。
彼らが目指す先には、豪華な中世風のお城を模した城門があり、その向こうには様々なアトラクションが垣間見え、絢爛豪華な雰囲気を醸し出していた。
賑々しい遊園地にしか見えない光景を目の当たりにしたクレアは、先程の達也の言葉に漸く合点がいったのだ。
(……白銀さんは、私がさくらとの約束を反故にしないで済むようにと、気遣って下さったんだわ……)
そう気付いた途端、彼の好意を疑って変に邪推した自分が恥ずかしくなる。
(ちゃんと謝って……お礼を言わなければ……)
そう反省しながらも何気なく愛娘に視線を向けたクレアは、思わず相好を崩して含み笑いを漏らしてしまった。
なぜならば、周囲の華やかな光景を目の当たりにしたさくらが、呆然自失の状態で可愛い口をぽか~~んといった風情で開け放ち、キョロキョロと視線を彷徨わせていたからだ。
(これが仮想世界だなんてね……私でも信じられないのだから、さくらが惚けるのも仕方がないわね……人も建物もこんなにリアルで怖いくらい)
想像の範疇を超えたリアリティーに気圧されしたが、クレアは直ぐに気を取り直して愛娘の頭を優しく撫でてやる。
手から伝わる感触までが寸分違わず再現されており、呆れるやら可笑しいやらで、クレアは思わず顔を綻ばせずにはいられなかった。
「すごいね、ママ! 本当の遊園地に来たみたいだよぉ!」
「そうね……白銀さんが魔法をかけてくれたおかげね」
「うん! さくらうれしいっ! ママといっしょに遊園地に来れたんだもん!」
心底嬉しいのだろう……その顔を笑で彩る我が子が愛おしくて堪らない。
そして、この娘に素敵な笑顔を与えてくれた達也にも心からの感謝を伝えたい。
そう素直に思うクレアだった。
こうして久しぶりに水入らずの時間を過す母娘は、日常と何ら変わらない幸福な夢空間を時間が許す限り満喫したのである。
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