婚約指輪
「・・・君は、誰だい?」
起き上がった彼に言われたたった一言
その一言が私を地獄に突き落とすのは簡単だった
たった一瞬で
思考が停止し
視界が覆われ
聴覚が奪われた
信じられなかった
信じたくなかった
この世で最も愛する人が
この世で最も私を愛してくれていた人が
私を忘れてしまった
何故、なぜ、ナゼ
やっと戻った視界に映るのは
怪訝な顔をした愛しい人の姿
彼に忘れられてしまったら
私は何を理由に生きれば良いのだろう
彼だけが私の生きる意味だったのに
彼だけが私を理解してくれたのに
何故彼が、私ではなく彼が
こんな目に合わなければならなかった?
神様の悪戯だというのか?
もしくは、暇つぶしだったりするのか?
____あんまりではないか
この際、私のことなどどうでもいいのだ
私とは違って
彼を必要としている人は沢山いるのに
私で良かったではないか
誰にも、何処にも必要とされていない
私ではダメだったというのか
涙が溢れた
病室を飛び出した
階段を駆け上がった
私が居るのは屋上だ
私の知ってる「彼」の居ない世界なら
私は生きてなど居たくない
ならば、消えてしまおう
どうせ、忘れられた存在なのだから
柵を越えて、空を見上げて
溢れる涙をこらえることもせず
思うままに涙を流した
涙が止まった頃
ゆっくり前を向く
そして、そのまま体を前に倒す
体が重力に引っ張られて
落ちるスピードが増していく
徐々に地面が近付いてくる
5m
4m
3m
2m
1m
0___
________________________
俺が目を覚ました日
1人の女性が亡くなった
俺の前でぼろぼろ涙を流していた
なんだか、知っているような気がする女性だった
病院の屋上から飛び降りたらしく
死体は見るも無残な状態ではあったが
ただ1箇所だけ、綺麗に残っている部分があった
彼女の右手だった
長く細いその指は優しく触れたくなるような
強く握りたくなるような
不思議なものを感じた
そして、その右手の薬指には
太陽の光を浴びて
キラキラ輝く指輪があった
ふと、自分の右手を見た
同じような指輪が静かにそこに光っていた
『右手の薬指にはめる指輪は
婚約指輪って言うんだよ』
頭の中に、優しい声が響いた
誰のものか分からない
ただ、愛しく
同時に悲しく感じる声だった___